いま最も見なければならない素晴らしすぎる、しかしオススメない日本映画。
深田晃司監督『淵に立つ』。

七月の終わりに『淵に立つ』の試写会で見て、九月の終わりに再度鑑賞のあと、深田晃司監督と公開直前に飲んだ。
深田監督といえば、二階堂ふみ主演『ほとりの朔子』では、浪人生の朔子の夏休み実に瑞々しく描き、またロケ地の木更津がこれほどまでに美しく描かれていたことに驚愕。映像の奇跡を体感。見事ナント三大陸映画祭でグランプリと若い審査員賞をW受賞。
そして、放射線に汚染された近未来の日本を舞台に外国人女性とアンドロイドの交流を描いた平田オリザ原作の『さようなら』。ほかにも数多くの海外の映画祭で上映され賞を取ってきた若き溢れる才能。。。この『淵に立つ』では今年のカンヌでは「ある視点」分野にて審査員賞を受賞。本編はフランスの映画製作会社との共同製作であるが、映画作家は映画を作るということだけではなく、日本の映画のガラパゴス化を打破しようと積極的に発言、行動している点も注目されている。本人曰く「発言できる立場の人間は、きちんと発言すべき」というフランス的な社会に倣っているとか。

10月8日公開『淵に立つ』予告編

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さて。
本編はとても後味が悪く、気が重くなるような印象を持つ作品だが、脚本の構造は素晴らしくしっかりとしており、無駄が一切ない。
役者たちの演技も素晴らしすぎる。。このように述べると役者の自我から出る演技対決のように聞こえるが決してそうではなく、抑えられた大人の演技が見られた。
台詞や演出にも一切の過度な説明はない。

特にカメラにいたってはほぼ固定で、会話をする人物や状況を大変冷静に光や時間そのものすべてを受け止めているようだ。その時の空間と時間の両方を収めているのだ。それはどういうことか。カメラはその場では「一点」の存在ではなく、まるで映画館の断面としてのスクリーンのように「面」としてそこに直立しているようなのだ。要するにその場の断面をそのままフレームに収め、そこで展開する人間の心の模様を含め、光や空間の変異を冷静にすくい取っている。光や空間はそこにいる人間や見ている人間の精神状態によっても刻々と変化するものだ。光は太陽などの自然光や人工的なライトで照らされるものではなく、そこにいる人間の精神状態と、それを反射する私たち鑑賞者の精神状態によって、その空間の光が刻々と変わっていくことが証明されているようなのだ。

抑えられたカメラの動きの中で、ほんの少しだけズームインが使用される。
それは主に人物ふたりの会話のなかで、告白や独白の際に行われる。そのズームインの動きはとても慎重で緩慢な動きであり、口から言葉を発する側の心の模様と、その言葉を耳から受け入れる側の心模様が余すところなく捉えられている。しかしその告白や受け止めがどこまで真実なのか、その深さは定かではなく測ることはできない。。

そんな言葉を発する側と受け止める側の人間の心の変化と、それに照応される空間をカメラは捉えているのだが、そんな中で興味深いカメラワークが一箇所ある。夫の敏夫と謎の人物である八坂草太郎が川縁で歩きながら会話するシーン。そこではいままで敏夫の家族に対して温和で正直で真面目な八坂が突然、敏夫にだけ牙を剥くのである。そこもある種の告白ではあるが、八坂の本性が露出するのである。そこに八坂という男の引き裂かれた心の深いクレバスを覗かせるのである。そのシーンではカメラは歩く二人より少し先にゆっくり移動しており、ズームではなく歩く二人がカメラに多少突入していく印象がある。このカメラワークは『ほとりの朔子』でも、原発事故で福島から疎開してきた男子と朔子が会話をするシーンでも使用された。
そもそも会話というのは相手への質問や疑問をぶつける以外、すべて発せられる言葉というのは告白か独白になっているのかもしれない。

さて、この映画は日本のとある地方都市で、自宅兼職場の鉄工所で平和に暮らしている親子三人の設定。そこへ夫の旧友という謎の男が8年ぶりに訪ねて来、そして大きな傷跡を残して去っていく。そして、さらに8年後の暮らしを描いた作品。

©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMAS


浅野忠信扮する八坂は殺人を犯して、服役して社会復帰しようとしているという設定。
監督によれば、すべての人間が抱える孤独性をテーマにしているとのこと。孤独を紛らわすために家族や宗教に頼らざるを得ない人間という性。現代、特に近代以降の人間の孤独性をテーマにした作品は数多あったが、時代や地域性などを飛び越え普遍的な人間の孤独を描いている作品である。
家族の住むリビングには足踏みオルガンがあり、また決して高価ではないステンドグラスが壁に嵌められている。そこは図らずも教会の礼拝堂空間そのもので、正体不明の八坂は悪魔のようでもあり、天使のようでもあり、そして司祭のようでもある。

八坂という男は夫の敏夫と妻の章江のふたりのネガティブな領域に完全に呼応しており、それぞれが元々持っている人間の奥底にあるネガティブ性を八坂は引き出す。そもそも八坂という男はもしかしたらこの世に存在していなかったのかもしれず、敏夫や章江の各々の分身でもあるのかもしれないのだ。
原罪は身に覚えのない罪であるが、自分が確実に犯してしまった罪を償うこと。断罪されることを待っているようにも思えるふたりは、八坂が消え、ふたりが出会ってから16年目にようやく夫婦になれたと実感し安堵するという悲劇。

カメラワークばかりを話題にしたが、他にも抑えられた演出の中で、色に関するものも特筆すべきものがある。
たとえば八坂の来ているTシャツの「赤」であったり、娘の蛍が背負っているランドセルの「赤」であったり、ピアノの発表会で着るはずだった手縫いのドレスも「赤」であり、短命の象徴である葵の花も「赤」である。。
八坂の憤怒する気持ちは「赤」そのものであり、鬼のように変貌し鉄工所へ戻るシーンでは「赤い」トラックが後方から八坂を追い越していく。。。八坂の憤怒は彼個人のものではなく、はるか彼方古来から人間というものが持っている憤怒を代弁し、八坂という人間を借りて一気に噴出しているようでもある。
英題は『Harumonium』。オルガンを指すが、家族の調和(ハーモニー)と連想させるという。。しかし、幼い娘の蛍によって踏み続けるオルガンは家族の交わるリビングの延いては「家」そのものの呼吸であった。娘によって人工呼吸をさせられていた「家」は、突然の出来事で呼吸は停止してしまう。

また、トラックが勢いよく走る小さな町工場が乱立する街には、大きな水路や高速道路、鉄道などが立体に交差している。その光景は圧巻である。しかし、それらは交差はしているが決してどこも交わっているわけではない。核家族が人間の共同体の最小単位で、なぜ他人が一緒に暮らしているのか、そのいつまでも交わらない線は家族そのものではないか。
家族とは個人のどうしようもない孤独を紛らわすだけの装置であるのか?という深田監督の深い深い深淵を覗き込むような映画体験であった。
この作品は見なくてはならない避けては通れない重要な作品である。

ヴィヴィアン佐藤 略歴

美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。 野宮真貴、故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派のアーティストとの仕事も多い。2011年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。各種大学機関でも講義多数。