7月9日は、私の父・西田智の命日だった。父は2000年、自身の誕生日である7月9日に亡くなった。父は1925年生まれ。この日は、生誕100年という大アニーバサリー・デーであった。
彼は、松竹京都の元俳優であり、溝口健二監督の弟子であった。
父は立命館大学演劇部の部長をしていて、俳優兼演出家として活躍していた。NHKの全国ラジオドラマコンクールで優勝したこともあった。父の後輩に、『ルパン三世』の銭形警部役で知られる俳優・納谷梧朗さんがおられ、高校生の頃、父に連れられて納谷さんが出演されている筒井康隆作の舞台「12人の浮かれる男」の京都公演へ行き、その時に納谷さんにもお会いした。いつか納谷さんにお会いして父のことを聞きたかったのだが、残念ながらそれは叶わなかった。
父が学生の頃だと思うが、嵐電(京福電車)に乗っていると、貫禄のある中年男性に声をかけられる。彼が「溝口です。西田さんですね」と言った。彼が溝口健二だった訳だが、その時父は日本映画界の大巨匠であった溝口のことを知らなかったという。溝口家と西田家は同じ御室(おむろ)駅(今は御室仁和寺駅)が最寄駅で、今度遊びにいらっしゃいと言われて、父は溝口のところで飲むようになった。
父は、その頃映画監督になりたかったのだが、溝口は父に俳優になることを勧めた。「監督なんて俳優として発言力がついたらいつでもなれます。僕は俳優になりたかったんだけれど、なれずに監督になったんだ」。そうして、父は溝口監督の『武蔵野夫人』で映画デビューし、その後数本の映画に出た後、溝口の推薦もあって、松竹京都に入社する。
その間、溝口の『西鶴一代女』『お遊さま』にも小さな役で出演するが、親父の名はクレジットにない。『西鶴』の時は、父は助監督(溝口のカバン持ちだったという説がある)をしていた。溝口は、本作でヴェネチア国際映画祭の国際賞を受賞する。
その受賞の直後、父と二人で飲んでいる時、溝口は突然泣き出したという。どうしたのかと尋ねると、「僕は、これ以上の映画が撮れないと思います」と言ってオイオイと泣いたという。
その後溝口は大映の専属になり、父は松竹専属で、溝口作品には出られなくなる。だが、例外的に他社出演として、父は大映京都の『新・平家物語』に出演した。映画をご覧になった方は思い出していただきたい。市川雷蔵演じる平清盛の友人で、進藤英太郎が演じた商人を紹介する緑色の衣裳を着た武士が出ていることを。それが遠藤光遠を演じた父である。
その撮影の現場で、溝口の雷が落ちた! 父の演技に延々ダメ出しが出る。以前には考えられなかったことであり、『武蔵野夫人』の時は何も言われなかったのに…。
溝口健二監督の罵倒は続く。
「西田君、ギャラはいくら取っているのかね」
「君は、昔は良かったですよ。それが、これが演技ですか? 君は『君の名は』を映画だと思っているんじゃないでしょうね!」
「松竹がいかんのですかね。松竹が君をダメにしたんですかね」(自分が推薦しておきながら)
「ああ、そうだ。俳優協会の事務所に空きがあると聞きましたよ。そこへ行かれたらどうですか」。この言葉がいちばん堪えたらしい。
「雷蔵、あいつは日本語がしゃべれないんだからね。そうそう、(林成年を指して)この長谷川(一夫)の息子の方がましですよ」
この時のエピソードは、父から百回ぐらい聞かされた。飲むたんびに言うのだ。どうやってOKが出たのかは、話に出ないのでよくわからない。恐らく1日中かかって撮影は終わった。セットを去りながら溝口は、撮影の宮川一夫に話している。
「宮川君、西田君の芝居はあれでいいですよね…どうですか」
などというのが父の耳に聞こえてくる。
父は、これで溝口先生との仕事は終わったと思った。
溝口が死の病に冒されて、京都府立病院に入院した時、父は訪れている。溝口の死の瞬間にも立ち合っている。その時の光景が忘れられないという。何か魂がわーっと昇っていくのが見えたという。
溝口は次回作として『大阪物語』を準備していた。父は、溝口の側近から聞かされたという。『大阪物語』に配役されていた、と。
涙が溢れた。
その後、松竹京都で仲間の監督から、「智ちゃん、溝口先生の映画でのような芝居を見せてくれよ」と頼まれるが、それには応えられない。溝口ほど俳優から演技を引き出す才能がある監督はいないのだ。
2025年、父が生誕100年を迎えた年。私はついに監督デビューを果たすことができた。監督志望だった父が叶えられなかった夢を叶えられたわけだ。父も喜んでくれていることだろう。