……映画においては、俳優とスタッフたちは、そうした個々の人間関係の社会的制約からは自由に、どんな観客であってもうっとりできるような普遍性を帯びた「愛の告白」はどんなものなのかを、スタジオという人工的な空間のなかで何種類にもわたってテストしてみることができる。つまりそれは、社会的存在としての個々の人間の制約を超えた、「愛の告白」という人類の身振りの「比類のない」可能性を、実験室で科学的に実験するような行為だと言えるかもしれない(繰り返し効果をテストできるという意味で「第二の技術」的なのだ)。
──長谷正人『ベンヤミンの映画俳優論──複製芸術論文を読み直す』
号泣している自分を自分で撮る人
7年ほど前、テアトル新宿で開かれた「『カラダカルピス』500 メカニズム映画祭」の打ち上げでのこと。トリを飾った第4弾『ファミリータイプ』の監督である沖田修一が、お酒も回ってきた頃に、おもむろにスマホを取り出して一本の動画を見せてくれた。
映っていたのは、沖田監督本人である。自宅のテレビで映画かドラマを見ながら号泣している。しゃくり上げ、口元が崩れ、肩が規則的に震えている。その姿を自分でカメラに向けて撮っている。その場にいた全員が、小さな画面のなかで泣き崩れる監督を見て、涙が出るほど爆笑した。
なぜあれは笑えたのだろう。涙が嘘だったからではない。むしろ逆だ。本物の涙だったからこそ可笑しかったのだと思う。カメラが写せるのは、心のなかで起きていることそのものではない。心の出来事が身体に残した痕跡だけだ。涙、表情、肩の震え、声。録画ボタンを押した瞬間、沖田監督はひとりでありながら、自分の観客になっていた。
だが、大事なのはそれだけではない。あのスマートフォンを構えていた手が、誰のものだったかということだ。もし誰かが隠し撮りして、その映像を勝手に人前へ出したのなら、同じ映像は笑いではなく屈辱になっただろう。映っている身体も、泣いている顔も同じなのに、一方は喜劇になり、他方は暴力になる。その違いを生んでいるのは、映像そのものではない。撮っている本人が、いつでも撮影を止められ、消せて、撮り直せるということだ。
いつでも戻れる。その感覚があるから、人は自分の姿を笑うことができる。泣いている人。撮っている人。撮られたものを見ている人。そのすべての役割を、沖田は自分で録画ボタンを押し、自分で再生し、自分で私たちに差し出した。泣いている自分をいちばん先に笑ったのは監督自身であり、私たちはその笑いに招かれたのだ。あの夜、私たちがしていたのは、監督のはじめた「遊び」に加わることだったのだと思う。
長編デビュー20周年を飾る新作『さとこはいつも』を見て真っ先に思い出したのは、この出来事だった。いま思えば、あの短い動画は沖田修一という映画作家の方法論そのものだったのではないか。
©2026「さとこはいつも」製作委員会
何かを見つめている顔
『さとこはいつも』は、同じ名前を持つ3人の女性の映画だ。15歳の中井聡子(姫野花春)は初恋を、35歳の西田沙都子(有村架純)は6年目に入った不倫を、55歳の飯島里子(石田ひかり)はかつての淡い恋と夢を、ふとしたきっかけでそれぞれ綴っていく。
出発点は「向田邦子に憧れる女子中学生の話」だったと沖田は明かしている。そこから何年もプロットを書き直しつづけ、決定的な突破口が訪れたのは、ある日ふと「みんな中学生くらいの時に、物語を書いてみようとしたことがあるのではないか」と思った瞬間だったという。監督自身にも覚えがあった。中学生の頃に初めて書いた物語が、どんな話だったかも覚えていないまま、どこかへいってしまった、と。書かれた物語と書かれなかった物語。つまり、本作は「誰にも届けられなかった物語をめぐる映画」だともいえる。
映画は冒頭、聡子の顔のクローズアップから始まる。耳鼻科でネブライザーの霧を吸い込んでいる、鼻にホースを突っ込まれた締まりのない顔。彼女はそこで同級生の早瀬勇(小川冬晴)と鉢合わせ、並んで霧を吸い込みながら話しかけられてしまう。学校では意識して話もできない相手と、いちばん格好の悪い顔で喋ることになる。初恋の始まりとして、これ以上に不似合いで可笑しい場面があるだろうか。
©2026「さとこはいつも」製作委員会
この場面に限らず、沖田作品には印象的な顔へのクローズアップが頻出する(ちなみに本作の撮影は『南極料理人』(09)以来の名タッグである芦澤明子)。例えば『滝を見にいく』(14)の終盤、山中で遭難した7人のおばちゃんたちがついに幻の滝と対峙する場面がそうだ。滝を見つめる彼女たちの表情を捉えたクローズアップは、ある達成感と感慨に満ちていた。あるいは『キツツキと雨』(12)で、暗闇のなかで初めてラッシュを見る役所広司の、心ここにあらずのあの夢見心地な顔を思い出してもいい。
沖田のカメラは、誰かに見つめられている人ではなく、いままさに何かを見つめている人のほうへ寄っていく。だからそのアップは、この人はこういう人です、という説明にはならない。映っているのは、いま何かを受け取っているという出来事そのものである。そこにこそ、この作家の一貫した関心がある。
何かを見つめている顔を見つめる
見つめている顔がアップになったとき、画面のなかでは3つのことが同時に起きている。
まず、その人が何かを見ている。見るというのは、相手を自分の前に置いて眺めることだ。虫でも、滝でも、好きな男の子でも、見られている以上、それは彼女の前に置かれたひとつの「もの」になっている。
次に、その人自身がカメラに撮られている。監督が立ち位置を決め、距離を決め、いらないところを切り、順番を組み替える。「複製技術時代の芸術作品」においてヴァルター・ベンヤミンが述べているように、俳優の演技は本人の手の届かないところで刻まれ、並べ替えられていく。そして、その映像を私たち観客が見ている。暗い客席で人を眺めまわしているのは、ほかでもない私たちなのだ。
3つが入れ子になっている、と言うだけでは足りない。大事なのは、この3つがまったく同じ身振りだということである。見ることは、相手を「もの」にすることだ。ものにしている人は、いつだって誰かに見られうる。立っている場所が違うだけで、やっていることは同じなのだ。だから、見ている顔を差し出された瞬間、私たちは自分も同じことをしているという事実から逃げられなくなる。3つの「まなざし」が、ぐるぐると円を描いていく。
©2026「さとこはいつも」製作委員会
カメラの前で演じ=遊び続けること
ベンヤミンが1930年代に書いた「複製技術時代の芸術作品」は、映画を含めた複製芸術をめぐる古典中の古典だろう。本書は通常「アウラの凋落」──複製技術の時代に作品から一回きりの輝きが失われていく──という話として読まれてきた。しかし、長谷正人がそこから掘り起こすのは、映画俳優についての議論のほうである。
カメラの前に立った人は、ベンヤミンの言葉を借りれば「人格から追放され」る。演技は切り刻まれ、編集され、本人の知らない順序で組み直される。普通ならここで話は暗くなるのだが、ベンヤミンはそれを嘆かなかった。彼が映画俳優に見たのは、カメラの前で自分がどう見えるかを何度でも試してみる人の姿だったからだ。長谷はこれを、記録を狙って何度も走る陸上選手にたとえている。
スタジオという人工の場所では、誰が見てもうっとりするような「愛の告白」とはどんなものかを、何種類も試してみることができる、と長谷は書く。ここで大事なのは何種類も試せる、という点だ。愛の告白でも、怒りでも、別れの挨拶でも、お弁当を作る所作でもいい。カメラの前に立てば、どんな身振りも、繰り返し試せる素材に変わる。たとえそれが一回きりの人生では、検分する暇もなく通り過ぎてしまうものだとしても。ベンヤミンはこれを「第二の技術」と呼んだ。相手を一度きりで思いどおりにする技術ではなく、距離を置いたまま何度でもやり直せる技術。長谷はその「遊戯性」に着目する。
では、人はなぜ演じるのだろう。俳優だけの話ではない。私たちは普段、職場では職員を、家では家族を、友人の前では友人を演じている。別に嘘をついているわけではない。ただ、自分が他人からどう見られているかを意識した瞬間から、人は自分を演じはじめてしまう。つまり、演技の根っこには他者の「まなざし」があるのだ。誰にも見られていなければ、どう演じるかという問題は起きない。
見られていると気づいた人は、自分を他人の目から眺めはじめる。この人に私はどう映っているだろう、と。そして、その眺めた姿に自分で応えるように振る舞う。それが演じるということである。つまり、誰かを見ることと自分を演じることは、同じことの表と裏なのだ。
その表と裏が、思いがけない形で剥き出しになることがある。長谷は『ベンヤミンの映画俳優論』の序文を、コロナ禍で講義動画を編集していて、画面のなかの自分の顔と声に驚いたという経験から書き起こしている。人格から追放されるとはこのことか、と。私がその一節を読みながら思い出していたのは、打ち上げの席でスマホをこちらに向けていた沖田監督の顔だった。長谷が味わった追放を、沖田は自ら進んで、しかも上機嫌で引き受けていた。彼はそれを、支配ではなく遊びにしてしまったのである。
『さとこはいつも』は、いわばその遊びを3度繰り返してみせる映画だ。自分の人生を自分の手で一冊の本にしてみるという行為。15歳と35歳と55歳という3つの条件のもとで、同じことが3度試される。沖田は3人にそれぞれ「初期衝動」「成仏」「夢の続き」というテーマを背負わせたという。音楽を担当した4人目の「さとこ」である柴田聡子が、物語を綴る3人の場面に同じメロディの異なるパターンを置いているのも、もちろん偶然ではない。そして遊びである以上、結果は3つとも違っていい。実際、3人の書いたものはまったく異なる運命をたどることになる。
©2026「さとこはいつも」製作委員会
対象化、あるいは内にあるものを外に出すこと
見つめる=見つめられることと、演じること。そしてその「対象化」を遊びとして引き受けること。思いや感情といった内にあるものは、外へ出されてはじめて眺めることができる。眺められて、はじめてやり直せる。そしてやり直せて、はじめて誰かに手渡すことができる。
例えば『おらおらでひとりいぐも』(20)で、75歳の桃子さん(田中裕子)の脳内に湧き上がる寂しさを俳優たちに演じさせたのは、沖田によるこの事実へのきわめて率直な応答だろう。寂しさは撮影できない。ならば身体を与え、衣装を着せ、外へ出すほかない。そして外に出された寂しさは、話しかけられる相手になる。孤独が、賑やかになる。
桃子さんの感情をそれぞれ濱田岳が寂しさ1、青木崇高が寂しさ2、宮藤官九郎が寂しさ3という形で演じている。沖田は彼らを異性にした理由を、分身でありながら別人格だからだと説明している。分身でありながら別人格。これはほとんど対象化の定義そのものだ。自分から取り出されたものでありながら、もう自分ではないもの。そして演じるとは、要するにこの作業を引き受けることだ。誰かの内側にあったものを自分の身体に移し、その人ではない誰かとして外に立たせること。見ることと演じることが表と裏だったように、対象化と演じることもまた、同じ動きの別の名前なのだ。
そして桃子さんの寂しさは、最後まで解消されない。解消されないまま、彼らと同居人になる。ここが肝心なところだと思う。寂しさを退治してしまうのが支配なら、寂しさと一緒に暮らすのが遊びである。沖田は外へ出したものを消さない。消さずに、隣に座らせておく。この解決の仕方が、私は好きだ。
3人のさとこが始めようとしているのも、つまりは同じことだ。書かれた自分は、自分でありながら、もう自分ではない。ものになってはじめて、それは読み返され、直され、捨てられ、あるいは誰かに手渡される。書くという、いちばん素朴なやり方で3人は遊び始める。
©2026「さとこはいつも」製作委員会