今年、42回目の開催を迎える「ぴあフィルムフェスティバル(以下、PFF)」。

映画祭のメインプログラムは、1977年から続く自主映画のコンペティション「PFFアワード」です。140名を超えるプロの映画監督を輩出している同コンペは、9月開催の映画祭に向けて3月24日(火)まで作品を募集中。

今回は、昨年「PFFアワード2019」の最終審査員を務めた白石和彌監督(『ひとよ』『凪待ち』)と同コンペに2度の入選歴を持つ市井昌秀監督(『台風家族』『ハルチカ』)に、<映画づくりとは>をテーマに自身の経験をお話いただきました。

cinefil×ぴあフィルムフェスティバル
白石和彌監督×市井昌秀監督特別対談!

映画の現場は楽しそうだから、スタッフになりたかった(白石)

――おふたりが映画監督になりたいと思ったのは何歳のときだったのか?
きっかけが何だったのかをまずは教えてください。

白石 小学2、3年生ぐらいのころから『リーサル・ウェポン』(87)などのブロックバスター映画や『E.T.』(82)は観ていて。で、自宅でビデオを観るようになったときからコアな作品をどんどん観るようになったんですけど、そのころから映画の向こう側に作り手がいるということに気づいたんですね。それが映画作りに興味を持った最初のきっかけです。

――そのときに、もうすでに自分は映画監督になるんだ!って思ったんですか?

白石 いや、映画の世界に入りたいと思ったんです。最初はスタッフになりたいという気持ちの方が強かったですね。というのも、映画監督には監督協会に入らないとなれないらしいという謎の勘違いをして、そこのいちばん偉い人は大島渚監督なんだって分かったから『日本の夜と霧』(60)を観たんですけど、全然理解できなかった(笑)。それで、俺には映画監督は無理って思ったんですよ。でも、映画雑誌で撮影現場のレポートを読んだらお祭り感があるし、楽しそうだったので札幌の映像系の学校に行ったり、上京してからは中村幻児監督が当時やっていた“映像塾”に通うようになったんです。

白石和彌監督

市井 僕の映画との出会いは、5、6歳のときに観たアニメの『宇宙戦艦ヤマト』(77)だったと思うんですけど、お客さんがいっぱいだったから、立ってみた記憶がありますね。で、その後なジャッキー・チェンの映画なども観ましたが、僕は白石さんと違ってコアな方向には行かなくて。高校生のときの僕は芸人になりたかったから、コントも書き出していて、その参考のためにストーリー性のある映画やドラマを観ている感じだったんです。でも、そうやったネタを作っていた24歳ぐらいのときに役者をやりたい、映画に出たいと思うようになって、それで劇団東京乾電池の研究生になったんでけすけど、本劇団員には残れなかったんですよね。

――役者をやりたいと思ったきっかけは?

市井 北野武さんやSABU監督の影響が大きいですね。特に武さんは芸人から映画の世界に入られたので、当時の僕は芸人として名を出しているわけでもなったけれど、すごく憧れたんです。でも、劇団東京乾電池に落ちちゃったから、どうしたらいいのか分からなくて、とりあえずバックパッカーでタイやカンボジアに行って建物の写真を撮ったりしていて、アンコールワットに何日も行ってるうちに、現地の子供たちと仲よくなって、彼らの写真を撮っているうちに、自分が人との関わりを通して何かを表現することを欲しているんだなと思ったんです。それで役者として出演したいのなら自分で脚本を書けばいいんじゃないかって考えて、ENBUゼミに入ったんです。

市井昌秀監督

映画を撮ることは辛くても続けられると思った(市井)

――白石監督は映像塾、市井監督はENBUゼミに入って、その次にとったアクションは?

白石 映像塾で短編を撮ったんですけど、周りは社会人のシネフィルばかりだったから、その人たちの作品の方がレベルが上に見えたし、自分の幼さを痛感したんです。映画の見方も浅いし、人生経験があまりにも少なかったんですね。そんなときに、映像塾に顧問で来ていた若松孝二監督がVシネマを撮ることになり、後に僕の『止められるか、俺たちを』(18)のプロデューサーになる大日方教史さんという先輩が「誰か手伝える奴はいないか?」って言ったときに手を挙げたのが、現場に入るきっかけでしたね。タイミングがよかったのか分かんないですけど(笑)、20歳か21歳のときだったと思います。若松さんが『Endless Waltzエンドレス・ワルツ』(95)の次に撮った、佐野史郎さんが主演の『標的 羊たちの哀しみ』(96)というVシネでしたけどね。

――そのVシネにいちばん下の助監督で参加されたわけですね。

白石 いちばん下と言うか、助監督がふたりしかいないから、いきなりロケハンもしてきましたよ(笑)。

市井 演出部と制作部を兼任したんですね(笑)。

白石 もう、何でもやらされました。台本も書いたし、65万円入った封筒を渡されて「これを機材屋に持っていけ!“これしかありません、お願いします”って言うんだぞ」って言われてから機材屋に走ったこともあります。若松さんが自分で行ったら正規の料金を払わなければいけないから、下の者が払いに行っていたんですけど、僕が行ったら、それまでも誰かがやっていたから、機材屋の人も「ああ、はいはい、若松さんね、はい、分かりました」って感じで(笑)。若松さんの映画はこうやって作られているんだなって分かりましたね。

市井 撮影所から上がってくる演出部の方はその部署だけをシステマティックにやる方が多いですけど、若松組はまた全然違うんですね(笑)。

白石 だから、もうビックリ!
逆に若松さんのところで何本かやった後、別の組にサード助監督で呼ばれたときは、自分はロケハンが上手いからと思って「とりあえず、何を探しに行きましょう」って聞いたら、「オマエは助監督だから、ロケハンしなくていい」と言われて驚きましたよ(笑)。

左より白石和彌監督、市井昌秀監督

――市井監督はENBUゼミに入ってからどうしたんですか?

市井 僕が入ったのは監督コースで、そこでは授業で短編を撮るんですけど、いまと違って、僕のころは20人の中のふたりしか撮れなくて。そのときに、講師の熊切和嘉監督が僕の提出したシナリオを選んでくれたので撮ることができたんですけど、その短編を撮ったときに、映画に出演する云々を超えて、映画を撮るのってこんなに楽しいことなんだって思ったんです。もう、雪山でただゲロを吐く映画だったんですけど(笑)。

白石 (爆笑)

市井 前日にみんなで本当にゲロ吐いて、それを朝の光で綺麗に見せるっていう映画だったんですよ(笑)。

白石 みんなでゲロ吐いて、それを何に入れたの?(笑)

市井 梅酒の瓶です。

白石 いや~、透明なものに入れるのはまずやめて欲しい(笑)。

市井 でも、ストーリーもあるんです。東京で男にフラれてやけになった女の子が、回転寿司で寿司を200皿食って、食い逃げした後に吐くっていう展開で(笑)。

白石 いいな~、そこがやっぱり自主映画のいいところですよ。本物のゲロでやるっていうのが。プロは流石に本物ではやらないから(笑)。

――でも、そのときに映画を撮る楽しさを覚えたわけですね。

市井 そうですね。だから、その後に卒業制作の映画も撮って、最初に撮った短編と一緒にPFFに出したんですけど、2本とも落ちて、ほかの映画祭もダメで(笑)。でも、芸人や役者を目指していたときと正直ちょっと違って、落ちようが何だろうが、これは絶対にずっとやっていく作業だと思ったんです。

白石 それは単純に楽しかったから?

市井 楽しかったから、これなら一生続けられると思ったんです。

白石 苦しくてもやっていけると。

市井 そうですね。苦しくてもやっていけると思ったんですよ。