小野耕世のPLAY TIME ⑥
「泳ぐひと」は、どこまで泳いだのか
前回私は、カーク・ダグラス主演の映画『脱獄』(1962)と、そのいわば原形とも言える西部劇『星のない男』について記したが、『脱獄』から6年後に公開された、やはり忘れ難いモノクロームの映画がある。それは、フランク・ペリー監督の『泳ぐひと』(1968)である。原題のThe Swimmerをそのまま訳した日本語タイトルで、これではなにがなんだかわからないが、映画の配給会社としても、これ以外のタイトルは、つけようがなかったのだろう。映画の内容は、まさしくタイトル通りなのだけれども。
アメリカの高級住宅には、必ず水泳プールがある。昼間、その水泳プールのまわりで、パーティが催され、多くの人々が集っている。そこに、水泳パンツ姿のたくましい身体をしたバート・ランカスターが演じる主人公がやってくる。
彼は、パーティに集った人たちに、にこやかに迎えられ、談笑したあと、プールに飛び込んで泳ぐ、そしてプールからあがると、そのままの姿で屋敷をあとにする。さらに次のプール付きの家のパーティに顔を出すためだ。
こうして彼は、いくつかの家を訪れ、そのたびに歓迎され、プールで泳いでひとときを過ごし、次の家へ向かう。
プールサイドの昼のパーティで、彼は陽光を浴びた輝ける存在である。だが、彼が最後に訪れた邸宅では、その屋敷はクモの巣が張っていて、さびれた廃墟のようになっている。彼は愕然として、そこにたたずむ。まるで彼は、いっきょに齢をとったように見える・・・。
それまで輝いていた陽光の時間は、<泳ぐひと>が気がつく前に、そこでとたんに<老化>してしまったのだった。
行く場を失って、泳ぐひとは、呆然とそこにたたずむほかはない。
この映画について私は「これはターザンの最後を描いた映画である」という感想をもち、そう記したことがある。ほかにそんな映画評をした者は誰もいない。
1912年に、冒険小説作家のエドガー・ライス・バロウズが生み出したジャングルの王者ターザン物語は、ハリウッド映画によって、そのイメージを世界じゅうにひろげていったキャラクターである。原作の小説に見られる類猿人ターザンは、イギリスの貴族の息子で、必ずしも明るい人物ではなく、むしろ笑わないキャラクターというのが私の印象だが、ハリウッドは、彼を陽性で、よく笑う快男児という性格にしたことで、映画は人気を博し、ターザンの名を世界にひろめたのだった。
映画『泳ぐひと』は、その陽気なターザンが、実際にはその邪気のないイノセントぶりによってしっぺ返しを受けるが、本人だけがそのことに無自覚である――という物語なのだった。
金持ちの家めぐりをすることでやっと彼は、自分の泳ぎを誇示するほかない。自分がすでに時代にそぐわなくなっているその違和感を、陽気なターザン本人だけが、気がついていない。そこで生まれる一種の崩壊感覚を『泳ぐひと』は描いていたのではないか。パーティというものが本質的にも偽善とともに、彼が周囲の時間が腐敗していくのである。
そして、明らかにターザンの時代の終わりを正面きって描いたのは、イギリスのヒュー・ハドソン監督による大作『グレイストーク』(1983)である。ここでは明白にジャングルのターザンの出世とその成長をバロウズの原作にのっとっているように見せつつ描き直しながらも、ついて<ターザン>ということばは、この映画のなかでただの一度も使用されなかったのである。
映画『グレイストーク』では、ターザンは、自分の父である貴族の里、イギリスの文明社会・ロンドンで社交界デビューを果たすまでになる。だが、文明になじめなかったこの青年が、再びアフリカに回帰しようとしたとき、もはやアフリカの状況がそれを許さなくなっていることがラストシーンには暗示されているようだった。
『グレイストーク』は、ハリウッド型ターザン映画に終止符を打ったのか――と私には感慨があったものだが、にもかかわらず、なおもターザン映画が作られて私を驚かせた。それはウォルト・ディズニーによる長編アニメ『ターザン』の公開だった。
なるほど、アニメーションという手があったな――と私は感じた。そして、そのアニメを見た私は、ひとつのトリックに気がついた。
ターザンの映画では、その背景としてのアフリカの人びとをどう描くのかが問題になる。グレイストーク<ターザン>は、英国貴族の忘れ形見だが、アフリカの人たちを、かつてのように白人の探検家などを助ける労働者、使役人のように描くのは、現在では、政治的に正しくない」のである。
ではどうするか。
ウォルト・ディズニーのアニメーションは、基本的には人間よりも動物たちを描くことが得意で、優れた作品を生みだしてきている。そして長編アニメ版「ターザン」には、いわゆるアフリカの黒人は、ついにひとりも登場しない。その役割は、すべて動物たちのキャラクターに置きかえられているのだった。なるほど、ディズニーは「政治的な正しさ」を確保するために、この方法をとったのだな――と私は思った。
このディズニー版「ターザン」のアニメは日本でも好評で、映画評も悪くなかったが、私のようにそのトリックを指摘した映画評はひとつもなかった。
そして二年ほどまえ、この映画にかかわったフランスのマンガ家が来日したので、私はこの点をたずねてみた。
小野耕世
映画評論で活躍すると同時に、漫画研究もオーソリティ。
特に海外コミック研究では、ヒーロー物の「アメコミ」から、ロバート・クラムのようなアンダーグラウンド・コミックス、アート・スピーゲルマンのようなグラフィック・ノベル、ヨーロッパのアート系コミックス、他にアジア諸国のマンガまで、幅広くカバー。また、アニメーションについても研究。
長年の海外コミックの日本への翻訳出版、紹介と評論活動が認められ、第10回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。
一方で、日本SFの創世期からSF小説の創作活動も行っており、1961年の第1回空想科学小説コンテスト奨励賞。SF同人誌「宇宙塵」にも参加。SF小説集である『銀河連邦のクリスマス』も刊行している。日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員に。