「誰の立場にも真実がある」
ここで、ローチ自身がパンフレットのインタビューで語った言葉を引いておきたい。
明らかになったのは、『誰の立場にも真実がある』ということでした。問題は人々がその真実から何を学ぶかです。……これらの質問に、名指しで回答できるような悪役は存在しません。不満は人々を極端な手段へと駆り立てますが、彼らの行動には、常に彼らの論理が伴うのです。
── ケン・ローチ監督インタビュー(『オールド・オーク』日本版パンフレット、ファインフィルムズ)
ローチは難民を擁護する映画を撮ったのではない。同様に、地元住民を断罪する映画を撮ったのでもない。彼が撮ったのは、両者がそれぞれの理由と背景を抱えながら、同じ場所で生きざるを得ない、その現実そのものである。そのことを別の視点から物語るのが、マラを嚙み殺した犬の飼い主役のキャスティングだ。
その若者の一人を演じているのは、リス・ストーン(クレジットは「Rhys McGowan」表記)。彼はローチの前作『家族を想うとき』で、主人公リッキーの息子セブを演じた俳優である。『家族を想うとき』のセブは、ニューカッスルの郊外に育つ十代の少年だった。父親はAmazon型の宅配業者として日夜過酷な労働を重ね、母親は介護労働者として働き、家族はバラバラに崩れていく。セブは父親への怒りと、自分自身の未来のなさへの絶望のあいだで、グラフィティに逃げ込む。そのセブが大人になって、本作のマラを嚙み殺す犬の飼い主の一人になっている。これは偶然のキャスティングではない。ローチとキャスティング・ディレクターのカーリーン・クロフォードは、同じイギリス北東部の若い俳優を、作品から作品へと連れて歩いている。リス・ストーンが演じる二つの役は、同じ町に住む同じ階層の若者たちの、二つの段階だ。
ギグ・エコノミーに踏み潰された家庭で育った少年が、長じて、リードを持たぬまま大型犬を連れて街を彷徨い歩く若者になる。彼が悪人だからではない。ローチが描く北東部の労働者階級コミュニティは、こうして、複数の作品を貫いて連続する一つの長い物語になる。『家族を想うとき』のセブは、いまも街にいる。そして彼の犬がマラを殺す。
『家族を想うとき』予告編
両眼の作家として
パブでの差別的な発言の中心にいるのは、チャーリー(トレヴァー・フォックス)とヴィック(クリス・マクグレイド)だ。彼らはTJの長年の友人であり、特にチャーリーは幼なじみとしてTJと最も近い存在だった。彼らはTJと同じ街で育ち、同じストライキを闘い、同じ敗北を味わった男たちだ。ローチは彼らを排外主義者として描く。しかし同時に、彼らがどうしてそうなったかを描くことも忘れない。仕事を奪われ、誇りを奪われ、共同体を奪われ、子どもたちの未来を奪われ、そして「中央政府の決定」によって今度は難民まで「送り込まれた」と感じている人々。彼らの怒りは、本来は新自由主義と緊縮財政に向けられるべきものだ。しかしその怒りの矛先は、最も近くにいる、最も弱い存在──シリアからの難民──へと逸らされてしまう。
これは責任の霧散の構造である。誰が緊縮財政を決定し、誰が地域を廃棄し、誰が難民を生み出す戦争を起こし、誰がこの廃れた街へと彼らを送り込んだのか。本当の意味での責任の所在は、常に霧の彼方に隠れている。その霧の中で、痛みだけが目の前の弱者へと転嫁されていく。
一方で、難民として描かれる人々もまた、抽象的な被害者として処理されることはない。ヤラと母親ファティマ、そして弟妹たち。彼らはアサド政権下のシリアで、家族の柱を奪われた。ヤラの父親はシリアで拘束されており、映画の終盤、その死の報せが家族に届く。一人の男の不在。それがこの一家全員の中心にぽっかりと開いている。ヤラにとっての父であり、ファティマにとっての夫である、同じ一人の人間。彼の不在の下で、娘と母は新しい土地で生きる方法を模索している。
ローチは両者にそれぞれの理由と背景を与える。どちらか一方に肩入れすることはない。チャーリーやヴィックの怒りには根がある。ヤラやファティマの存在にも歴史がある。マラを嚙み殺した若者たちにも、仕事にあぶれて街をうろつく彼らの事情がある。彼らの一人がかつて、別のローチ作品でセブだったように。
「悪役は存在しない」というローチの言葉は、安易な相対主義ではない。むしろそれは、本当の悪──緊縮財政、戦争、新自由主義──が、誰の顔も持たないシステムとして、人々の頭上を素通りしていく事実への、静かな告発である。だからこそ、本作の暴力──マラの死、チャーリーの裏切り、難民への嫌がらせ──は、すべて顔を持たない構造の縮図として機能する。誰かを断罪すれば終わる物語ではない。それを観客にも引き受けさせる映画なのだ。
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
チャーリーの裏切りと、安易ではない希望
ローチは、連帯の物語を安易な希望としては描かない。それを同時に、最も痛ましい裏切りの場面で断ち切って見せる。TJの長年の友、幼なじみであるチャーリーの存在がそれだ。彼こそがTJにとって最も「仲間(marra)」の名に値する人物であったはずだった。しかしチャーリーは、パブのバックルームを難民のための食堂として開く決断に激しく反発する。友情は壊れ、チャーリーはTJを決定的に裏切る。この裏切りが発するメッセージは重い。
マラの死は「同種が同種を殺す」悪意なき暴力だった。チャーリーの裏切りは、それと対をなす「同種が同種を見捨てる」悪意ある断絶だ。ここに本作の構造上の均衡がある。偶然の暴力と、選択された断絶。ローチは両方を描く。どちらか一方だけを描けば、映画は単純な物語に堕してしまうだろう。
バージャーは書いた──「実際には多くが解決不可能である。だからこそ、連帯は尽きることなく必要とされる」。ここには二重の動きがある。第一に、解決不可能性の承認。すべての問題が善意と努力で解決できるという楽観主義の拒絶。第二に、それでも必要とされる連帯。解決できないからこそ、連帯は一度限りの英雄的行為ではなく、日常的に、尽きることなく反復されねばならない、という認識。ローチは本作で、この二重性を一貫して守り抜いている。
難民問題は解決しない。緊縮財政は続く。炭鉱の仕事は戻らない。「新参者を拒む者」たちの憎悪は消えない。そしてマラは死に、ヤラの父はシリアで死に、TJの長年の友人は裏切る。ローチが描こうとしたのは、死によって物語を盛り上げることではなく、愛することと失うことという人間の避けて通れない経験を通じてしか生まれない連帯の形式だ。
マラの死は劇的装置ではなく、「生きることそのものの含意」として機能する。同種が同種を殺すという悪意なき世界の暴力の中で、人は誰しも喪失者となる。その事実が、見知らぬ者同士を結ぶ唯一の接点だ。TJはマラを失った。ヤラとファティマは、同じ一人の男を失った。誰もが愛する者を失った者同士だ。その痛みを共有する以外に、この三者が繋がる方法はあっただろうか。難民受け入れ賛成派と反対派が「理性的に議論する」ことで連帯するだろうか。炭鉱夫の記憶とシリアの戦禍の記憶が、政治的スローガンによって橋渡しされるだろうか。ローチは遠回りを選ばない。愛することと、その愛する者を失うこと──人間なら誰もが経験するこの二重性を、連帯の回路として描いている。
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
「ともに集う」ということ
本作には、その連帯を導く幾つもの場面がある。まず、ヤラがダラム大聖堂で子どもたちの聖歌隊の練習を聴いて涙ぐむ場面。ローチとラヴァティはこの場面に、単純なカタルシスを持ち込まない。ヤラは荘厳な聖堂の美しさに打たれて涙するのではない。その石造建築を見たとき、彼女はシリアのパルミラの遺跡を思い出す。破壊された祖国の美しさが、このイギリスの聖堂に重なる。
ヤラの涙は、この二重の感情から来ている。目の前の子どもたちが声を合わせて歌っているという現在と、かつて自分が生きた場所が廃墟と化したという過去と。ローチはここで「ヤラが感動した」という物語を綴るのではなく、TJがその傍らに立っていることを映す。言葉はない。TJはヤラが何を見ているのか、完全には分からない。しかし傍らに立つことはできる。それ以上のことを、この二人は必要としない。
脚本家ポール・ラヴァティによるプロダクションノートによれば、この大聖堂のシーンの撮影日は2022年6月17日、ケン・ローチの86歳の誕生日にあたる日だった。独りで信念を持ち続けた人間が、誕生日に「最後の祈り」を映像に刻んだ。その事実の重みが、この場面の静かな佇まいに宿っている。
一方、マラを失ったTJは何も食べられなくなる。食べることを拒否した男のもとに、ヤラと母親が食事を運んでくる。二人はTJが食べるまで帰ろうとしない。シリアで夫と離別し、言語を失い、故郷を失った女性が、別の喪失の前に黙って座っている。「あなたは今、愛する者を失った」──母親ファティマは言葉ではなくそれを知っている。自分が日々座っている場所に、いまTJが座っていることを。これは「慈善」ではない。愛する者を失った経験のある者同士の、水平的な出会いだ。TJの台詞「これは慈善(charity)ではなく、連帯(solidarity)だ」は、この映画の核心を一言で表している。「charity」は「施し」「哀れみ」という非対称な権力関係を含意するが、「solidarity」は水平的な紐帯だ。
パブのバックルームの壁に刻まれた言葉──「共に食べれば、共に結びつく(when you eat together, you stick together)」──は、1984年のストライキ当時に女性たちが炭鉱夫家族へ食事を提供した記憶に根を持つ。死んだ仲間たちの共同体が、いま、新しい異邦人を迎え入れる場所として再生される。もうひとつの決定的な場面は、ヤラが撮りためた写真をパブの裏部屋でスライド上映する場面だ。シリアの弦楽器の音色とともに、炭鉱の町に暮らす人々の顔が、シリアから来た家族の顔が、次々と映し出される。
写真のなかで、炭鉱町の老人とシリアから来た少女が並んで映し出されていく。カメラを通じて独り街を見続けたヤラの営みが、上映会という「ともに集う」場面で共有される。「見る」という行為が「ともに見る」という共同性になる瞬間。ともに食べるだけでなく、ともに見ることで、人は結びついていく。
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
献花とエブラ・マリの涙
終盤近く、シリアでヤラの父親が亡くなった報せが届く。一家が悲しみに暮れるなか、街の人々が献花を携えて訪れる。ローチの映画においてこれほど美しい場面は稀だ。国境を超え、言語を超え、宗教を超えて、人々は花束を持って立っている。彼らがそこに立つことができたのは、TJ一人の努力の結果ではない。ヤラの写真を通じてお互いの顔を知ったから。パブの食卓で共に食べたから。マラの死を知ったから。そして何より、自分もまたかつて誰かを愛し、失った者であるという記憶が、彼らを動かしたから。
ここに本作の希望の、最も具体的な形がある。政治的な解決ではない。大きな物語の勝利でもない。ただ、喪失を経験した者たちが、別の喪失を経験している者のもとへ花束を持って集まる。それだけのことだ。そしてこの場面についてローチは、『Vulture』誌のインタビューで撮影時の困難について語っている。
最終日に撮ったのが、この映画の最後の場面だった。家族の死を受けて、街の人々が通りに出てくるシーン。午後3時頃に撮り始めて、8時には終えなければならなかった。それ以降は光が消えてしまうから。途中で雨まで降った(笑)!
とにかくとんでもない一日だった。予備日を追加するという安全弁がない以上、全員の集中力が剃刀のように研ぎ澄まされる。「明日また来ればいい」はない。今しかないんだ。外に出る直前、私は皆に言った。「この映画の中心は、いま君たちがすることだ。君たちが心から思うということだ」。
そしてあの3、4時間で、我々は驚くべきものを得た。女優のエブラ・マリと一緒に。彼女は素晴らしい女性で、強靭な人だ。彼女の家族はシリアで絶対的なトラウマを経験した。すべてを失った。シリアを離れた多くの人々は、家族の誰かが拷問を受け、恐ろしい扱いを受けた経験を持っている。多くの人が近しい家族や親族を、死や殺害によって失っている。私はこう思っていた──エブラはすべてを見てきた。彼女はその場にいるだろうが、シーンは彼女を動かさないだろう、と。
しかし我々が捉えた一つのショットで、彼女は涙を流した。そのとき私は思った。これは我々への贈り物だ、と。彼女が自らを脆弱にしてくれたという、その事実が……。我々にとってこれは映画にすぎない。しかし彼女にとっては、本物の人生なのだ。そこにはこれほどの寛大さがある。私は本当に心打たれた。
── ケン・ローチ(『Vulture』誌インタビュー、2024年)
ローチのこの言葉は、本作の倫理の最深部を照らし出す。「我々にとってこれは映画にすぎない。しかし彼女にとっては、本物の人生なのだ」──この一文が、『オールド・オーク』という映画の作り手と被写体のあいだの非対称性を、率直に告発している。ヤラを演じたエブラ・マリは、ゴラン高原の家庭に育ち、シリアで演劇を学んだ女優だ。彼女自身の家族・親族・故郷の人々が、映画の中の家族と地続きの体験をしている。劇中でヤラが父を失う。それを演じる女優の家族もまた、現実のシリアで多くを失っている。
ローチが「エブラはすべてを見てきた。シーンは彼女を動かさないだろう」と予想したのは、彼女の経験が映画的悲嘆の枠を遥かに超えているはずだという、敬意ある推察だった。しかし、エブラは涙を流した。ローチがこれを「我々への贈り物」と呼ぶとき、そこには、被写体が作り手に対して示してくれた寛大さへの謝意がある。「自らを脆弱にしてくれた」──映画作家がこれ以上のことを被写体に求めることができるだろうか。それは要求するものではなく、与えられるものなのだ。
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023
スクリーンというもう一つの扉
パブのバックルームでの上映会の場面を、もう一度思い出そう。炭鉱町の人々がシリアからの隣人たちと共に、同じ椅子に座り、同じ写真を見つめ、同じ音楽を聴く。その場面を見つめる私たち観客は、映画館という暗い部屋で、やはり同じスクリーンを見つめ、同じ音楽を聴いている。構造は同じだ。パブの裏部屋の人々が画面の中で共同体を形成するとき、映画館の私たちもまた、隣の見知らぬ観客と共にその場面を見つめる共同体を形成している。
ローチがパブの裏部屋での上映会という場面を意識的に選んだとき、彼は映画館という装置そのものへの鏡を仕掛けたに違いない。「見る」という行為が「ともに見る」という共同性になる瞬間を、映画という媒体の本質そのものへと折り返す。
ラスト近く、父親を失ったヤラの一家のもとに街の人々が次々と献花に来る場面。私たち観客は、家のなかから外の扉を見ている。やがてノックの音が響き、扉が開かれる。そこには花束を手にした街の人々が立っている。開かれた扉は、大切な人間を失い、闇に閉ざされていた一家の心を開き、外の光を内側へ導き入れるかのようだ。そして観客である我々もまた、ヤラの家の内側にいる。彼女らと同じ位置から、開かれていく扉を見つめている。
映画とは、観客である私たちの過去と未来を結び、未知の世界と人々に通じる一つの扉である。ローチがラスト近くにこのショットを置いたことの意味は重い。苦闘する個人を断罪せず、あくまでも彼らの背後にある社会構造の悪を暴き撃つ──その厳しい姿勢と眼差しを60年保ち続けた作家が、最後に映し出したのは、扉の向こう側で花束を手にした人々だったということ。扉を閉ざす者ではなく、誰かのために花束を手に取り、ドアをノックする者たち。ローチは扉の向こう側に、確かにそうした人々がいることを示した。
スクリーンという扉の向こう側に花束を手にした人々がいるのであれば、我々もまた、現実という重い扉を閉ざすことなく、その向こう側にいる人々へ花束を手渡すことができるはずなのだ。本作を映画館のスクリーンで観るという経験は、だからそれ自体が一つの連帯の実践となる。難民問題について意見を持たない隣の席の観客と、私たちは同じ場面で息を呑み、同じ場面で目頭を押さえる。言葉を交わすことはなくても、その数時間、私たちはともに集っている。そしてその「ともに集う」場の中で、私たちは試されている。その扉を開くのは、観客一人ひとりなのだと。
『オールド・オーク』予告編
STORY
イギリス北東部、とある炭鉱の町で唯一のパブ、「オールド・オーク」。活気溢れる時代から30年の時を経て、今は厳しい状況に陥っているが、町に住む人々にとっては最後の砦となる止まり木のような存在だ。店主のTJ・バランタインは、試行錯誤しながらなんとかパブを維持しているが、町がシリア難民を受け入れ始めたことで、パブは居場所を争う諍いの場になってしまう。先行きを危ぶむTJだったが、カメラを持ったシリアの女性ヤラと出会い、思いがけない友情を育むことになる。果たして、彼らは、互いを理解する方法を見つけられるのだろうかー?
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
出演:デイヴ・ターナー、エブラ・マリ、クレア・ロッジャーソン
2023年|イギリス、フランス、ベルギー|英語・アラビア語|113分|カラー|映倫:G|原題:The Old Oak
配給:ファインフィルムズ
後援:ブリティッシュ・カウンシル
© Sixteen Oak Limited, Why Not Productions, Goodfellas, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2023