舗道の敷石の下はビーチ!──一九六八年五月、パリの落書きより
──トマス・ピンチョン『LAヴァイス』

※本稿では、ポール・トーマス・アンダーソン監督『ワン・バトル・アフター・アナザー』の物語に触れながら論じています。そのため、一部に内容の核心や展開についての記述が含まれます。

革命の残光と現在

ポール・トーマス・アンダーソン(以下、PTA)は、トマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を映画化した『インヒアレント・ヴァイス』(14)において、小説では冒頭に置かれたこのエピグラフを映画のラストに掲げている。この落書きは1968年パリの五月革命のスローガンであり、反体制と革命を謳った若者たちによって剥がされ、体制側へと投擲されたパリの街の敷石の下に自由を象徴する砂浜=ビーチがあるという夢を託した言葉である。

PTAがこれを映画の最後に置いたことは偶然ではない。『インヒアレント・ヴァイス』における海辺のイメージは、すでに敗北した革命の残響をノスタルジックに響かせる。かつて海が象徴した自由は、もはや実現されない夢のように遠ざかり、その残光が観客を甘美な憂愁に浸らせる。

しかし、新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』(25)は違う。ここに広がるのは海ではなく、乾ききった砂漠である。LAの郊外からメキシコ国境、さらに北カリフォルニアへと広がる荒涼とした風景。そこにノスタルジーはない。あるのは、現在の政治状況を思わせる現実の荒れ地だ。物語には16年という時間の飛躍があるにもかかわらず、具体的にいつの時代であるかは明かされていない。時間の飛躍は、政治の連続(変わらない未来)をアイロニカルに可視化する。PTAはここで、過去の夢を懐かしむのではなく、観客を「いま闘わねばならない現実」へと強制的に引き戻す。

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父娘の逃走劇とアメリカの二重性

物語は、レオナルド・ディカプリオ演じるボブと、その娘ウィラ(チェイス・インフィニティ)の逃走劇を中心に展開する。ボブはかつて「ゲットー・パット」と呼ばれた爆弾専門の闘士で革命組織に属していたが、薬物と幻滅の果てに隠遁生活を送っている。そんな彼を追うのがショーン・ペン扮するロックジョー大佐だ。

ロックジョーは軍人として「法と秩序」を体現するかに見せながら、実際には白人至上主義の秘密結社「クリスマスの冒険者たち」に接近する人物である。さらに物語を複雑にしているのは、彼の追跡が単なる職務ではなく、より私的で執着的な動機を帯びている点だ。しかも、ロックジョーはボブの同志であり恋人でもあった黒人女性ペルフィディア(テヤナ・テイラー)と関係を持ち、そこに欲望と差別が交錯する。

この倒錯した関係の網目には、アメリカという国家の二重性が凝縮されている。理想として自由と民主主義を掲げながら、その影で人種差別と抑圧を温存してきた歴史。理念と現実のあいだの断絶。物語に登場する礼拝堂での「血統をめぐる儀礼」は、家族という秩序や理念が現実的な暴力に転化する瞬間を露呈している。PTAはロックジョーの歪んだ欲望と暴力を通して、アメリカの母胎に常に潜んできた「影」を可視化するのである。

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「法と秩序」という戯画

ここで思い出されるのがトランプ政権の「法と秩序」というスローガンである。移民を「犯罪者」として描き出し、国境に壁を築く映像をメディアに流し、収容所に親子を隔離する。こうした政策は、実際に治安を改善するよりも、支持者に「強いアメリカ」を見せることを目的としたスペクタクルだった。

映画に登場する移民収容キャンプの場面は、この「法と秩序」を強烈に戯画化している。鉄条網に閉じ込められた家族の姿は、現実のニュース映像を想起させる一方で、反復される儀式としての抑圧を描き出す。暴力は一度きりの出来事ではなく、「繰り返し見せられることで支配を強める」のだ。

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「いま、何時だ?」──答えられない合言葉

物語の中盤、ボブは革命組織に接触し、娘ウィラと合流するための場所を聞き出そうとする。そこで求められるのが、かつての合言葉「いま、何時だ?」という問いかけだ。

ベニチオ・デル・トロ演じるセルジオ先生が答えているように、表面的にはただ現在の「時刻」を答えれば済むような質問だ。だが、実際にはこれは古い暗号=コード認証であり、同時に皮肉に満ちた哲学的問いでもある。正解はこうだ。

「時間は存在せずとも、我々を支配している(“Time doesn’t exist, yet it controls us anyway.”)」

時間を否定する言葉は、革命家たちが「永遠の今」を生きようとする理想を表す。しかし同時に、時間は有限の身体と人生を容赦なく削っていく残酷な現実を示す。理想と現実の二重性が、この一言に凝縮されているのだ。

ボブは答えられない。薬物に蝕まれ、記憶を失い、過去に縛られたまま「いま」を語る力を失っている。彼の沈黙は、敗北した世代の無力を象徴している。ここでのディカプリオの演技は忘れがたい。必死でありながら滑稽で、切実でありながら哀感を漂わせる。震える身体、荒い息遣い、焦燥と絶望の入り混じった表情。そこには「革命の夢を追いながら現実に押し潰された世代」の姿が凝縮されている。

だから私たち観客は、彼をただの敗者としてではなく、弱さをさらけ出しながらなお生き延びようとする存在として見る。PTAはディカプリオの身体を通じて、人間的な弱さこそが連帯と共感の基盤であることを示している。

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海の波と砂漠の波

映画はやがて砂漠のカーチェイスへと収束していく。PTAが「丘の川」と呼んだ道を、ボブとウィラ、そしてロックジョーらが疾走する。見通せない勾配が波のように連なり、車は跳ね、リズムを刻む。ここで砂漠は「波」を生み出し、上下に揺れるその道は、乾いた砂漠の丘陵を「波打つ海」のように変貌させる。

『インヒアレント・ヴァイス』におけるLAの海辺が、主人公の私立探偵ドック(ホアキン・フェニックス)の敗北した恋愛と自由へのノスタルジーを湛えていたとすれば、『ワン・バトル・アフター・アナザー』の砂漠は、現実の荒涼を突きつけながらも、なおその砂の下に自由=ビーチを見出そうとする意志を象徴している。

幾度もボブを窮地から救い出す守護天使のようなセルジオ先生は、事あるごとにこう言う。「海の波のようにあれ」と。ときに激しく、ときに凪いだ静けさをもたらす海。そう、自在に千変万化する海こそは、革命家たちにとって自由の象徴なのだ。だからこそ砂漠の「丘の川」という波は、抑圧と包囲の歴史を引き受けたうえで乗り越える突破の力へと変わっていく。新しい世代=ウィラが未来を掌握する瞬間の象徴となるのだ。

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ピンチョンからPTAへ──反知性主義の影と抵抗

本作はトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』からインスピレーションを得ている。ピンチョンは、体制の背後に潜む陰謀を暴く一方で、「真実」を相対化し、結果的に反知性主義の土壌を用意したとも批判されてきた。トランプ政権の「フェイクニュース」や「オルタナティブ・ファクト」は、その帰結にほかならない。

しかし、PTAはそうした逆説を引き受け、ピンチョン的なカオスとパラノイアを映画に移植しながら、それを「虚構に抗する映画」として転化させ、現在の政治状況に突き刺す。PTAが受け継いだのは、虚無ではなく、むしろ体制の虚偽を暴き、抑圧に抗うための想像力だ。ピンチョンが孕んだ矛盾を、映画というメディアで逆用し、体制の虚偽に立ち向かう形へと再編成していくこと。『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、トランプ政権の差別的政策や「法と秩序」を戯画化しながら、未来を担う娘に希望を託す物語となっている。そこにこそ、30年にわたって「擬似家族」を描き続けてきたPTAの作家としての進化がある。

永遠の革命のために

「時間は存在せずとも、我々を支配している」。この言葉が映す矛盾は、アメリカという国が辿ってきた歴史と、いまのアメリカの姿そのものだ。理念の永遠に殉じながら、現実の有限に絡め取られる。トランプの標榜するMAGA的「法と秩序」は、海の波のように包囲と抑圧と差別を繰り返す。しかしPTAは、その波に対抗するもう一つの波を砂漠に見い出す。

『インヒアレント・ヴァイス』の海は敗北した夢を映し出し、過去を照らす残光だった。『ワン・バトル・アフター・アナザー』の砂漠は、乾いた現実を突きつける。だがその砂を掴み、その下に自由のビーチを探し続ける意志こそが重要なのだ。その反復こそが、終わらない闘い——one battle after another——を生き抜く術となる。

「いま、何時だ?」という問いに答えられなかったボブを背に、ウィラが走り出す姿は、世代を超えて受け渡される革命の寓話である。時間は存在しない。しかし、時間は確かに私たちを支配している。その残酷な事実を抱えながらも、なお「今」を生きること。そこにPTAの映画が託す未来がある。

『ワン・バトル・アフター・アナザー』予告編

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STORY

最愛の娘と平凡ながらも冴えない日々を過ごす元革命家のボブ(ディカプリオ)。
突然、娘がさらわれ、生活が一変する。異常な執着心でボブを追い詰める変態軍人“ロックジョー”(ペン)。
次から次へと襲いかかる刺客たちとの死闘の中、テンパりながらもボブに革命家時代の闘争心がよみがえっていく…。ボブのピンチに現れる謎の空手道場の“センセイ”(デル・トロ)の手を借りて、元革命家として逃げ続けた生活を捨て、戦いに身を投じたボブと娘の運命の先にあるのは、絶望か、希望か、それともー

監督/脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:マイケル・バウマン、ポール・トーマス・アンダーソン
衣装:コリーン・アトウッド
音楽:ジョニー・グリーンウッド
出演:レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、レジーナ・ホール、テヤナ・テイラー、チェイス・インフィニティ
映倫区分:PG12

配給:ワーナー・ブラザース映画
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公式サイト:obaa-movie.jp #映画ワンバトル

10月3日(金)全国公開