冒頭に引用した哲学者である村上靖彦の言葉を借りれば、ケアとは「人間の本質そのもの」であり、「人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである」。コロナ禍と戦争という非日常が日常となったいま、私たちは「誰かに依存し、独りでは生きていけない存在」であるという事実を日々肌身で実感している。昨今「ケア」というテーマに人々の強い関心が寄せられているのも、格差や高齢化といった社会問題を背景に、そこに生きる人々の切実な実感があるからだろう。そして、ケアという観点から見れば、ミルズの作品は“親指しゃぶり”という「依存」を抱えた青年と家族の物語である長編映画第1作『サムサッカー』(05)から、抗うつ剤とその服用者たちをめぐるドキュメンタリー『マイク・ミルズのうつの話』(07)、末期がんの身でゲイであることをカミングアウトした75歳の父親と自身を重ねた息子との関係を描いた第2作『人生はビギナーズ』(10)、父親に続き、自身の母親をモデルとした女性を中心に、17歳になる彼女のひとり息子の成長と3世代の女性たちの人生を交錯させた3作目『20センチュリー・ウーマン』(16)に至るまで、弱さを抱えたまま、自立と孤立のあいだで右往左往する人間たちを一貫して見つめ、慈しみ、肯定している。
ケアされる者とケアする者、呼びかけと応答が交差する場所で
最新作である本作『カモン カモン』においても、ケアの主題は「子育て」という具体的な形として現れている。ここで特徴的なのは、伯父に預けられた甥っ子であるジェシーが必ずしも「ケアされる」立場にとどまらないということだ。例えば、本来「ケアする」立場であるはずの伯父であるジョニーを彼が寝かしつける場面。催眠術をかけるようにしてジョニーに身体と五感を順々に休めるよう唱えた後、ジェシーは最後にこう声をかける。「ただ空の星だけを思って」と。普段は母親のヴィヴが息子であるジェシーを寝かしつけるために行っていたであろう営為が、ここでは立場が逆転することで、「子どもをケアする大人」という固定観念がしなやかに崩されている。つまり「子育て」は「親育て」でもあるということへの気づきと交感の時間が実に美しく描かれているのだ。あるいはまた、病床にある父の「看護」=ケアという形で親子の関係を描いた『人生はビギナーズ』において、主人公であるオリヴァーの母親の寝室に飾ってあった写真の持つ意味が変わる決定的な場面を思い出してもいい。ずっと「僕が母に花を差し出している」と思っていたその一枚の写真が、実は「母が僕に花を差し出している」ものだったのではないかというオリヴァーの自覚は、母親を愛する息子から、息子を愛する母親へと視点が移り変わることを物語っている。ここにもまた、父親の人生と死を受容する過程を経た息子が、両親を愛する=ケアする側から、両親に愛される=ケアされる側へと認識を変化させ、父と母の存在を肯定していく瞬間が鮮やかに捉えられている。