映画『トイレのピエタ』(脚本・監督=松永大司)を観た。邦画であれ、洋画であれ、人がつくった映画を拝見するときは、できるだけ、なんの予備知識も持たず、白紙の状態で臨むようにしているので、それゆえ、思いがけなくも大きな収穫をいただくことが、ときとしてある。この作品は、まさにそれだった。傑作である。
筆を折った元画学生が鬱々と暮らすうちに不治の病に侵されるが、ひとりの女子高生との運命的な出会いと禁断の恋を通じて、自らの最期の生を、トイレの天井に繰り広げる大作絵画『ピエタ』に注ぎ込み、燃焼させる。
脚本がいい。物語の展開、エピソードの配分と役割、キャラクターの設定と機能、いずれをとっても申しぶんない。偉大な漫画家、手塚治虫さんが遺された、示唆に富んでいるとはいえ、ほんのわずかな数行のアイデア・メモから、これほどまでに豊かで圧倒的な物語を紡ぎ出すとは、おどろくべき才能である。
監督(ディレクション)がいい。演出者の、自らが向き合う物語とのあいだに保つ距離感と己れの立ち位置の把握、演出のキー・トーン、芝居の細部に至るまでの目配りとコントロール、寄り引きやカット割りまでも含めた最良の画づくりの追究、いずれをとっても非の打ちどころがない。揺るぎないディレクションというほかはないだろう。これが第一回監督作品だというのだから、おそるべき才能である。すでに老成の域に達している。
“芸術に生きること”と“食べていくこと”の相克、“若さ”と“それに反して早く訪れてしまう死”の問題、“生きること”と“死ぬこと”、成年と未成年の許されざる恋、といった複数の重要なテーマやモチーフが、互いを殺しあうことなく共存し、むしろ生かしあい、高めあって、ひとつの大きな物語へと昇華している。見事で敬服に値するシナリオとディレクションである。
そして、さらに驚かされるのは、この『脚本』(『原作』も)と『監督』という二つの難しい作業を、おなじ一人の人物が行なっているという点である。脚本・監督=松永大司。今年の脚本や監督の新人賞の、重要な候補になることだろう。
忘れがたい場面をひとつだけ挙げておきたい。
主人公が、再会した、かつてのガールフレンドに電話をかける。「こんどの火曜、あいてる?」
一転して、夜の街道をバイクで疾走する主人公。これを監督はサイレントで見せる。
──音のない世界。走る主人公のバイク。ややあって、スローに、アカペラで、つぶやくように主人公が歌う『威風堂々』のハミングが、そこにゆっくりと乗ってくる。
ナイフでスパッと切ったような鮮やかなシーン転換、サイレント画面、バイクの疾走、やがてそこに静かに聴こえてくる主人公の歌──。
この快感。きわめて映画的である。これが映画なのである。
(6月29日 鑑賞 @ シネリーブル池袋 2)
画像は、映画『トイレのピエタ』公式サイトより
http://www.shochiku.co.jp/toilet/index.php