ある夜、血だらけのイメージが頭に浮かんで、自分ではどうすることもできなくなったのだ。こわくなって、初めてカウンセリングのドアをたたいたのだ。「アウティングの可能性はないです。大丈夫。とっても大変ではあったかもしれないけど、異常ではないです。同じことが起これば、みんな、そんなもんです」という、若い女性の、カウンセラーの言葉で、ただただ、それに曝され、深く傷つくしかなかった、心の中の、むごたらしいイメージが少しずつ少しずつ消え、ずっと積み重ねられてきた「現実」へと戻っていく。

そういうタイミングで、この作品『EUREKA/ユリイカ』を、ほぼ20年ぶりに再見した。

よく知られているように、バスジャック事件の生き残りたちを主人公にした長尺の映画だ。その中で、まだ中学生で、トラウマティックな状況を、登場人物の中で、一番、がっつりかぶってしまう直樹の硬直した表情や動作を、みると、その状態が、今の自分に、あまりにも、理解できて、骨身が軋むようだった。直樹をとらえた、キャメラ目線の表情。夢見るような、解離しているような。こんなに生々しい、こわい、作品だったのか。20年前には、気づかなかった。

それにしても、なんという、キャメラだろう。冒頭の事件の前に、バスの車窓の、田んぼから、たちのぼってくる、湯気。阿蘇山の火口から、たちのぼってくる煙。声のない死者たちとの間に、その縁に、生き残った沢井がいて。踏みとどまって、若い人に、逃れろ、逃れろと、言っている。うつっているものだけじゃない。何か、別のものを同時に問題にし、問うているように感じる。

バス運転手の沢井自体が、実家からの自立もおぼつかない。めんどくさくて、頼りない男なのに。人をなんで殺してはいけないか、と直樹に聞かれて、答えられない沢井が、後ろに直樹をのせた自転車で、くるくると、旋回し続けるところ。旋回するしかない。しかし、生き残り、「やり直そう」と繰り返し主張する沢井自体が、死に向かっていく、生き残れない人間でもあるということに、涙が出てくる。激しく、むせる音が、ずっと映画にのっかっている。

戦争に行ったけれど、村で、唯一生き残り、そんな自分が恥ずかしくて、恐ろしいほど多弁になってしまう男。『ニッポン国 古屋敷村』(1982年/小川紳介監督)の、ある、登場人物のことが、頭に浮かぶ。あの人のことを知りたくて、思い切ってたむらまさきキャメラマンに話しかけたことがある。たむらキャメラマンが、『EUREKA/ユリイカ』を撮影する2~3年前だろうか。「あの人のことが、ずっと気になって」と言うと、「ああ、あの人も、死んでしまいました」と、ほとんど、質問に、かぶせるように。わたしは、何も言えず。絶句してしまい、たむらさんに気をつかわせて、ずっと胸が痛かった。思えば、沢井のような男を、たむらさんは、すでに、知っていたのだ。キャメラにおさめたことがあったのだ。

戦後の日本で、ありとあらゆるところにあったのに、なかったことにされたこと。『EUREKA/ユリイカ』には、そういうものが、ひとつひとつのカットの中に、つまっている。ただの田舎の風景を撮っているがそうではない。たくさんの人が傷ついたまま、あらゆる場所で、誰にもケアされずに死んでいった。だから、ありふれた風景も、ただの風景ではないのだ。見えないもの、キャメラに映らないものと、この映画は対話しようとしている。

35歳の監督の鋭い直感を、それを現実に実際によく知っている、ずっと年上の技師が、形にしている。だから、この映画は。

驚くべきことに、決定的に傷ついた人たちが「癒される」瞬間を、この映画は、想定している。あの、見た人全ての胸に深く刻まれる、映画のタイトルと同じ、「Eureka」という曲が、なりはじめる瞬間。それが、この映画の。普通に考えれば、これは、事件以来、ずっと一緒にいたのに、離れ離れにならざるを得なかった兄、直樹への、梢の、呼びかけなのだろう。でも、同時に、これは、ほんとうに、いろんな人への呼びかけであるように、感じる。傷が癒されないまま、亡くなってしまった方にも、「ねえ、聞こえる?」って、誰かを呼びかけたり、呼びかけられたり、あったはずだ、そのような瞬間があったと思いたい。なかったのなら、今こそ、呼びかけたい。そういう、切実な気持ち。

それにも関わらず、映画の最後には。沢井ではなく、今度はキャメラが旋回する。観客のわたしたちを旋回させる。わたしたちは、どこにもいけないまま、沢井と梢を旋回しながら空にのぼっていき、この不気味で過酷な世界を見下ろす。宙吊りになったみたいに。青山監督も、一緒に、旋回するしかなかったのだろうか。(当時のインタビューを読むと、最後のシーンの解釈を、ご自分でも二転三転させているように思えるから)答えのない場所。とりかえしのつかない傷を背負ったまま、ただ、たたずむしかない場所。

わたしは、たまたま、居合わせたのだ。カンヌ映画祭の赤絨毯を歩いてくる青山監督は、まるで、大きな傷が、立って歩いているように見えた。上映が終わると、会場が揺れるような大きなスタンディングオベーションが鳴り止まなかった。傷が盛大な拍手を受け、称賛を受けるような場所。映画を作るということは、すなわち、何を失い、何を得るということなのか。無邪気に、ブニュエルが好き、ペキンパーが好き、ネオリアリズモが好き、ゴダールが、小川紳介が、と、ウキウキと、無邪気に映画を撮り始めたわたしは。あの、青山監督の姿を見て、「映画」というものが、全く、わからなくなったのだ。映画を撮るということは、残酷なイメージに自らを曝しながら、観客を曝し、傷つけることなのだろうか。それは、果たして、人を幸福にするのだろうか。

そして自分は、当初から、この映画の、梢という少女の扱いに、違和感を抱いていたのだと思う。

大人びた美少女が、中年男を抱きしめたり、中年男に向かって笑顔で歩きだしたりする風景に。25歳の私は、耐えられなかったのだ。今思うと、まだまだ、少女の方に近かった。カンヌ国際映画祭という、マチズモな空間の片隅に、自分は、初めて撮った小さな映画を抱えて参加していた。自分が二つに割れているような気持ちがした。自分は大人の男性たちにスポイルされた女の子供なのか、それとも、能動的に何かを記録しようとする映画監督なのか。少なくとも、大人の男性が、1対1で、少女の心にできることは、とても限定されている、と、自分は体感で知っている(大人の男は、それに気づかないで、平然と、囲い込もうとする)。彼は、少女を救うことはできない、だから。わたしは、梢が沢井を通り越して、そのまま、歩き続け、いつか、少し似た形の傷をおい、背格好の似た、また別の少女と、ふと出会ってしまい、梢が自分の傷を相対化できるようになるシーンを、ほんとうの意味で、人生がはじまるシーンを、そのあと、密かに夢想し続け、いつか能動的に、映画にしようと、思ったような気もする。

心の底から圧倒され、畏怖する。同時に、激しい反発を覚える。わたしにとって、『EUREKA/ユリイカ』は、そのような映画だったのだ。

そして、『空に住む』を見た。青山監督が、最後に撮った映画だ。

©2020 HIGH BROW CINEMA

主人公は、両親を亡くしても涙の出ない書籍編集者の女性だ。『EUREKA/ユリイカ』の直樹のように硬直していないけれど、同じように深く傷ついている。少しずつ、彼女が自らが深く傷ついていることを知りながら、涙を流し、人と向き合い、ひとりで生きるということを、改めて選択していく。その過程を、ほんとうに、繊細に、全然おおげさじゃなく、でも確信を持って、ほの明るい光の中で、描いていく。

20年前には、まわりの人をおおげさに巻き込みながら、「この世は生きるに足る」か、空撮で、旋回していたのに。「生きるに足るにきまってんだろ」と、明るく、正面から、軽く、この映画は、後半に言い放つ。『EUREKA/ユリイカ』から、こんなに、遠いところまで、やってきたのかと思う。あの、誰もが引きつけられてやまない、穏やかで、明るい笑顔が、浮かんでくる。あの笑顔、愛情に、包まれ、許され、見守られていたであろう、若い俳優の方たちの、穏やかな、肯定的な、のびやかな表情(映画監督の仕事は、演出することなんかじゃない。「これはやるに値する」と、俳優に信じてもらうこと。やるに値する、と態度で示し続けること。そういったのは、どの監督だったっけ)。俳優たちは、「この世は生きるに値する」と、きちんと、信じているように、見える。

地べたをはって生きることと、俯瞰して記述すること。相手の人生全体とつきあうことと、一部を切り取ってみせること。「映画を作る」ということは、「地に足をつけたい」と心から願いながら、「空に住み続ける」、ということなのかもしれない。「空に住む」ということの、矜持が、編集者である主人公の口から静かに語られ、その生活が、きちんと、確かな愛に満ちているということに、途中から、涙が止まらなかった。ひきさかれながらも、自分の傷を愛せるか。傷を愛しながら、生きることを、選ぶ。あなたたちも、そうできると、みせてあげる。映画には、そういうことも、できるのだと気づく。

この文章を書くにあたって「青山監督を、よく知らない。わたしなんかが」と自意識がせりあげた。ずっと畏れていた。でも、多分、それぞれの位相で、青山監督とその作品を語るべきなのだと思い直す。間違いなんかない。そのくらい巨大な、大きな、誰の心にも届く波だった。全貌がつかめないくらい大きい波。青山監督自身が、矛盾を恐れず、失敗を恐れず、揺れ続け、作り続けた。引き裂かれることを、おそれなかった。大きな波であることを諦めなかった。だから、たくさんの人が、それぞれの場所で、今も、その波に曝され続けている。ただ、傷つけるだけじゃない。優しく触れ、浸し、癒す、波でもある。

わたしたちは、これから、青山監督の映画を、新しく、発見していくんだろう。声にならない声に、あったけれどもなかったことにされた声に、耳をすます。

物語は、この先も、ずっと、続いていくのだ。

(終)

©2020 HIGH BROW CINEMA

木村有理子(きむら・ありこ) 映画監督/映画批評。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

『EUREKA/ユリイカ』デジタルマスター完全版、テアトル新宿にて、絶賛上映中

ある九州の田舎町で、バスジャック事件が発生した。生き残った運転手の沢井(役所広司)と直樹・梢の兄妹(宮﨑将・宮﨑あおい)は、心に大きな傷を負ってしまう。それから2年が過ぎ、町に戻った沢井は、2人きりで暮らす兄妹とともに暮らし始める。そこに従兄の秋彦(斉藤陽一郎)も加わり、4人の奇妙な家族生活が始まった。

そんな中、彼らの周辺でまたも殺人事件が続発する。沢井は小さなバスを買い、喧騒の町をぬけて4人でゆくあてもない旅に出るのだが...。

監督・脚本: 青山真治
出演 :役所広司、宮﨑あおい、宮﨑将

『空に住む』ブルーレイ&DVD発売中

郊外の小さな出版社に勤める直実は、両親の急死を受け止めきれないまま、叔父夫婦の計らいで大都会を見下ろすタワーマンションの高層階に住むことになった。長年の相棒・黒猫ハルとの暮らし、ワケアリ妊婦の後輩をはじめ気心のしれた仲間に囲まれた職場、それでも喪失感を抱え、浮遊するように生きる直実の前に現れたのは、同じマンションに住むスター俳優・時戸森則だった。彼との夢のような逢瀬に溺れながら、先は見えないことはわかっている。そんな日常にもやがて変化が訪れる。直実が選ぶ自分の人生とは――

■出演:多部未華子 / 岸井ゆきの  美村里江 / 岩田剛典
 鶴見辰吾 / 岩下尚史  髙橋 洋 / 大森南朋
 永瀬正敏  柄本 明

■監督・脚本:青山真治 

■脚本:池田千尋

■原作:小竹正人『空に住む』(講談社)

■主題歌:三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE

  「空に住む ~Living in your sky~」(rhythm zone)

■クレジット:©2020 HIGH BROW CINEMA

映画『空に住む』予告編 10月23日(金)公開

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