おそらく現代世界におけるこうした変容の最も明白な表徴は、今日、多くの人がかつての多孔的な自己の世界を、郷愁をもって懐かしく振り返っていることであろう。人々とコスモスとの間の分厚い感情的な境界の構築は、今やあたかも彼らにとって人生の喪失の経験として受け止められているように思われる。
──チャールズ・テイラー『世俗の時代』(千葉眞訳)
孔という構造 ──「虚」から始まる映画
クロエ・ジャオが『ハムネット』のロケーション・スカウティングをウェールズで行っていたとき、彼女は古い森の中に一つの孔を発見した。木の根元に口を開けたその暗い空洞は、やがて映画全体の中心的なモチーフとなる。『ヴァラエティ』のインタビューでジャオは語る。「古い森の中の虚を探していました。その虚がグローブ座の舞台と原始的で永遠的な何かを繋いだのです。(……)自然が映画の言語、カタルシス、そしてそこから現れるシンボリズムのすべてを鼓舞しました[1]」。
本作のディレクターズ・ステイトメントでジャオはこの映画の空間的骨格を、より詩的な言葉で明かしている。「古い森にある泉のブラックホールから、雨に濡れたグローブ座の舞台の暗い扉まで[2]」──映画はこの二つの孔のあいだを往復する。一方は自然の側にある生と死の入口であり、もう一方は芸術の側にある生と死の入口だ。二つの虚が呼応し、そのあいだを人間の悲嘆が流れる。
この映画において、孔=虚は単なる象徴ではない。それは存在論的な問いそのものだ。孔には輪郭があり、深さがあり、周囲の世界との関係がある。愛する者を失うことは、「心に穴が開く」ことだと私たちは言う。だがジャオはその比喩を文字通りに受け取り、映画の物理的な空間へと刻み込んだ。森の空洞、グローブ座の舞台裏の暗がり──これらの孔は、生と死が同じ一つの入口を共有していることを告げている。
では、穿たれてしまったその孔に対して、私たちはどう生きていけば良いのか。塞ごうとするのか、逃げるのか、それとも沈み込み、やがてそこから世界と呼吸を合わせるのか。『ハムネット』は、この問いに対して性急な答えを与えない。かわりに、アグネス(ジェシー・バックリー)とウィリアム(ポール・メスカル)という二つの悲嘆の形を、ゆっくりと、詩的な緊張のうちに対置させてみせる。
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ジャオ的宇宙の地形 ──「4本の映画」と冥界への下降
クロエ・ジャオの映画作家としての軌跡を辿れば、『ハムネット』は必然の到達点として立ち現れる。彼女の最初の3作品──『兄弟が教えてくれた歌』(2015)、『ザ・ライダー』(2017)、『ノマドランド』(2020)──は、いずれもアメリカの周縁に生きる人々をドキュメンタリーと劇映画が混交する方法論で描かれていた。パインリッジ・インディアン居留地のラコタ族の若者たち、ロデオの夢を断たれた若いカウボーイ、経済的格差の中でバンに暮らす流浪の労働者──彼らは皆、何らかの意味で「居場所」を失った者たちである。
しかしジャオが単なる社会派監督ではないのは、彼女が喪失を常に「大地との関係」において捉えてきたからだ。ブレイディ・ジャンドローの傷ついた身体は、南ダコタの広大な草原と相互浸透する。フランシス・マクドーマンドが演じるファーンは、アメリカ西部の荒野を、悲嘆と自由とが区別のつかないままに走り続ける。大地は彼女の映画において単なる背景ではなく、登場人物の内面の外的延長として機能する。
ジャオはこう語っている。「最初の3作品を思い返すと、母親的な登場人物は大地や自然と深く繋がり、強烈な女性的エネルギーを体現しているけれど、それはほとんど共存しないかのようです──母親たちは力を持たないか、死んでいる。最初の3作品の登場人物たちには、抑圧された女性的な側面があり、彼らはその旅を経なければならないのです[3]」。
本作のディレクターズ・ステイトメントでジャオは、この系譜をさらに鮮明に総括する。「これまで製作した4本の映画では、大きな喪失を経験して受容することで自分自身を見つける登場人物たちを描いてきました。『ハムネット』は、その旅の集大成です[4]」。ここで注目すべきは「4本」という数え方だ。ジャオは『エターナルズ』(2021)を自身のフィルモグラフィーから排除していない。マーベルの巨大な製作システムの中で作家的ビジョンが稀釈されたとしばしば評されるこの作品もまた、「喪失を経験して受容する旅」の一環なのだと、ジャオ自身は認識している。
そしてジャオは『ハムネット』に向かう自身の内的プロセスを、冥界下降の神話的構造として語る。「私はシェイクスピアの『ハムレット』という聖なる器を携え、愛と死という経験を恐れる理由となった失ったものを取り戻すために、冥界の奥深くへと降りていきました[5]」。ここには、劇中で初めて出会ったウィリアムがアグネスに語るオルフェウスの神話構造がある──失ったものを取り戻すために冥界へ降りる芸術家。だがジャオのオルフェウスは振り返らない。むしろ孔の中へ沈み込み、そこに留まり、やがて変容する。
多孔的自己とアグネス
カナダの哲学者チャールズ・テイラーは主著『世俗の時代』において、近代化の過程で生じた人間の自己理解の根本的な変容を「多孔的自己(porous self)」から「緩衝的自己(buffered self)」への移行として論じた。テイラーによれば、近代以前の人々は「多孔的自己」として世界と生きていた。そこでは自己と外界の間に明確な境界線が存在せず、自然の力や他者の感情や霊的な気配が自己へと浸透し、内と外は連続した場として溶け合っていた。これに対して近代の「緩衝的自己」は、強固な境界線によって外界から自己を隔絶する。感情は「内なるもの」として心理的空間に閉じ込められ、自然や他者は自己の外部に位置づけられる。テイラーはこの変容を、必ずしも進歩ではなく、ある種の喪失として捉えた。だからこそ、と私たちは問わねばならない──アグネスとは何者なのか。
映画の時代設定は16世紀のイギリス、すなわちテイラーの言う「多孔的自己の時代」の末期にあたる。そしてアグネスは、その時代においてさえ、際立って多孔的な存在として描かれる。彼女は薬草の知識を駆使し、鷹と心を通わせ、人の手のひらに触れることで運命の気配を感受する。ジャオが『Hot Press』のインタビューで語ったように、「この映画で焦点を当てたいのは、女性的意識──自分の身体、自然、祖先と繋がって接触すること[6]」であり、「それは本質的に女性的なものであり、男性にも女性にも内在して」いる。
テイラーの枠組みから見れば、アグネスの癒し手としての能力は、自己と世界の間に境界を設けないことから生まれる。他者の痛みは彼女の外側にあるのではなく、彼女の内側に浸透してくる──ハムネットの熱が、彼女自身の皮膚に焼けつくように。だからこそ彼女は息子を救えなかったことを、外部的な失敗としてではなく、自己の根幹への裏切りとして経験する。多孔的であることの豊かさは、多孔的であることの脆弱性と不可分だ。
一方のウィリアムを見てみよう。彼の悲嘆は正反対の方向へ動く。喪失を「作品」へと変換することで、悲嘆を内側から外側へと押し出す。「生きるべきか、死ぬべきか」の独白を川辺で口ずさむとき、彼は自己と世界の間に言語という緩衝材を置く。これはテイラーの言う「緩衝的自己」の戦略──内なるものを外的形式に閉じ込めることで、喪失の浸透から自己を守る試み──と読むことができる。
しかしジャオは、どちらか一方を正解として提示しない。アグネスの多孔性とウィリアムの緩衝性は、悲嘆の二つの倫理的様式として対置される。それは「どちらがより深く愛するか」の問いではなく、「いかなる形で喪失と共に生き続けるか」の問いだ。
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ケアの倫理と失敗 ── 傷つく可能性としての愛
ジョアン・トロントを中心とするケアの倫理は、人間の根本的な相互依存性を道徳の出発点に置く。トロントは主著『モラル・バウンダリー──ケアの倫理と政治学』(1993)において、ケアを「注意(caring about)」「責任の引き受け(taking care of)」「ケアの実践(care-giving)」「ケアの受容(care-receiving)」という4つの局面に分析した。トロントとベレニス・フィッシャーによる共著論文「ケア活動のフェミニスト理論に向かって」の定義を借りれば、ケアとは「私たちがこの世界のなかでできるかぎりよく生きられるよう、その世界を維持し、継続させ、修復するためのすべての活動」である。この定義が示唆するのは、ケアは常に双方向的であり、ケアする者とケアされる者の境界は絶えず揺らぎ続けるということだ。
アグネスは薬草師であり、癒し手である。映画の前半において、彼女のケアは驚くべき有効性を持つ。死産と見えたジュディスを自らの腕の中に引き寄せ、抱くことで生命を呼び覚ます──その場面は、ケアが純粋な技法や知識ではなく、身体的な接触、温かさ、他者への全面的な開放性であることを示す。プロダクション・ノートが伝えるジャオの言葉は、この場面をよく照らし出している。「アグネスは幼い頃に母親を亡くし、継母の元で育ちました。いわば、半分は森の魔女の娘で、もう半分は教会に通う淑女の娘のようなものです[7]」。アグネスのケアの力は、二つの世界に引き裂かれた存在がその裂け目から汲み上げるものだ。
しかし、ハムネットは死んだ。この事実が映画に、そしてケアの倫理に問いを突きつける。薬草師であり、予感の人であり、これほど開かれた多孔的自己であるアグネスが、なぜ息子を救えなかったのか。ケアの倫理はしばしば理想化──愛情深いケアは必ず報われる──という誤解を招く。しかしトロント自身が強調するように、ケアの本質は傷つく可能性に開かれていることだ。ケアが深ければ深いほど、その失敗は自己の根幹を傷つける。
アグネスの自責は、したがって病理ではない。それは多孔的なケア──自己と他者の境界を溶解させながら他者を抱え込む行為──の必然的な帰結だ。ハムネットの死は彼女の「外部で」起きたのではなく、彼女の「内部で」起きた。
さらにジャオは、ウィリアムの不在というもう一つのケアの失敗を描く。父は息子の臨終に間に合わなかった。トロントが指摘するように、ケアの労働は歴史的に女性に課せられ、過小評価されてきた。ウィリアムの『ハムレット』という芸術的昇華は、彼がいかにケアの現場から不在であったかの裏返しでもある。しかし映画はここで単純な対立図式を超える。ウィリアムのケアも存在した。ただ、その形は異なっていた。息子の名前を作品に刻み込むこと──それはアグネスのケアとは異なる時間軸と空間軸を持つ、しかし同様に深いケアの実践なのだ。
境界線上で凍りつく── 悲嘆の二つの形
ウィリアム・シェイクスピアは死から逃げた。息子の亡骸を前にして、彼はほどなくロンドンへ戻る。その逃走は懦弱ではなく、ある種の防衛反応だ。映画は彼を断罪しない。ポール・メスカルの演技は、表面の静けさの奥に何かが押しつぶされていく様子を、声よりも沈黙で、言語よりも身振りで伝える。
ディレクターズ・ステイトメントでジャオは、アグネスとウィリアムの悲嘆を物理学のメタファーで把握したと述べている。「物理学では、逆方向に引いたり押したりする力によって張力が生じます。その張力が強すぎると動きが発生し、新たな均衡状態になります。すなわちウィルが陸と海、生と死の狭間に立たされた瞬間に、文学史において最も偉大な作品の一つが誕生したのです[8]」。ここでジャオが描いているのは、悲嘆が芸術へと変容する力学だ。二つの逆方向の力──アグネスの内へと沈む悲嘆と、ウィリアムの外へと放出する悲嘆──が最大の張力を生む地点で、『ハムレット』が結晶する。
原作にも掲げられている映画冒頭のタイトルカードが示すように、16世紀のストラトフォードにおいて「ハムネット」と「ハムレット」は同一の名前と見なされていた。息子の名前を戯曲の題名として刻み込むこと──それは個人的な喪失を人類の記憶の中に永続させる行為であり、同時にケアの変形だ。しかしアグネスにとって、それは息子の名が他人の物語のために使われることへの怒りでもある。
ジャオによるディレクターズ・ステイトメントに、この夫婦の膠着状態を言い当てた一節がある。「彼らは境界線上で凍りつき、互いに逆方向に引っ張られながら、一歩も動けない状態です[9]」。この凍結は、テイラーの用語で言えば、多孔的自己と緩衝的自己のあいだの引き裂きである。アグネスは孔の中に沈み込もうとし、ウィリアムは孔を言語で塞ごうとする。どちらも動けない。その膠着が解かれるのが、グローブ座だ。
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