ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』が、10月3日(金)にいよいよ日本公開を迎える。トマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』(90)から着想を得つつ、父と娘の物語へと大胆に脚色した本作は、20年にわたる構想と試行錯誤の末に結実した、監督の集大成とも言える作品だ。ロサンゼルスでの特別上映会ではスティーヴン・スピルバーグが三度鑑賞したうえで「なんてクレイジーな映画なんだ」と絶賛し、そのトーンをスタンリー・キューブリック監督『博士の異常な愛情』(64)に比肩する風刺の傑作と評した。豪華キャストの競演、「ビスタビジョン」によるフィルム撮影の復活、そしてアンダーソン監督独自の脚色手法が織りなす映像体験は、日本の観客にどのように響くだろうか。

ロサンゼルスでの対話──二人の巨匠が語り合う

公開を目前に控えたポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、すでにその話題性だけでなく、映画史的な意味合いをも帯びつつある。先日、ロサンゼルスのDGAシアターで行われた特別上映会の後、アンダーソンはスティーヴン・スピルバーグ監督と対談を行った。三度も本作を鑑賞したというスピルバーグは、冒頭から「なんてクレイジーな映画なんだ」と口火を切り、1時間の間に過去のアンダーソン監督作品すべてを凌駕するほどのアクションが詰め込まれていると絶賛。

二人の会話は、トマス・ピンチョンの原作小説『ヴァインランド』の映画化プロセスから、レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロら豪華キャストの起用、さらには現在ではほとんど使われない「ビスタビジョン」による撮影まで、多岐にわたった。スピルバーグはそのトーンを「スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』に最も近い」と形容し、笑いと不安が同居する独特の風刺的現実感を指摘した。

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ピンチョンとの距離と脚色の選択

本作はトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』から着想を得ているが、アンダーソンのアプローチは同じピンチョン原作である『LAヴァイス』(09)を映画化した『インヒアレント・ヴァイス』(14)のときとは真逆だ。『インヒアレント・ヴァイス』では原作の言葉をほぼ忠実に再現したのに対し、今回の『ワン・バトル・アフター・アナザー』では構造だけを残し、ほとんど引用を行っていない。

アンダーソンは「心から愛した本だからこそ、優しくしてはいけなかった」と語り、父と娘の物語という核だけを抽出し、長年にわたって蓄積してきたアイデア――砂漠でのカーチェイス、女性革命家、過去に追われる男――と結び合わせた。ピンチョンから直接許可を得てこの“裏切り”を実行したという事実は、彼が稀有な作家との稀な接触を持つ存在であることを物語る。

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長年の構想と待たれた出会い

アンダーソンがこの物語に最初に着手したのは20年前、カーチェイスを中心にしたアクション映画を書こうとしたのが発端だった。その後、数年ごとに戻っては手を加え、やがてピンチョンの小説との出会いで核を見つける。しかし決定的に重要だったのはキャスティング、とりわけ娘ウィラ役を担う存在を探し出すことだった。

「ウィラを演じる俳優が見つからなかったために制作を保留し、『リコリス・ピザ』(21)を作った」とアンダーソンは明かす。適役が見つかることでようやく物語は動き出し、レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロらとともに映画は完成へと至った。

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父と娘、そして“過去”の亡霊

アンダーソンが語ったのは、作品の中心にある「父と娘」の物語である。革命の余燼を背負った男が森の中で娘を育てる。しかし過去が容赦なく彼を追い詰める。この構造は、アンダーソンが初期から繰り返し描いてきた「家族=共同体の形成」と「その崩壊」のテーマに直結している。『ブギーナイツ』(97)における疑似家族、『マグノリア』(99)での断絶した親子、『ザ・マスター』(12)での信徒と師弟関係。それらの系譜の先に、本作はより純粋で同時に過酷な“血のつながり”を置いている。

試行錯誤の末に残されたのは父娘の感情の核であり、そこに彼自身が父となった経験が深く結びついた。過去の記憶に縛られる男の姿は、アメリカという移民国家の“家族史”のメタファーとしても読めるだろう。

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俳優との共犯関係

ディカプリオやペンを脚本段階から念頭に置いていたことは、アンダーソンの創作の特徴を示す。彼は常に役者の身体や声を想像しながら人物を立ち上げ、撮影現場では彼らのアイデアを取り込み、物語を流動させていく。ディカプリオが「これはひどいアイデアだけれど」と前置きしながら、実は鋭い提案を行うという逸話はその好例だ。スピルバーグも彼と『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(02)を共にした経験からその意見に同意を示した。

また、遅れて現場に参加したベニチオ・デル・トロが“代打”のように膨大なアイデアを持ち込んだことも、映画のエネルギーを決定づけている。鋭い提案を重ねるディカプリオ、デル・トロのアイデアと即興力、そしてショーン・ペンが持ち込む不穏と破格の存在感。アンダーソンの現場は、監督が唯一の支配者ではなく、俳優との緊張関係から作品が生成される場であることが改めて明らかになった。

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フィルムの“呼吸”

そして、本作で特筆すべきは「ビスタビジョン」の復活である。『ザ・マスター』で試み、トム・ヨークとの短編『ANIMA』(19)で実験し続けてきたフォーマットを、今回はついに長編映画で本格的に使用するに至った。重く扱いづらいカメラをオペレーターが「ヨガのように」操作しながら撮影する過程は、「もはや身体芸術に近い」とアンダーソンは語る。

また、スピルバーグが「有機的な粒子が作品を生き生きとさせる」と語ったように、この選択はデジタル時代においてフィルムの“呼吸”を取り戻す試みである。スクリーンに映し出されるのは単なる映像ではなく、同じ空間に生きているかのような質感だ。アンダーソンが「フィルムは私たちと同じ空間にいるのです。生きていて、呼吸していて、何か問題も起こりうる、それがエキサイティングなのです」と語ったのは、映画=フィルムが未だに“現在”を呼吸する芸術であることの宣言でもあるだろう。

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日本公開へ向けて

10月3日の日本公開が近づくにつれ、本作に期待されるのは単なる娯楽性だけではない。アクションの連続は視覚的快楽を保証するが、その根底にあるのは、過去と現在が衝突するアメリカ社会の寓話であり、父娘という普遍的な感情の物語である。アンダーソンの作品は常に、観客を単なる消費者としてではなく、共同体をどう形成しうるかという問いに巻き込む。『ワン・バトル・アフター・アナザー』は極めて現代的な作品であると同時に、いまを生きる私たちに「何ができるのか」「家族とは何か」と問い返す。そこに、日本の観客が自らの社会や歴史を省み、重ねる余地があるだろう。

スピルバーグが「映画が永遠に生き続けますように」と締めくくった言葉は、AIやストリーミングの時代において、映画を「いまを生き、呼吸する芸術」として守ろうとする祈りにも聞こえる。アンダーソンは常に過去の映画形式を掘り起こしながら、それを現在の文脈に接続してきた。『ワン・バトル・アフター・アナザー』はその集大成であり、狂気のような疾走感とともに、笑いながら絶望するその先の境地へと導いていく。そう、途切れることなく戦い続ける、今日の私たちのために。

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参考: The FilmStage “Steven Spielberg Praises Paul Thomas Anderson’s One Battle After Another”

『ワン・バトル・アフター・アナザー』予告編

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STORY

最愛の娘と平凡ながらも冴えない日々を過ごす元革命家のボブ(ディカプリオ)。
突然、娘がさらわれ、生活が一変する。異常な執着心でボブを追い詰める変態軍人“ロックジョー”(ペン)。
次から次へと襲いかかる刺客たちとの死闘の中、テンパりながらもボブに革命家時代の闘争心がよみがえっていく…。ボブのピンチに現れる謎の空手道場の“センセイ”(デル・トロ)の手を借りて、元革命家として逃げ続けた生活を捨て、戦いに身を投じたボブと娘の運命の先にあるのは、絶望か、希望か、それともー

監督/脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:マイケル・バウマン、ポール・トーマス・アンダーソン
衣装:コリーン・アトウッド
音楽:ジョニー・グリーンウッド
出演:レオナルド・ディカプリオ、ショーン・ペン、ベニチオ・デル・トロ、レジーナ・ホール、テヤナ・テイラー、チェイス・インフィニティ
映倫区分:PG12

配給:ワーナー・ブラザース映画
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公式サイト:obaa-movie.jp #映画ワンバトル

10月3日(金)全国公開