小野耕世のプレイタイム 5
鉄条網を憎む男
「ぼくのいちばん好きなアメリカ映画が、ふたつあるんだ」
と、そのアメリカ人が私に話したのは、たぶん1980年代のことだから、もう30年以上も前のことになる。
「それはね、ジョン・フォード監督の西部劇『捜索者』(1956)と、デヴィッド・ミラー監督による『脱獄』(1962)のふたつだよ」
と彼が話したのを決して忘れないのは、この二作は私自身がとても好きな映画だったからで、同じ想いを持つアメリカ人(たぶん30歳代半ばの男だったろう)に会えたことは嬉しかったものだ。
なにかのパーティで会ったこのアメリカ人の名前も彼の職業もすっかり忘れてしまっているのだが。
二本のうち『脱獄』は、原題を「Lonely Are the Brave」という。公開当時にこの映画を絶賛した人がいて、彼は「『脱獄』という日本語タイトルはひどいよ。ぼくだったら『最後の西部男』とするなあ」と映画雑誌に書いていたのを覚えている。
彼とは、亡くなられたマンガ家、やなせたかし氏である。
英語のタイトルをそのまま訳せば『勇者は孤独なり』となるが、それではあまりに映画のテーマがあからさまで、ちょっと照れくさくなる。そしてこの映画の内容は、いわば現代版西部劇なので、『最後の西部男』とは、まさにぴったりだと私も同感だった。主演はカーク・ダグラス、というよりも、今ではマイケル・ダグラスの父親である俳優といったほうがわかりやすいだろう。
牢に入れられていた主人公は、脱獄して、馬を連れて荒野をひとり行く。彼は、鉄条網というものを嫌い、境界線に張りめぐらしてある鉄条網を破って進む・・・。
それを追うのがウォルター・マッソーが演じるハイウェイ・パトロールの男なのだが、彼はどうも気が進まない。脱獄した男は、なにかまちがって捕まっていたようで、彼に同情する気持ちがある。
しかし、役目上、彼を追うほかない。このパトカーには、もうひとり助手の男がいる。この何も考えない、ただ上司の言うことに従うだけの無能な男のこっけいさが、見ていて次第にわかってくる。
脱獄した男は、パトカーの追跡をかわすため、あえていちばん難しい山越えする道を選ぶ。彼は馬から降り、馬をいたわり、引っ張りながら山を登っていく。それをパトカーの男は双眼鏡で見ていてつぶやく。「なんて奴だ!馬を連れて山を登るとは!」
とあきれて追われる男に敬意を抱く。ふつうなら、山を越えるには邪魔な馬を射殺して、ひとりで山を登っていくところだが、彼は愛馬を捨てずに、いっしょに山を登っていくからだ。
だが、役目は役目だ。パトカーでは山は登れないので、しかたなしに保安官はヘリコプターの応援を頼む。だが、ヘリコプターが飛んでくると、カーク・ダグラス演じる主人公は、ライフルでヘリコプターを撃ってしまう。ヘリコプターというのは、尾翼の部分を撃たれるとたあいなく落下してしまうのである。
「なんて奴だ。ヘリコプターを撃ち落としたぞ」と、ウォルター・マッソーのパトカーの男は、苦り切った顔をしながら、ますますこの脱獄者に感服してしまう。
いっぽう、アメリカの見事な舗装道路を、トラックが走っている。便器を山のように荷台に積んだトラックの運転手は、予定の時間までに、便器を目的地に運ばなくてはならない。さて、馬をいたわりながら逃亡していく男、彼をしぶとく追っていくパトカーの男、そして、ハイウェイを便器を運んでいくトラックの運転手――この三者が、どうからみあって物語は結末をむかえるのか?
『脱獄』は、お断りしておくと、カラーではなく白黒のフィルムである。私にとっては1960年代のアメリカの新しい感覚の映画群のひとつである。そして、マンガ家のやなせたかし氏が「最後の西部男」と述べたように、なにかの終わりの時代を描いた象徴的なアメリカ映画のひとつだったという気がする。
特記しておきたいのは、映画『脱獄』でカーク・ダグラスの演じた役柄には、その先駆けとなる映画があったことだ。
『星のない男』というその西部劇映画を私が記憶しているのは、それが1954年に48歳で急逝した私の父と、私がいっしょに見た数少ない映画のひとつだからだ。私が中学1年の頃だった。
キング・ヴィダー監督のこの西部劇映画の原題は「Man without a star」
というので、映画のタイトルバックに、「Who knows, who knows man without a star・・・?」(だれが知るか、星のない男のことを・・・)というフランキー・レイン(だったと思う)による主題歌が流れる。
この<星のない男>を演じるのがカーク・ダグラスで、この映画のなかで、彼が見せる拳銃さばきは当時、観客をあっと言わせたものだ。
ガン・ベルトのホルスターから銃を引き抜き、それを片手でくるくるまとわし、さらに別の手に持ちかえて回転させ、ありとあらゆる拳銃の曲芸を繰り返し、ホルスターに収めたかと思うと、すぐにまた抜いてくるくるまわす――流れるようなあざやかな手さばきを、観客はあっけにとられて見ているほかはない。
その芸を、口をあけっぱなしで見ているのがテキサスから来たいなか者の若者で、彼は主人公のカーク・ダグラスに弟子入りした青年のような役で、この映画に登場する。
ダグラスがこの若者を、その本名ではなく「おおい、テックス」と呼ぶのは、テキサス出身であることをからかっているのだった。
カーク・ダグラス演じるこの風来坊の西部男は、仕事を探しており、荒くれ男のカウボーイたちを募集している牧場主に、自分もやとってもらおうと出向く。美人の女性牧場主のところには、すでに多くの男たちが集っている。
「もう定員いっぱいよ」という女性牧場主のまわりで、荒くれおとこのひとりが、カーク・ダグラスにからんで、けんかを売る。ダグラスは、その男をたたきのめして、にこっと笑って女性牧場主に言う「ひとり減りました」。
この場面で、私の父か声をあげて笑ったのを、私はいまでも覚えている。そして、この陽気な西部劇のなかで、カーク・ダグラスが暗い表情で、自分の過去を語る場面があった。彼は、テキサスの青年に向かって、シャツの胸をはだけてみせる。そこには鉄条網で痛めつけられた傷が残っていた。この男にとって、鉄条網は自由を奪うものの象徴なのであった。
『星のない男』は、『果てしなき蒼空』などの西部劇大作を撮ってきたキング・ヴィダー監督の映画としては、軽い作品と言えるだろうが、やはり楽しい秀作 で、この監督の映画魂(だましい)といったものが輝いていた。
つまり、後の映画『脱獄』は、<鉄条網を憎む>カーク・ダグラスのキャラクターを引き継いだ現代版西部劇なのだった。
小野耕世
映画評論で活躍すると同時に、漫画研究もオーソリティ。
特に海外コミック研究では、ヒーロー物の「アメコミ」から、ロバート・クラムのようなアンダーグラウンド・コミックス、アート・スピーゲルマンのようなグラフィック・ノベル、ヨーロッパのアート系コミックス、他にアジア諸国のマンガまで、幅広くカバー。また、アニメーションについても研究。
長年の海外コミックの日本への翻訳出版、紹介と評論活動が認められ、第10回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。
一方で、日本SFの創世期からSF小説の創作活動も行っており、1961年の第1回空想科学小説コンテスト奨励賞。SF同人誌「宇宙塵」にも参加。SF小説集である『銀河連邦のクリスマス』も刊行している。日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員に。