ホラー映画の恐怖は、常に時代の倫理を映し出してきた。かつては吸血鬼や怪物、悪魔のように、人智を超えた存在が人間を脅かしていた。しかし21世紀を迎えた私たちは、それがもはや“外部の敵”ではなく、“私たち自身の内面や制度、関係性の歪み”にこそ潜んでいることを知っている。つまり、ホラーが映すものは「他者の悪」ではなく、「私たち自身のなかにある悪意」そのものなのだ。
『羊たちの沈黙』からJホラーへ
その倫理的変遷の起点として、まず想起されるべきは『羊たちの沈黙』(91)である。表向きは犯罪捜査を軸とするサイコスリラーでありながら、この映画はホラー映画史にとって決定的な分岐点となった。それは、恐怖の源をモンスターや幽霊といった“超自然的な外部”からではなく、人間の知性と欲望が極限にまで純化された先にある“冷徹な悪意”へと移動させたからである。
ハンニバル・レクター博士は、他者を喰らう殺人者でありながら、同時に文化人であり、美学の人であり、何よりも“理解されうる者”である。そのことが観客を深く混乱させる。私たちが恐れるのは、彼が怪物だからではない。彼があまりにも「人間的」だからである。
『羊たちの沈黙』予告編
この「悪意の知性化」は、1990年代末に日本で新たな形をとって現れた。いわゆる「Jホラー」である。中田秀夫監督、高橋洋脚本の『リング』(98)に登場する貞子は、当初こそ「怨霊」として語られたが、その呪いの構造には恨みや報復という動機はほとんど感じられない。貞子はただ「見た者を殺す」だけであり、その動機や意志は一切語られない。むしろ、彼女の存在は伝染するウイルスや、自己増殖するアルゴリズムのように動作し、意味や感情を伴わずに人を殺していく。
ここで描かれているのは、悪意がすでに人格を超えた抽象的構造として存在している世界である。それは“悪い人がいる”という道徳的な語りから、“世界そのものが何かに感染している”という不条理への転換を意味する。
このJホラーの感性は、黒沢清や高橋洋といった映画作家たちによってさらに徹底される。『CURE』(97)では、他人に催眠をかけて殺人を引き起こす男が登場するが、誰もが彼に従ってしまう理由は不明なままである。悪意は外部からの強制ではなく、自分のなかにあったものが何かに“解錠された”かのように目覚める。『回路』(01)では、死者たちはインターネット回線を通じて現れるが、彼らは何も主張せず、ただ空間を静かに侵食する。ここでも、悪意は語られず、説明されず、ただ不可避の“気配”として存在する。
Jホラーが描いてきたのは、「他者の悪」ではなく、「無関心な世界における倫理の空白」である。誰もが加害者にもなり得るし、ただ傍観する者にもなり得る。恐怖とは、その“見てしまった”という事実に自らを関与させられることに他ならない。
『CURE』予告編
Jホラーの影響を受けた韓国ホラーの進出
このJホラーの感性は、2000年代以降の韓国ホラーへと受け継がれ、さらに暴力的に、社会的に、そして宗教的に拡張されていく。ナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』(16)はその顕著な例だろう。ある農村で次々と起こる不可解な殺人事件と病の流行。登場するのは、謎の日本人、不気味な祈祷師、助けを求める少女。誰が善で誰が悪なのか、誰を信じればいいのか、観客も主人公も一貫して判断不能に陥る。
この映画で描かれているのは、もはや「悪魔の正体」ではない。「悪魔だと思い込むことが、すでに悪を発動させている」というメカニズムそのものである。悪意は他者のなかにあるのではなく、自分が「判断」した瞬間に生まれる。ここには、サイコホラーが提示した“悪の知性”と、Jホラーが描いた“倫理の空白”が、宗教と社会の境界で激突している。
ポン・ジュノ監督の『グエムル -漢江の怪物-』(06)もまた、怪物映画の仮面をかぶりながら、恐怖の本体を国家や制度の機能不全に見出している。怪物が現れても、政府は隠蔽し、メディアは錯乱し、家族は分裂していく。誰もが善意のふりをしているが、誰も責任を取らない。そこにあるのは、「個人の悪意」ではなく、「制度の中に散り散りになった無関心と保身」である。
さらに、パク・チャヌク監督の『渇き』(09)では、善意や愛の名のもとに、人は他者を所有し、吸いつくし、破壊する。吸血というモチーフは、ここでは単なるモンスター性の象徴ではない。人間関係のなかに潜む“純粋すぎる欲望”の比喩として機能する。
『哭声/コクソン』予告編
21世紀の恐怖とは
こうして見ると、『ハリウッド・リポーター』誌が選んだ「21世紀ホラー映画ベスト25」の多くの作品に通底するのは、「悪を倒す物語」ではないという点だ。むしろそれらは、「悪を見抜けなかったこと、無視していたこと、自分のなかにあると気づかなかったこと」を観客に突きつける映画である。
『ゲット・アウト』(17)では、差別は怒号や暴力ではなく、リベラルな微笑みのなかに潜んでいた。『ヘレディタリー/継承』(18)では、家族が連綿と引き継いでしまう破滅の力が描かれ、『ババドック 暗闇の魔物』(14)では母性という愛情の裏側に、抑えきれない拒絶と怒りが潜んでいた。『イット・フォローズ』(14)における“それ”は誰でもないが、逃げても必ず追いかけてくる。『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(13)では、共感を持たない視線がいかに他者を消費してしまうかを無言のうちに描いてみせた。
すべての恐怖は、自己と世界との関係において、私たちがどれほど鈍感で、無関心で、見誤る存在であるかを教えてくれる。『羊たちの沈黙』が開いたサイコホラーの知性は、Jホラーによって無意識の倫理の空白へと深化され、韓国ホラーによって社会的/宗教的ジレンマのなかで再構成され、そしてそれは21世紀に至って「見ることの倫理」そのものに反転された。
恐怖とは、外部にいる何かに震えることではない。それは、自分が見てしまった、あるいは見なかったことにされてしまったものに対して、倫理的に応答できないときに生まれる感情である。そしてその応答不能の悪意は、スクリーンの向こうにではなく、スクリーンを見ている私たち自身の内部に静かに潜んでいる。
『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』予告編
ハリウッド・レポーター誌選出「21世紀のホラー映画ベスト25」
- アンダー・ザ・スキン 種の捕食(13)/監督:ジョナサン・グレイザー
- ゲット・アウト(17)/監督:ジョーダン・ピール
- ぼくのエリ 200歳の少女(08)/監督:トーマス・アルフレッドソン
- ババドック 暗闇の魔物(14)/監督:ジェニファー・ケント
- グエムル-漢江の怪物-(06)/監督:ポン・ジュノ
- 28日後...(02)/監督:ダニー・ボイル
- 新感染 ファイナル・エクスプレス(16)/監督:ヨン・サンホ
- パンズ・ラビリンス(06)/監督:ギレルモ・デル・トロ
- 死霊館(13)/監督:ジェームズ・ワン
- ヘレディタリー/継承(18)/監督:アリ・アスター
- ウィッチ(15)/監督:ロバート・エガース
- アス(19)/監督:ジョーダン・ピール
- ノスフェラトゥ(24)/監督:ロバート・エガース
- アザーズ(01)/監督:アレハンドロ・アメナーバル
- セイント・モード/狂信(19)/監督:ローズ・グラス
- 罪人たち(25)/監督:ライアン・クーグラー
- 透明人間(20)/監督:リー・ワネル
- Presence(24)/監督:スティーヴン・ソダーバーグ
- イット・フォローズ(14)/監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
- スペル(09)/監督:サム・ライミ
- 獣の棲む家(20)/監督:レミ・ウィークス
- アンダー・ザ・シャドウ(16)/監督:ババク・アンヴァリ
- クワイエット・プレイス(18)/監督:ジョン・クラシンスキー
- トーク・トゥ・ミー(22)/監督:ダニー・フィリッポウ、マイケル・フィリッポウ
- ボーンズ アンド オール(22)/監督:ルカ・グァダニーノ
参考:The Hollywood Reporter “The 25 Best Horror Movies of the 21st Century, Ranked”