(「蓮鷺図襖」 狩野山楽 江戸時代 17世紀 十六面 正伝永源院)

(サントリー美術館のエントランス)

巷間に流布している「有楽町」や「数寄屋橋」といえば、徳川家康から拝領した織田有楽斎(1547-1622)の邸宅跡であるという説は、みなさんよくご存知のことと思います。

しかし、日頃慣れ親しんだ地名だけではなく、織田有楽斎の存在は、それ以上に織田信長(1534-1582)の弟として知られているかもしれません。信長は織田信秀の二男でしたが、有楽斎は十一男でした。ふたりには年齢差がありました。『信長公記』など古文書や文献には、信長の嫡男の信忠の部下として、武田信玄の高遠城攻めや安土城の式典や京都の馬揃えなどの行例には、武士としての有楽斎の名前が明記されています。

二人の年齢と生没年を比較してみるとわかりますが、信長は「本能寺の変」で若くして亡くなりますが、有楽斎は京都の臨済宗の建仁寺の塔頭のひとつを再建隠棲し、現在の「正伝永源院」にて茶人としての七十五歳の長い人生を生きて亡くなります。あわせて豊臣秀吉(1536-1598)と徳川家康(1542-1616)の生没年について考えてみることは、有楽斎のその後の人生を考える上でとても有益なことではないかと思われます。

というのは、兄の織田信長から、「本能寺の変」の事後処理を契機に台頭した豊臣秀吉を経て、関ヶ原の戦い以後は徳川方に近づくと「大坂冬の陣」を経て、京都に隠棲し、「大坂夏の陣」後に徳川家康が亡くなるのですが、その後まで有楽斎は三人の天下人のもとでまことに長命の人生を歩みました。

この展覧会は、大名茶人といわれる織田有楽斎の「四百年遠忌」を記念して、東京のサントリー美術館で開催されます。

(「本能寺跡出土瓦」 桃山時代 16世紀 三十一点 京都市)

しかし、信長の弟の有楽斎には、不名誉として伝えられる事件がありました。それは、いうまでもなく、兄の織田信長が部下の明智光秀によって「本能寺の変」(天正10年(1582)6月2日)で亡くなった時でした。本能寺は、現在は京都の寺町にありますが、当時は、西洞院通と蛸薬師通の交差点の先にありました。

有楽斎は、当日の夜、いつもは信長の宿泊所である妙覚寺に宿泊していましたが、仕えていた信長の嫡男の信忠と誠仁親王が宿泊していた二条御所に移ります。そして誠仁親王を御所へ逃したのですが、信忠は自害し、みずからは安土城から岐阜へと逃げ延びます。こうして、「事件」としての「本能寺の変」は、兄の信長だけではなく、まさに弟の有楽斎にとっての「事件」となったのです。歴史の叙述は、「逃げる男」としての有楽斎の虚像を反復させ、そうした情報の流布は、今日に至るまで続いています。

幕末の戊辰戦争の発端となった「鳥羽伏見の戦い」(慶応4年(1868)1月)がありました。その時、大阪の方では、幕府軍が薩摩と長州の連合軍に優勢であったにもかかわらず、徳川慶喜は多くの部下を残したまま大阪城を脱出して、榎本武揚の軍艦で江戸に帰ってきてしまいます。「逃げる男」となった、水戸家出身の15代将軍のこの時の徳川慶喜の挙動とそれからの人生に著しく似たものを感じるのは、私だけでしょうか。

会場には、「本能寺の変」で焼け残った出土瓦が三十一点展示されています。

(「蓮鷺図襖」 狩野山楽 江戸時代 17世紀 十六面 正伝永源院)

かつて、「織田有楽斎」というタイトルで、単体の特集をした展覧会はありませんでした。そうした意味で、今回の展覧会では、細川家の支援を受けてきた「正伝永源院」の客殿を飾る狩野山楽の「蓮鷺図襖」や江戸時代初期から寺宝とされる北宋の徽宗作(伝)とされる8幅の「架鷹図」を見ることができる特別な催し物となっています。

そうしたことからも予想される通り、今回の展覧会と一連の催し物から織田有楽斎の再考や再発見につながる糸口が見つかるかも知りません。

それとともに、明治以後の廃仏毀釈によって、歴史的に甚大な被害を被った京都の臨済宗の建仁寺の「正伝永源院」という塔頭の存在と現在のご住職のご協力無くしては、この展覧会は成立しませんでした。

この展覧会の全体の構成は、以下の5部となっています。

第一章 織田長益(有楽斎)の活躍と逸話−“逃げた男”と呼んだのは誰か

第二章 有楽斎の交友関係

第三章 数寄者としての有楽斎

第四章 正伝永源院の寺宝

第五章 織田有楽斎と正伝永源院−いま、そしてこれから−

(重要美術品「大井戸茶碗 有楽井戸」 朝鮮王朝時代 16世紀 一口 東京国立博物館)

今回の展示品には、多くの茶道具が出品されています。

しかし、そのなかでは何といっても、この「大井戸茶碗 有楽井戸」の魅力に惹きつけられる人が多いことと思います。

この重要美術品は、南宋時代の「唐物文琳茶入 銘 玉垣」とともに、有楽斎の所持されたものと認められたものですが、その後、紀伊国屋文左衛門に伝わったものです。その後、諸所を転伝し、江戸の仙波太郎左衛門、薩摩の伊集院兼常、大阪の藤田家を経て、松永安左エ門の所持となりましたが、現在は東京国立博物館に寄贈されています。

井戸茶碗は、朝鮮半島の慶尚南道で李朝前期に生産されたものです。多くは、渋い色調の灰褐色の素地に、白釉をかけた高麗茶碗とよばれるものです。この茶碗には竹の節状の高台があり、本来は民間の粗製の祭器や日用雑貨としての生活容器でした。当時の茶人たちにとって、特に桃山時代以降の侘茶の茶人たちは、ことのほかこの「井戸」茶碗を珍重し、彼らの美意識はかきたてられたのです。

(右から「茶杓」 千利休 桃山時代 16世紀 一本 正伝永源院【展示期間:1/31~2/26】、真中が「茶杓 銘 落葉」 織田有楽斎 桃山~江戸時代 16~17世紀 一本 正伝永源院、一番奥が「茶杓」 織田有楽斎 桃山~江戸時代 16~17世紀 一本 正伝永源院)

有楽斎は、前田利長、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部などの戦国の諸大名とともに、千利休とも交流がありました。有楽斎の茶風は、その後「有楽流茶道」として、現在も継承されています。

利休(1522-1599)は、堺に生まれた桃山時代の茶人ですが、武野紹鷗に茶を学び、「茶湯」の諸形式を完成した人物でした。小説『秀吉と利休』(野上弥生子)や『本覚坊遺文』(井上靖)、『利休にたずねよ』(山本謙一)の世界は、いくつもの映画にもなっています。

その茶風は、素朴な茶を信条とする「侘茶」を第一とし、その大成者の位置にあります。そこには、従来の唐物の美術品から茶道具に朝鮮の陶磁器や日常雑器を取り入れる革新的な眼識がありました。このことからわかるように、有楽斎の茶の基本にも、同様の嗜好があります。そこに、有楽斎がこの「大井戸茶碗」を所持していた秘密も明らかな意味として理解できます。

利休は、山崎の地に「待庵」(国宝)を建てますが、有楽斎は京都に隠棲して、建仁寺の塔頭正伝院を再建し「如庵」を建てると、そこで茶人としての人生を全うしました。この「如庵」(国宝)は、現在、犬山市に移築されていますが、当時はこの会場に展示されている「如庵」の扁額も掛けられていました。富岡鉄斎は、江戸時代の作品ですが、「如庵図」の絵を描いています。

(「有楽斎手造茶碗」 桃山~江戸時代 16~17世紀 一口 正伝永源院)

有楽斎がみずから手造りで作ったと伝えられる赤茶碗です。

有楽斎は、その他茶杓や茶入れ、茶碗などの茶道具をみずから作って、茶会で使用しています。この作品は、ところどころが、黒みかがって窯変し、口唇部はゆるやかな波のようです。胴部には、陰刻された有楽斎の花押がみえます。一度欠けたとみえ、その痕跡も丁寧な金継ぎによって確認できます。

このように一連の作品を拝見してきますと、有楽斎の数寄者としての風情を伺うことができます。

(「黒楽「正傳院」字茶碗 伝仁阿弥道八 江戸時代 19世紀 二口 正伝永源院)

この黒楽茶碗には、それぞれ「正」「伝」「院」の字が焼き付けられています。

作者の仁阿弥道八は、京都の江戸時代以来の世襲の陶工の血筋にありますが、2代目になると、奥田潁川に学び、野々村仁清や尾形乾山からの影響も得て、琳派風の新境地を見出します。

特に注目する焼き方には、彫塑的なものを得意としている作品が多いということです。

(中央奥が「御本立鶴写茶碗」 仁阿弥道八 江戸時代 19世紀 一口 正伝永源院、中央が「芋頭水差」 初代高橋道八 江戸時代 18~19世紀 一合 正伝永源院【展示期間:1/31~2/26】、手前が「瀬戸茶入」 室町時代 15世紀 一口 正伝永源院【展示期間:1/31~2/26】)

(「烏図真形釜 銘 濡烏」 室町時代 15世紀 一口 東京国立博物館)

(「秋草文蒔絵香炉」 桃山時代 16~17世紀 一口 正伝永源院)

(右から「徳川家康書状」 江戸時代 17世紀 一幅 正伝永源院、「織田有楽斎書状 藤堂和泉守宛」 江戸時代 17世紀 二月一日 一幅 正伝永源院、「織田有楽斎書状 石川玄蕃宛」 江戸時代 17世紀 三月二十一日 一幅 正伝永源院)、「織田有楽斎書状 加藤与三右衛門宛」 江戸時代 17世紀 四月二十三日 一幅 正伝永源院)

【展示期間:1/31~2/26】

さて、有楽斎の書状は、その交友関係の広さを示すものですが、それと同時に、「茶掛」という空間創出に、四畳半の茶の湯を創始した村田珠光や侘茶を導入した利休の師である武野紹鷗からの時代の変化をみてとれます。

これまで茶室の掛け軸は、中国を中心とした美術品が主でしたが、以後圧倒的に中国の名僧などの墨蹟が多くなってきます。やがてその空間は、武野紹鷗、千利休、村田珠光、そして織田有楽斎の墨跡によって飾られるようになりました。ここでは、そうした茶人としての晩年の生活の一端も知ることができます。

正伝永源院には、「一休宗純墨蹟」や「本阿弥光悦書状」「蘭溪道隆墨跡」などの墨跡があり、会場にも展示されています。

その中には、織田有楽斎宛の書状が多数あります。「細川忠興」「桑山左近」「前田玄以」「松平陸奥守」「福島正則」「金地院崇伝」「千道安」などが、現在、正伝永源院に残されています。また、織田有楽斎からの出された書状には、「藤堂和泉守」「土井大炊助」「石川玄蕃」「加藤与三右衛門」「伊勢屋道八」「梅今軒」「東心老」「松庵老」「中納言」「小出信濃守」「古田織部」その他に宛てた書状が残されています。

(「織田有楽斎坐像」 江戸時代 17世紀 一軀 正伝永源院)

現在、世間で知られている有楽斎の木造彫刻は、この作品しかありません。

しっかりと見開かれた両目の奥には、織田有楽斎が、数寄者としての茶人の人生を持続して、稀に見る僧形としての内面と苦労は、誰にも語ることができないほどの表情となって見えてくるようです。

このように、晩年に至るまで生き抜くことで「織田」家の名前を残した有楽斎の実像は、未だ不明な点が多く、またその蒐集品や身近な調度品も「伝」として取り扱われていますが、あらたな有楽斎の数寄者の姿とその時代の姿を想像することは、喧騒と忙しさに身を投げ込んでいる現代人にとっても、とても楽しいものです。

(サントリー美術館のグッズコーナー)

充実した「織田有楽斎」のグッズコーナーは、茶の湯の世界の入り口になるかもしれません。

正伝永源院の境内には、移設された「武野紹鷗供養塔」があります。この供養塔は、大正七年に製作されたものですが、長らく大阪の藤田家のもとにあったものが、先頃、境内に奉納されたものです。

武野紹鷗を尊崇していた茶人有楽斎の石像の墓は、この供養塔を模した形状で、境内の一角にあります。

【開催概要】

会 期: 2024年1月31日(水)~3月24日(日)

会 場:
サントリー美術館(東京ミッドタウン[六本木]ガレリア3階)

〒107-8643
東京都港区赤坂9-7-4

休 館 日:
毎週火曜日(ただし3月19日は、20時まで開館。)

開館時間:
午前10時~午後 6時
※入館は閉館の30分前まで

金・土曜日および2月22日(木)、3月19日(火)は午後8時まで

入 館 料:
一般1,600円 大・高生1,000円 中学生以下無料

問い合わせ: TEL 03-3479-8600

ホームぺージ: https://www.suntory.jp/SMA/

主 催:サントリー美術館、正伝永源院、読売新聞社

ネフィルチケットプレゼント

下記の必要事項をご記入の上、「大名茶人 織田有楽斎」シネフィルチケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に招待券をお送り致します。この招待券は、非売品です。
転売業者などに転売されませんように、よろしくお願い致します。

応募先メールアドレス miramiru.next@gmail.com


応募締め切りは2024年3月8日 金曜日 24:00まで

記載内容
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以上の内容は、内覧会当日の「ニュースリリース」および図録「大名茶人 織田有楽斎」を参考に作成いたしました。

岡本勝人記

詩人・文芸評論家。評論集に『海への巡礼』『1920年代の東京 高村光太郎、横光利一、堀辰雄』『「生きよ」という声 鮎川信夫のモダニズム』(ともに、左右社)のほか、『仏教者柳宗悦 浄土信仰と美』(佼成出版社)がある。また詩集に『都市の詩学』『古都巡礼のカルテット』『ナポリの春』(ともに、思潮社)などがある。各紙に書評などを執筆している。