小野耕世のプレイタイム③
「デルス・ウザーラ」の主演俳優に会った日
「映画『デルス・ウザーラ』の主役は、ウスリー地方の森を歩く猟師のデルスと、この地方を探検するコザック兵たちの隊長アルセーニエフです」
と私は、1975年8月、映画「デルス・ウザーラ」の有楽町の劇場での試写のとき、上映前の舞台に立って説明をした。
「映画はこのふたりの出会いと友情の物語なのですが、このワイドスクリーン映画の広い空の左と右に、太陽と月が同じ画面に映っている場面があります。そしてデルスは、まず太陽を指さして「あの人、いちばん偉い人」と言い、次に月を指さして「あの人、その次に偉い人」と、アルセーニエフ隊長に言います。映画のなかで、私がとりわけ好きな場面です」
まあ私は、手で指さすまねをして、そんな話を観客にしたのだった。
やがてこの映画の宣伝のため、主演のふたりの俳優が来日し、私は「キネマ旬報」の仕事で、ふたりに会うことになる。
アルセーニエフ探検隊長を演じたユーリー・ソローミンは、ハンサムで長身のロシアの人気俳優。いっぽうデルス役を演じたマクシーム・ムンズークは、背が低くずんぐりした俳優で、黒澤監督がオーディションで「この人だ」と選んだだけあって、山に生きる人そのままに見えた。
インタビューをしたホテルのガラスのテーブルのなかには、日本の古いコインが飾られていて、ムンスズークは好奇心まるだしで珍しそうに見つめていた。
映画のなかで、ふたりとも重装備の山男の荷物を背負っている。
「実際の探検隊と同じ装備で、なかに詰めるものも、ほんものと同じにしてあるので、とても重い。だからふたりで相談して、黒澤監督にわからないように、荷物の中身をちょっと減らしたりしたんですよ」
とソローミンは話してくれた。(インタビューの詳細は、当時の「キネマ旬報」を見てください。)
ソローミンは、黒澤明監督が亡くなった後も来日している。
本人がぜひと言うので、放送局に勤める私の知人が、彼を監督の墓に案内した。墓前にぬかずいたソローミンは、声をあげて泣いた。そこで彼が歌いだしたのは、映画のなかでコザックの探検隊が行軍しながら歌っていた歌なのだった。彼の映画主演歴のなかでも、「デルス・ウザーラ」への出演は、特別のことなのだった。
デルス役のマクシーム・ムンズークは、1999年、89歳で亡くなった。「デルス・ウザーラ」以後、出演依頼が殺到し、80歳まで映画に出ていた。
④「戦争よりもたいへんだったよ」
「生まれて初めて見た映画を、覚えていますか?」
二年前、何度目かの来日をしたフランスのコミックス作家、ニコラ・ド・クレシーに質問した。
「黒澤明の『デルス・ウザーラ』だと思う。
細かいところは忘れてしまったが、緑の葉がそよぐ場面の美しさを、今でも覚えている」と彼は答えた。
この映画の1975年夏の公開から、すでに45年も経ってしまった。
「デルス・ウザーラ」は、黒澤作品のなかでは、そう度々上映される映画ではないが、上映された場合には、私は必ず見に行くように心掛けてきた。
すでに何回も見ていることになるが、少し時間をおいて見ることになるので、毎回、新鮮な印象を受ける。決して古びないというより、見るたびに映画が新しくなっているような気がするほどだ。
それだけ、私たちの住む地球の環境が悪化してきているのかもしれない。「デルス・ウザーラ」に描かれた自然は、もとのままの美しさを保っているのだから。
私の友人でロシア人の画家がマカオに住んでいる。二年前に彼をタイパ島のアトリエに訪ねて映画の話をしたら、黒澤の「デルス・ウザーラ」はすばらしいと言う。
黒竜江の近くで生まれた彼は、映画の森林の近くで育ち、中学校の教科書に、ウスリー探検記が載っていて、「デルス・ウザーラ」の世界に親しんで育ったのである。
この映画の撮影には、ソヴィエトの軍隊が全面的に協力していた。すべて黒澤監督の言うとおりにするよう、百人もの兵士たちが、国家から命令を受けていたのである。
完全主義の黒澤監督のもと、それは苛酷な1年あまりだったことは、想像に難くない。
1975年4月に全撮影が終了、クランクアップした日、軍隊の責任者がおそるおそるたずねたと言う。
「ほんとか?ほんとに終わったのか?」
「ほんとに終わったんだよ」
それを聞いた兵隊たちは、「ウラー」と大声で叫び、こう言った。
「ほんとうの戦争よりたいへんだったよ」
「黒澤明 樹海の迷宮:映画『デルス・ウザーラ』全記録1971-1975」(小学館)に収録された日録を読むと、毎日のように黒澤はウォッカを飲み、日本とロシアのスタッフを怒鳴り続けていたことがわかる。
映画監督は必死だったのだ。
そして、この映画は、永遠の生命を持って残っている。
小野耕世
映画評論で活躍すると同時に、漫画研究もオーソリティ。
特に海外コミック研究では、ヒーロー物の「アメコミ」から、ロバート・クラムのようなアンダーグラウンド・コミックス、アート・スピーゲルマンのようなグラフィック・ノベル、ヨーロッパのアート系コミックス、他にアジア諸国のマンガまで、幅広くカバー。また、アニメーションについても研究。
長年の海外コミックの日本への翻訳出版、紹介と評論活動が認められ、第10回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。
一方で、日本SFの創世期からSF小説の創作活動も行っており、1961年の第1回空想科学小説コンテスト奨励賞。SF同人誌「宇宙塵」にも参加。SF小説集である『銀河連邦のクリスマス』も刊行している。日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員に。