『IndieWire』誌による「史上最高の“食の映画”10選」

一皿の料理は、どれほど多くの物語を語ることができるだろうか。食材を選ぶ手つき、煮立つ鍋から立ちのぼる香り、スプーンを口に運ぶ一瞬の間。映画は、こうした“食べる”というもっとも日常的で身体的な行為を通じて、人間の欲望や関係性、歴史や制度を鮮やかに浮かび上がらせてきた。

米IndieWire誌が発表した特集「The Best Food Movies Ever Made」は、まさにその証左とも言える一覧だった。選ばれた映画には、フランス料理の美を描いた名作から、消費社会への批判を孕んだ実験的な作品、さらにはラーメンの屋台料理といった庶民の味を主役に据えた物語まで、実に多様なジャンルと視点が並んでいた。

この多様性が物語るのは、食の映画が決して“料理映画”や“美味しそうな映像を楽しむ作品”にとどまらないということだ。食べ物は人が生きるための単なる栄養源ではない。記憶をつなぎ、家族を結び、ときに社会への批評や芸術の表現ともなる。料理の湯気の向こうに浮かび上がるのは、人生の喜びや哀しみ、そして人と人との関係である。

『バベットの晩餐会』予告編

- YouTube

youtu.be

以下に選ばれた10本の映画は、「食べる」という行為を通じて人間の営みを豊かに映し出す。文化、家族、愛、死、欲望――食卓には、人生のすべてが詰まっている。

⒈『最後の晩餐』(1973年|マルコ・フェレーリ監督)

⒉『タンポポ』(1985年|伊丹十三監督)

⒊『バベットの晩餐会』(1987年|ガブリエル・アクセル監督)

⒋『コックと泥棒、その妻と愛人』(1989年|ピーター・グリーナウェイ)

⒌『恋人たちの食卓』(1994年|アン・リー監督)

⒍『シェフとギャルソン、リストランテの夜』(1996年|キャンベル・スコット&スタンリー・トゥッチ監督)

⒎『ソウル・フード』(1997年|ジョージ・ティルマン・ジュニア監督)

⒏『落穂拾い』(2000年|アニエス・ヴァルダ監督)

⒐『レミーのおいしいレストラン』(2007年|ブラッド・バード監督)

10.『ファースト・カウ』(2019年|ケリー・ライカート監督)

たとえば、デンマーク映画『バベットの晩餐会』(87)は、禁欲的なプロテスタント共同体に流れ着いたひとりのフランス人女性バベットが、当選した宝くじの金をすべて投じて、村人たちに一夜限りの晩餐をふるまうという物語だ。バベットはかつてパリ・コミューンの動乱を逃れた家政婦であり、彼女が提供する料理はただのご馳走ではない。それは沈黙の村人たちに向けられた愛であり、芸術であり、そして祈りに近い“贈与”の行為である。料理を味わう村人の表情が静かにほどけていくさまを通して、この映画は“食べる”という行為が、心を変容させ、社会を開き、信仰と芸術の境界を撹乱する力を持つことを静かに提示する。

『最後の晩餐』予告編

- YouTube

youtu.be

一方で、マルコ・フェレーリ監督による『最後の晩餐』(73)は、その対極に位置する。4人の中年男が豪邸に籠り、ひたすら食べ続けて死を迎えるという奇怪なプロットは、享楽的な映像の中に死の気配と虚無を滲ませている。料理の豪奢さはここではもはや美の対象ではなく、飽食社会の崩壊と、欲望が制度化された世界への激しい皮肉を意味する。食べることは生きることではなく、死への直行であり、“食の映画”がいかに常識を覆すような表現にも開かれているかを改めて思い知らされる。

そしてピクサーのアニメーション映画『レミーのおいしいレストラン』(07)は、そうした重層性の中に、軽やかで普遍的な希望を吹き込んだ作品として、IndieWireでも特に高く評価されている。料理を愛するネズミのレミーが、階層社会の象徴でもあるパリの高級レストランで、自らの創造性を証明してゆく物語は、味覚の力によって記憶が喚起され、人の心が変わるという、食と物語の親密な関係を鮮やかに描き出す。料理評論家のイーゴが、レミーの料理により子どもの頃の台所の記憶を呼び戻されるシーンは、食が時間と記憶を横断する力を持つことを示す、美しくも繊細な瞬間だ。

『タンポポ』予告編

- YouTube

youtu.be

このように見ていくと、“食の映画”とは人や文化の縮図を皿の上に再構成する映画だといえるかもしれない。イタリア移民の兄弟が経営するレストランの“運命の一夜”を描いた『シェフとギャルソン、リストランテの夜』(96)では、食が文化や芸術の持つ誠実さと商業主義との葛藤を浮かび上がらせる。アン・リー監督の台湾映画『恋人たちの食卓』(94)では、家庭の食卓が世代間の感情の橋渡しとして機能し、伊丹十三監督の『タンポポ』(85)は、一杯の完璧なラーメンをめぐる人々の奮闘を、笑いとエロス、そして独自の哲学で包み込む。食べることの悦びがあらゆる形で祝福され、卵の黄身が男女の唇の間を行き来するシーンなど、まさに官能の料理映画といえるだろう。

そうした中でも、もっとも過激に“食”のイメージを反転させた作品のひとつが、ピーター・グリーナウェイ監督の『コックと泥棒、その妻と愛人』(89)だろう。豪奢なレストランを舞台に繰り広げられる暴力と性愛、復讐のドラマの中で、料理はもはや快楽の対象ではなく、権力の象徴、支配と暴力の演出装置と化していく。赤と緑の極端な色彩設計や演劇的なセット、バロック音楽の中で供される料理の数々は、観る者に「これは本当に食事なのか?」という不穏な問いを突きつける。ショッキングなラストは、食が欲望の最終形態であると同時に、その裏に潜む暴力と服従の構造を露わにする。この映画のように、食はときに美ではなく、狂気や支配のメタファーとなるのだ。

『コックと泥棒、その妻と愛人』予告編

- YouTube

youtu.be

加えて、アニエス・ヴァルダ監督の『落穂拾い』(00)では、フランスの片隅で畑に捨てられた食べ物を拾って暮らす人々の姿が、食と価値、所有と倫理を問うドキュメンタリーとして記録されている。ケリー・ライカート監督の『ファースト・カウ』(19)では、一頭の牛のミルクを盗み、揚げ菓子を売って生計を立てる2人の移民を中心に、資源をめぐる搾取の構図の中で、料理が友情と希望の媒介となりながらも、やがて資本主義の論理に呑まれていく寓話的な物語が展開する。

食べるという行為は、映画の中でしばしば沈黙と共にある。それは言葉より雄弁であり、制度より柔軟であり、個人よりも広い記憶に繋がっている。IndieWireの特集が私たちに再認識させたのは、料理や食卓を描くことが、家族の関係や社会の矛盾、歴史の地層や芸術の本質にまで踏み込む表現であるという事実だ。

『落穂拾い』予告編

- YouTube

youtu.be

『ファースト・カウ』予告編

- YouTube

youtu.be

食の映画とは、食べることの喜びを超えて、その行為が内包する倫理と感情と制度の複雑さを、あらゆる角度から照射しうる、きわめて政治的かつ詩的な映画ジャンルだとはいえないだろうか。そして何より、それは観客にとって最も“自分の身体”を通じて感受できる映画体験でもある。

映画がスクリーンの向こうでスープを煮込み、ナイフで果物を切り、パンをちぎるとき、私たちはその味を想像しながら、誰かの記憶や痛み、希望を、ひととき自分のものとして引き受けることになる。そこにあるのは、映像の中の味覚ではなく、記憶と時間の共有――つまり、映画のもっとも原初的な力なのだ。

参考:IndieWire “The Best Food Movies Ever Made”