シネフィル新連載 : 映画監督・旦 雄二の ☆ それはEIGAな! 5(通算 第24回)
映画『アメリカン・スナイパー』を観賞して -cinefil
映画『アメリカン・スナイパー』を観た(2月27日@丸の内ピカデリー1)。
タカ派で知られるクリント・イーストウッド監督だが、この映画が いくぶんヒロイックで戦争肯定的な仕上がりになっているのは、そうした彼の政治的信条の反映というよりも、現に実在する国家的「ヒーロー」の実話を基本に物語っていかなければならないことによるものだろう。
そのあたりをべつにすれば、この巨匠は、いつものように、そう、『父親たちの星条旗』や『硫黄島からの手紙』のときと同じように、「敵」や「味方」への分け隔てない公正で客観的な視座を、ここでも常に貫いている。
大きく引いた、いわば神のような高い視点から、冷徹に、国家、集団、人々のあいだで起こりうる、戦争、闘い、争いというものの真実、本質に迫ろうとしている。
それは、たとえば あのジョン・フォードでさえも到達しえなかった作家的境地、高みである。これこそ真の映画作家というべきだろう。
上映時間中、凄まじい戦闘と殺戮がたえず連続するのだが、映画全体の「読後感」としては、なにか、一幅の荘厳な宗教画を鑑賞したような、あるいはまたその一方で、きわめて精緻な静物画の小品に出会えたような、清廉で豊かな心持ちをもたらされる。
戦争の最前線で、戦闘行為の真っ最中に、故郷に残した妻と携帯電話で私語が交わせる国。
戦争の現場と銃後が地続きの国。
四六時中、世界のどこかで戦争をしている国。
国民が自国のすべての戦争に等しく関わり、その病をもまた一様に背負う国。
政権中枢、軍部、民間、大人から子供に至るまで、アメリカという国に生きる者は、ただの一人も残さず、戦争加害者であると同時に戦争「被害者」でもあることを、あらためて強く思い知らされる。
映画の最後の最後で、その、数多く存在する自国内の「戦争被害者」の一人が唐突に登場し、この偉大な物語を突然終わらせる。
主人公がアメリカ戦争史上最高の「ヒーロー」であるならば、こちらは負の「ヒーロー」、アメリカ戦争史上最悪の「ヒール」である。
この、いわば、新大陸侵略開拓からカウボーイング、さらには「世界の警察」へと至る「アメリカ神話」そのものにも、冷酷にエンディングを突きつける衝撃的で痛切なラストに、それまで鑑賞していて受けていた印象、感想とはまったく違った、次のようなあらたな思いを強烈に抱いたのだった。
アメリカは、クリント・イーストウッドは、まさにこの男をこそ描くべきではなかったか。
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旦 雄二(だん・ゆうじ)
映画監督 。長篇映画に『少年』、監督したCMに『DHC』ほか多数。
助監督、CM会社を経て、フリー。