映画監督は時代にどう向きあうか?
シリアを脱出しフランスに亡命することとなったベテラン監督、オサーマ・モハンメドは、この問いを自らに発しつづける。
見出した最良の答えは、自らが「棄てた」はずの祖国・シリアの、その民衆レベルから起ち上がってくる厖大なインターネット動画にふれ、これを直視することだった。
見ること。見つづけること。祖国の現実を。けっして目を逸らさずに。
政府による、こどもまでも含めた市民への弾圧。拘束、暴行、拷問、虐殺。さらにアメリカ、ロシアなどの介入空爆による殺戮、破壊、荒廃、焦土化。
それらを無名の民衆が路上でそのまま携帯で記録した現場映像ほど、つよい訴求力を持つものはない。
一方で政府軍が現場で撮影した動画、まるで暴行や拷問を楽しむかのように写しとった映像もまた、あるがままの現実をそのまま伝えているという意味において、おなじようにつよい力を持っている。
オサーマ・モハンメドは、それら厖大な映像、1001のネット動画のひとつひとつを吟味し、熟考し、把握し、やがて、それらをモンタージュして、お互いを有機的に結びつけ、ひとつの大きな映画、自らの監督作品へと昇華させることを決意する。
映画監督は時代にどう向きあうか?
その最良の答えを、自らがいま置かれた、シリアから遠く離れた状況の中での 次の最良の答えを、彼は見出したのである。
シリアの無名の人々が撮った1001の独立した「映画」は、オサーマ・モハンメド監督12年ぶりの新作のための、1001の素材、撮影ショットとなった。それぞれがより意義あるものとして輝くために。
ショットの組み合わせを推敲し、編集を重ね、置き換え、並べ替え、モンタージュの試行錯誤を繰り返す。カットとなったショットたちは互いに衝突し、影響を与えあい、融合し、しかしそれぞれが持つ固有の意味は互いに尊重しあい・・・、そのようにして全体は止揚し、やがて、ひとつの大きな意味を持つ長篇映画となった。
しかしそれは、かつてのニューズリールやプロパガンダ映画、シネマヴェリテとは大きく一線を画し、ひとつの崇高なアート作品となっている。
それは、アラン・レネや黒澤 明、チャップリンなど世界の古典映画への敬愛、オマージュの念が作品全体を通底し、その思いが作品成立の大きな支えとなっており、つまりは、この作品は、「映画とは何か?」「映画をつくるとは何か?」についての深い考察と内省の映画となっているからだ。
そのように、これは、方法論的には、かつてない「あたらしい映画」を模索し追究しようとする試みである。
オサーマ・モハンメド監督は、そこに、いまはパリから祖国シリアを見つめるしかない自らの苦渋の思いと、それゆえ あえてこの映画をパリでつくろうとする決意表明を、モノローグとして全篇にわたって重ねていく。小声で陰鬱に語られるそれは、しかし、ほとんど悲痛な叫びとしかいいようのないものだ。
そうした創作のプロセスでオサーマは、インターネットの交流サイトを通じて、「シマヴ」と名乗るクルド人女性と出会う。
シマヴはオサーマにこう告げる。
あなたが撮りたい画を私に示しなさい。私はあなたの目となって、あなたのかわりに、足りないその画を撮ることでしょう。
人民の海と国家権力の森から起ち上がってくる厖大な映像たちを糸に映画という名のタペストリーを織りあげようとするこの方法論、試みを選択したからこそ起こりえた、これは奇跡だろう。
のちに共同脚本監督として名を連ねることになるそのシマヴとのやりとりもまた、オサーマ単独のモノローグとともに繰り返し重ねられる。その、詩のような対話が、かぎりなく美しい。
それはシリアの現実を永遠に映像にとどめようとする者たちの対話であり、シリア人とクルド人のあいだの対話であり、男と女の対話であり、そしてまたもちろん、人と人をつなぐ対話である。
そう、これは「対話の映画」なのである。「戦争」とは対極の「対話」の映画に仕上げている点がきわめて象徴的であり、絶望的な現認報告でありながらも、観る者に深い感銘をもたらす大きな要因となっている。
カンヌとヤマガタを震撼させたのも うなずける。いま最も観るべき映画である。
映画監督は時代にどう向きあうか?
ここに、ひとつの答えがある。
映画『シリア・モナムール』は 先日6月18日(土)から 東京のシアター・イメージフォーラムほかで公開が始まっています。ぜひご覧ください。
旦(だん) 雄二 DAN Yuji
〇映画監督・シナリオライター
〇CMディレクター 20年を経て現職
〇武蔵野美術大学卒(美術 デザイン)
〇城戸賞、ACC奨励賞、経産省HVC特別賞 受賞
〇日本映画監督協会会員(在籍25年)