(ヴェネツィアのサン・マルコ広場からジュデッカ運河とサン・マルコ運河の対岸にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂を望む。)

岡本勝人は、昨年の『仏教者 柳宗悦』(佼成出版社)をはじめ、年に一冊ずつ評論集を出している。

とりわけ此度の『海への巡礼』は、東西にわたる豊富な知識に裏付けられた文化論ともいうべき書である。

知識が豊富すぎてなかなか読み取れないきらいもあるが、筋をたどっていけば、これまで誰も言わなかったことが大胆に述べられている。

(『海への巡礼』の装丁は、清岡卓行氏のご子息の清岡秀哉のデザインです。)

●生と死をめぐる大地と宇宙

主題は、「生と死をめぐる大地と宇宙」といっていいだろうか。それは海への巡礼によって明らかにされる。

私たちの時間の旅程は、いつか死の場所を求めなければならない。あるいはそこに至るためのルートを確かめなければならない。それは海への巡礼である。そして海への巡礼とは、死の淵へと赴きながら、めぐりめぐって生の世界へと還ってくることであり、宇宙のこの上ない広がりのうちに私たちをつなぎとめるような、広大な大地へと向かわせることでもある。

文化の古層に見え隠れするのは、有と無がひとつとなり、宇宙と大地がめぐりめぐって、大いなる道すじとなり、やがて生と死をつなぐという信仰である。そう考えるならば、巡礼とは、生老病死をかかえた人間存在を大地と宇宙につなぎ、聖なるものへと向かわせようとする試みである。

それでは、「文化の古層」とは何か。フランスのノルマンディーとブルターニュを例に挙げてみよう。

ノルマンディーもブルターニュも、海に突き出た半島である。古層への親和性とは、野生の海岸や島や半島とそれをとり囲む海へ限りなく惹かれるということである。ノルマンディーやブルターニュ地方は、ケルト的な石の文化を通して植物や物質への親和性をあらわしていた。

プルーストにとって、創作上の町バルベックは、ノルマンディーの小さな漁村をモデルとしていた。彼の精神は、花や草や樹による植物性の感覚に同化し、砂浜や水や土や空や雲といった、海に包括される物質の原素へと還元されていた。

ブルターニュの根っこに位置する島、モン・サン・ミシェルから船に乗って、荒波の中に櫓をこぎ、海のなかに半身浸かりながら、波に埋もれた巡礼路を歩く人々は、この地の果てに、漁師や羊飼いを追い、干潟や塩分に浸かった草の上を歩く人々におのれの姿を見出した。

モン・サン・ミシェルは、フランス南部のオーヴェルニュ地方にあるル・ピュイの山と同じく、大天使ミカエルの信仰が息づく場所である。その山には、ケルト人の山岳信仰の岩場が続いていて、そこに、地の霊(ゲニウス・ロキ)がいる。キリスト教以前の聖地であり、木や岩や泉を聖なるものとする自然信仰である。

ル・ピュイ大聖堂はいまではキリスト教の聖地になっているが、当初はケルトの人々が神聖視する岩場であった。モン・サン・ミッシェルの島も、ケルト人の信仰に息づく入り江を望む海のなかの岩場だった。それがやがて、キリスト教の聖地となった。

(パリの西にある、ノルマンディとブルターニュの境にある、サン・マロ湾を望む城砦都市のモン・サン・ミッシェル。)

●文化や宗教の接ぎ木 

ここから、キリスト教は、ケルトの自然信仰に接ぎ木されるようにしてこれらの地に根を張ってきたということがわかる。大天使ミカエルは、キリスト教では、神の使いとしてあらわれ、悪魔をも追いやる力をもっている。それは、ケルトの自然信仰においては、荒ぶる自然の象徴的存在であり、そういうものとして崇められていた。

救国の少女ジャンヌ・ダルクも大天使ミカエルのお告げを聞く。パリのピラミッド広場にはジャンヌ・ダルク像が立っているが、モン・サン・ミッシェルには、同じ製作者によるミカエル像が建てられている。ここから、ジャンヌ・ダルクはカトリシズムのさらに奥にある古層ともいうべき文化、信仰を象徴する存在であるということもできる。

ヨーロッパの近代は、大きく過去の歴史を呑みこんでいる。ふとした街のしぐさや風景のなかに、その土地の中世や古代の層が覗いている。人々は聖なるものののなかに見えてくる有や無に、人生のアイデンティティを求めようとしていた。有と無は至高性のもとでひとつである。

●西欧と東洋の架け橋としての「荒地」と四大元素

エリオットの「荒地」のモチーフとなっているテムズ川の上流や下流は、そこに生きた人々の生活と切り離せないものがある。それは地・水・火・風の四大元素に還元されるものであり、物質の根源を火とするアナクサゴラスや、水とするターレスなどのギリシア思想にまでさかのぼることができる。

ゲーテの『ファウスト』にも、四大元素への賛歌が認められる。元素の中でも特に水が大きな意味をもつのだが、ゲーテのなかには、河の流れを旅することによって、東方へ向かおうとする思いがあった。ゲーテのなかのオリエンタリズムは、後世の芸術への指針となるものであった。

モネの睡蓮を描いた絵には、「日本風の橋」があり、この池の水辺と「印象−日の出」の海は、オリエンタリズムやジャポニズムをかきたてる生命そのもののあらわれである。そこに四大元素を見出すならば、それはギリシア思想における自然の構成要素だけでなく、仏教思想における物質の構成要素でもある。

「荒地」の後半には「ガンガ河は底が見え、うなだれていた木の葉は/遠くヒマラヤ山に黒雲がかかるまで/雨を待つのだ」というインドの風景描写がある。その意味で、エリオットの「荒地」は、四大元素への考察を通じて、西欧と東洋の架け橋をなそうとする試みでもあった。

ウパニシャッド哲学の章句の終わりにうたわれる詩句「シャーンティー(心の平和あれ)」は西欧キリスト教における「理解を超越する平和」と同じ意味である。人類は大地や水や火や空への思いを詩に託すことで、丸ごとの自然に慰藉されてきた。

(バリから北西にあるセーヌ川の支流にあるジヴェルニーには、モネの家と庭園がある。池には、日本庭園の下で、蓮の花が咲いている。)

●水辺のポエジーが醸し出す五感のイロニー

クロムウェルの清教徒革命は、その後の独裁政治によって、挫折をもたらしたが、時代の重い空気のなかでせめてもの自由を求めようとする動きは、詩や演劇へと向かい、後には新天地へと向かった。ボストンは、そのような清教徒たちの思いによって建設された都市である。

ボストンに近い港湾都市セーレムに生まれ育ったホーソンは、『緋文字』でピューリタンが背負った象徴的な罪悪と赦しの物語を綴った。水辺の描写が生き生きとして、川辺の音も隠喩の波動となってポエジーをかきたてるこの物語は、水面の反映と水深の深さからあらわれたものといえる。

五感全体による芸術表現が、古代から現代までの表現方法をつらぬいている。ボードレールをはじめ象徴主義やシュルレアリスムの詩文には、五感による「万物照応」のコレスポンダンスがみとめられる。ボードレールの詩魂には、コールリッジ、シェリング、ポーのそれが生きていると言ったのは西脇順三郎だが、これらの「通底器」となっているのは五感のイロニーの考えといえる。

バシュラールは人間の体質と精神との関係について、四大元素とのつながりを想定しているが、西脇順三郎の体内を流れる四大元素が、小千谷の山や丘や川の自然と交感していることもたしかである。とりわけ川の「水」から出てくる幻影の人の描写は、バシュラールのいう「水」のイメージと交感しているといえる。

水辺というよりも海そのものに惹きつけられた作家たちは幾人もいるが、若き日から捕鯨船に乗ったメルヴィルは、その経験を題材に『白鯨 モービィ・ディック』を書いた。「わが心をひきつけるものはもうこの地上には何もない。海へ行こう、世界の海を見に行こう」と主人公のイシュメールに言わせたメルヴィルは、渚は渚の穏やかさで、荒海は荒海の激しさで巡礼たちを海へと誘うことを知っていた。

(サンタ・ルチア駅に始まる、ヴェネツィアのカナル・グランデ(大運河)の出口から遠望するサンタ・マリア・デル・サルーテ教会。手前は、夕陽を受ける水上バスのヴァポレット。)

●熊野という「海やまのあひだ」

折口信夫は、大王ヶ崎の海の彼方に「常世」や「妣が国」を望見したが、それは熊野の地に奥深くまよい込むことによって、聖なる地との決定的な瞬間を体験したいためだった。紀州熊野は島嶼性である日本のなかでも、典型的な半島性を現出するトポスである。海の旅と山の旅が交錯する「海やまのあひだ」といえる。

観音信仰が息づく熊野には、中上健次の小説に出てくる、男たちを救済する女を彷彿とさせる信仰がみとめられる。それは、地の霊(ゲニウス・ロキ)とも重層して、海へとその世界を広げてゆき、地勢的にも深い世界へと通じていく。『岬』や『枯木灘』を支えているのは、そのような世界である。

熊野には多くの人々が歴史を刻んでいる。三十六歳の時に四天王寺から高野山を経て熊野に参籠した一遍、三十四歳で栂尾の高山寺を建て、やがて紀州の白上峰に籠った明恵、英国から帰国してから、熊野の山中に籠って粘菌の採集と研究に没頭した南方熊楠。彼らのなかにあるのも、地の霊(ゲニウス・ロキ)への応答といえる。

一遍は熊野那智大社から船で川を下った。西行も那智大社から那智の滝を訪れている。アンドレ・マルローもここを訪れているが、那智駅の後ろには熊野の海が広がっている。彼方には「常世の国」があると信じられていた。そのように、熊野は山の信仰がそのまま海の信仰へとつながる伝説の土地といってよかった。

(和歌山県新宮に生まれ育った父(中上健次)が好きだった、紀州の補陀落渡海の海(那智湾)の風景です。(中上紀氏提供))

●海から望む三浦半島と鎌倉世界

石橋山の戦いで平家軍に包囲された頼朝は、真鶴から船で房総半島へ落ちのびたが、やがて、上総の上総広常、千葉常胤をはじめとする反平家の武士たちを伴い、三浦半島を基盤とする三浦氏の加勢のもと、鎌倉に向かった。

このあいだの頼朝にとって、相模湾、東京湾の海路は、死と再生を果たす場所であり、遠く流れる黒潮のコスモスの影響を受けた海上の時空であった。この黒潮の海流は、紀州熊野から房総までをめぐるものであり、さらには、柳田国男の「海上の道」で語られた伊勢湾から熊野灘をめぐって奄美諸島、沖縄の南へと回流するものである。

源実朝の宋への憧憬と渡宋計画の挫折には、この黒潮の海流への思いが底流となっているのではないか。だが、権力抗争の狭間に身を置くほかなかった実朝にとっては、頼朝を政権へと押し出した黒潮の流れは、存在そのものの源流であるとともに、彼を孤立無援の位置へと流し去るはるかな水脈だった。

「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも」といった実朝の歌には、海への巡礼を行う精神の、あまりに孤独なまなざしが感じ取られる。

(源頼朝が「石橋山の合戦」で敗れ、わずか6名でこの入江から房総半島に向かった。真鶴半島の真鶴湾より望む。)

●琉球弧をたどって、輪廻転生へいたる

柳田国男の「海上の道」と島尾敏雄のヤポネシアをたどっていくことによって、すべてをのみこむ海の存在があらためて迫ってくる。海の存在は、レヴィ・ストロースをして野生の思考へといざなうものでもあった。彼が見出した未開民族の婚姻形態にあらわれているものこそ、女性の交換を通して実現される無限の循環であった。

それは、決して限定された形態に収まることのない、生と死の循環にも通ずるものであり、海とは、まさにこの循環を時にはやさしく、時には激しくかたちどるものである。海の水は象徴的な意味を内包し、世界は海によって、形がととのえられる。水こそが、死と再生の根源としてあるものといえる。

人は生まれては死に、死んでは生まれ変わる。そのようにして円環と変貌を繰り返す命のつながりがある。「ここに一つの世界が幕を下ろして姿を消し、次の世界が生まれる」というのは、ルオーの一枚の絵に飾られた言葉だが、人の一生には限りがあっても、永遠を求める思いには限りがない。

ニライカナイの楽土から次の世界が輪廻によってこの土地にやってくる。その輪廻転生の場所は、アジア的かつアフリカ的に歴史の基層を遡行しうる場所であり、海辺の砂地や海岸の草原へと続く聖なる巡礼の岩場である。

真鶴半島の丘の上には、中川一政記念館がある。この湾には、樹木の葉が舞い落ちて、美味しい魚が豊富に獲れる。)

こうして岡本勝人の海への巡礼は、どこまでも続いていく。

それは終わりなき旅ともいえる。

神山睦美 略歴

1947年1月、岩手県奥州市生まれ。文芸評論家。東京大学教養学部教養学科フランス分科卒。東京大学大学院比較文学比較文化修士課程中退。東進ハイスクールなど予備校講師を務める。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で第2回鮎川信夫賞、2020年『終わりなき漱石』(幻戯書房)で第22回小野十三郎賞受賞。その他の著書に、『吉本隆明論考】(思潮社)、『家族という経験』(思潮社)、『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)、『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)、『大審問官の政治学』(響文社)、『希望のエートス』(思潮社)、『戦争とは何か』(澪標)など。

(『海への巡礼 文学が生まれる場所』の表紙。)

『海への巡礼 文学が生まれる場所』

(岡本勝人著・左右社・2023年8月10日発行)

目 次

1  モン・サン=ミッシェル

2 迷路と海 志賀直哉、エズラ・パウンド、飯島耕一

3 ふたつの大洋 メルヴィル・中上健次・源実朝

4 商船と病院船 レヴィ・ストロースと鮎川信夫

5 琉球孤をたどる 柳田國男、柳宗悦、島尾敏雄

6 尾道

補遺 海の作家・ヘミングウェイの青春

あとがき 参考文献

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