人はだれもいつかは自分のとおり道をとおって過去へと戻らねばならない。自らのこれまでと、そして今に向き合うために。
映画『群青色の、とおり道』(佐々部清監督)を鑑賞した。音楽の道に進むことに反対され、勘当同然に群馬の家を飛び出した青年が、10年後に東京から故郷に戻り、家族、とくに父親、そして、高校時代の群青色のときの中に置き去りにしたガールフレンドや友人たちとの距離感、関係を見つめなおし、自分自身もあらたな成長を遂げていく、胸に迫る感動の物語である。
私の場合は映画だった。この作品の主人公と同じく高校生のとき、映画の道に進むことに、教育者の父は激しく反対した。東京の大学に進学するという形をとって、私は父と故郷から離れることにした。その、とおり道を何度も戻っては父と向き合い、自分がやろうとしていることを認めてもらうまでには、10年よりも長い歳月が、父と私のあいだを過ぎ去っていった。
そのことと重ね合わせることなくしてこの作品を鑑賞することは私にはできない。それゆえ、なおのこと、つよく共鳴し、深く感動し、激しく慟哭したのだった。
いや、これは私だけのことではないだろう。表現、芸術、ものをつくるということを志した者、あるいは、自分なりのなんらかの夢を抱いたことのある者には、きっと、この物語は、その心の琴線にふれることだろう。地方の小さな町のごくささやかな物語は、そのまま、いつの世にも、そして、どこに生きる者にも通じる、普遍の大きな物語となっている。
群馬県の太田市合併10周年記念映画として製作されたという。群馬の自然、群青色の田園風景が美しい。そこに暮らす人々の温かさ、優しさが胸に沁みる。佐々部清監督の練達の演出と、スタッフのたしかな技術、俳優陣一人ひとりの好演が、心に残る青春映画、人間ドラマとして見事に結実している。
人はだれもいつかは自分のとおり道をとおって未来へと進まねばならない。自らの今と、そしてこれからに立ち向かうために。
それを象徴するかのような、クライマックスの、これまで未完のままとなっていた曲の10年ぶりの完成と、地元に伝わるねぷた祭りの圧倒的な昂揚が印象的だ。そして、おもな登場人物が一堂に会するラスト・シーンが、観る者に救いと希望の思いをもたらし、忘れがたい余韻を残してくれている。
(6月3日、試写にて鑑賞)