ジャック・オディアールの余白に

パリの13区。連なる高層の公営住宅たちの、すこし黄味がかった、柔らかいモノクロの、夜景、素描。ものすごく巨大で、全然美しくないはずなのに、息をのむような。非人間的な規模の、そっけない建造物の、その1室で、裸の体を、ソファに埋めた、若い東洋系の女性が、中国語の物憂げな歌を、カラオケで歌っている。彼女と事を終えた後らしき、黒人の男性が、やはり、裸のまま、彼女に水を持ってきて。彼女が行っていた学校や、仕事を、聞きはじめる。一夜の関係なんだろう。二人の肌。目の輝き。モノクロのせいなのか、露出の加減なのか、すばらしいニュアンス。話しながら、再び二人はたかぶっていき、カメラは外に出る。はじめの夜景に彼女の声がかぶさっていく。殺風景な風景を、彼女の暖かく親密な吐息まじりの声が、変えていく。それも消えて、とても刹那的でいて切実な音楽がなりはじめる。

見てる人みんなが、相手のこと全然知らないままに、誰かと寝てしまったときの、近いのに遠い、遠いのに近い、あの感じを思い出すだろう。それが、風景と紐づいていく。なんという、完璧な導入。このふたりに、完全に入れ込んでしまう。

中国系のエミリーは、高学歴なのに、テレアポの仕事で日々をしのいでいるみたいだ。お姉ちゃんは医者だし、きっとエリートの家系。おばあちゃんの持っている部屋に暮らしているのに、認知症のおばあちゃんを、見舞うことができない。直視するのが怖いのだ。彼女は、必要以上にセックスにのめりこむ。でも、本当に好きなのは、黒人のカミーユで、彼を振り向かせようと。あらゆる手管を使う。

一方、カミーユは、教師としての仕事のやりがいを、奪われている。貧しい地域の教師である彼は、何をしても、生徒たちの将来を変えられない。自分自身もまた、学校から管理され、軽んじられる存在だ。そして、彼自身が、自分の年の離れた吃音の妹を可愛がることができず、否定的な態度をとっている。(教師なのに!)カミーユは、ゆきづまっている。でも、誰にも、その話ができない。ただ、プレイボーイをきどって、いろんな女とセックスするだけ。

そんなカミーユが、本気になってしまうのは、ノラ。真面目で不器用、友達が少なそうな人だ。でも。美しくて誠実で、賢い、ミステリアスな人、とカミーユには見える。だから、自分をさらけだし、彼女を崇拝する。でも、過去の望まぬセックスで、一本、ネジが外れてしまった、ノラの空虚な状態を、真に見抜くのは、ネットの中の、彼女とそっくりであるがために、偶然に出会う、彼女と同じように不器用なところを持った、ポルノスターのアンバー・スウィートだ。彼女の聡明で温かい、ゆったりとした態度が、ノラを再生させる。

従来のジャック・オディアールの映画は、「男が、自分の意思で、社会的な意味での、男になっていく」ことを描く映画だ。社会から疎外され、負け、ヒエラルキーの底辺から、努力や、己の才覚で、すれすれの危険をかわし、身一つで、成り上がっていき、地位や女からの尊敬と家族を得る。語り口の自在さ、役者の扱いのうまさ、偶然や、神秘的な事象の盛り方、フランス社会の中の「多様性」への理解などは、群を抜いているのかもしれないが、(よく知らないけども)描いてきたことは、少し単純。

だからこそ、この映画の柔らかい複雑な線、繊細さは、なんだろう。セリーヌ・シアマとレア・ミシウスによる脚本が、70代のジャック・オディアールから引き出したものなのだろうか。どうして、このような、みずみずしい映画を作れるのか。ものすごく若い誰かのデビュー作だと言われても、疑わない気がする(と書いたら、年齢に対する偏見を披露することになるけど、)でも、たぶん、彼の中にもあったのだ、彼が描いてきた映画世界の余白に、誰かを求め、でも得られない、あの、ためらいの気持ちが、存在していたのだろう。

なりたいと思う自分を求めてもがき、そのせいで、一番身近な家族を、認められず、うまく関われず、苦しむ。その、報われない気持ちが、誰かとのセックスにぶつけられる。もちろん、セックスなんかじゃ、解決できない。その誰かもまた、なりたいと思う自分を求めて、もがいている。その痛々しさ。どうしようもなさ。女性を好きになったときの、カミーユの、壊れそうな、うれしそうな、実に生き生きとした表情が、わたしたちの全ての顔と重なっていく。

カミーユが、自分が理想としていた教師像も、崇拝していたノラも、失って、吃音の妹の前で、落ち込んだ、弱々しい姿をさらしているシーンが大好きだ。自分は空っぽだと、妹に、打ち明けると、おおらかな妹が、弱々しい目をした兄を笑い飛ばしてあげる。カミーユの、ほっとしたような柔らかい表情。自分の弱さを認めたとき、何かが溶けていく。こんなに柔らかいシーンを、ジャック・オディアールの映画で見るなんて!『預言者』のマリックも、『ディーパンの闘い』のディーパンも、ただただ、ゴリゴリと、前に進んでいくだけだったのに!!

一方で、エミリーは、ずっと向き合うことのできなかった、認知症の祖母の孤独な死に衝撃を受ける。わたしたちは、失いたくない誰かとの間の、どうしようもない緊張に向き合わないために、他の誰かと寝ようとしてしまうのかもしれない。カミーユとエミリーが、それぞれに、小さくて怯えた、自分自身をお互いの姿に認めるときに、ふたりの間の回路が開通する。それは小さいけれど、確かな回路だ。かすかな、暖かい水が、お互いの間に注ぎ込んでいる。

そのようなかすかな流れが、どれだけ、得がたいものなのかは、年をとればとるほど、わかってくる。離婚したり、死別する、ふたりが、長く一緒にいながら、どれだけのすれちがいの物語を生きていたかを知るとき、いつも、人と人との果てしない距離を思う。同時に、彼らの間に、一瞬でも通ったために、お互いに長く過ごすことになった、あたたかな回路を思い、心が静かになる。

ほんとは、わたしたちは、みな、孤立してる。13区の殺風景な高層の公団の一室に、それぞれ孤独に閉じこもっている、ようなものなのかもしれない。でも、誰かと一緒にいたみずみずしい時間こそが、あなたを、わたしを、今も、生かしている。この映画は、それを声高にではなく、錯綜する人物たちの、それぞれの、逡巡する柔らかな声の連なりで、そっと、伝えてくれるのだ。(終)

©︎ShannaBesson ©PAGE 114 - France 2 Cinéma

木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

4月22日(金)、新宿ピカデリーほかにて全国公開

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞『ディーパンの闘い』、グランプリ受賞『預言者』など数々の名作で世を驚かせてきた、今年70歳を迎える鬼才ジャック・オディアール監督。待望の最新作では、『燃ゆる女の肖像』で一躍世界のトップ監督となった現在43歳のセリーヌ・シアマと共同で脚本を手がけ、“新しいパリ”の物語を、洗練されたモノクロの映像美で大胆に描き出した。コロナ禍で撮影期間が限定されたために、クランクイン前のリハーサルに力を入れ、今までにない濃厚な作品づくりが行われたという本作。2021年第74回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でお披露目されるや、フランス映画界屈指の世代を超えたビッグコラボが大きな注目を集め、「間違いなく、『今』を物語る映画だ」-Time Out 「息をのむ、ヌーベルヴァーグ映画に匹敵する美しさ」-Daily Telegraph (UK) 「つながりを求めるミレニアル世代が魂を込めて織り成す、モノクロの艶やかなタペストリー」-Variety 「唯一無二の映画だ」-AwardsWatch と絶賛を浴びた。

パリ13区の今日。コールセンターで働く台湾系のエミリーと高校教師のカミーユ、33歳で大学に復学したノラ、そしてポルノ女優のアンバー・スウィート。多文化で活気あふれる現代のパリで、ミレニアル世代の若者たちが織りなす、不器用で愛おしい人間模様。

原作は、北米のグラフィック・ノベリスト、エイドリアン・トミネによる3つの短編。ニューヨーカー誌のカバーイラストや、WEEZER、Yo La Tengoといったミュージシャンのアートワークを手がけることでも知られるほか、自伝的物語を描いた最新作はA24とアリ・アスター製作でのアニメ化が進んでいる。あらゆるカルチャー分野から熱い眼差しが注がれる、今最注目の作家だ。

監督:ジャック・オディアール 『君と歩く世界』『ディーパンの闘い』『ゴールデン・リバー』

脚本:ジャック・オディアール、セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像』、レア・ミシウス

出演:ルーシー・チャン、マキタ・サンバ、ノエミ・メルラン『燃ゆる女の肖像』、ジェニー・ベス

原作:「アンバー・スウィート」「キリング・アンド・ダイング」「バカンスはハワイへ」エイドリアン・トミネ著(『キリング・アンド・ダイング』『サマーブロンド』収録:国書刊行会)

2021年/フランス/仏語・中国語/105分/モノクロ・カラー/4K 1.85ビスタ/5.1ch/原題Les Olympiades 英題:Paris, 13th District/日本語字幕:丸山垂穂/R18+    ©PAGE 114 - France 2 Cinéma

提供:松竹、ロングライド 配給:ロングライド