【まず最初に、ロシアによるウクライナへの侵略戦争が一刻も早く終わることを願う。 映画も芸術もまず人間の命があってこそのものだから・・・】

(前回より続き)

監督・脚本家が決めた言葉を発するのでなく、俳優本人が本人の意思で発話・行動しているかのように画面に映るにはどうすれば良いのか。

突き詰めて考えれば時考えるほど、「演技する/なりきる/フリをする」の境界線がわからなくなり、むしろ総じて「他人の意思に従って動くこと」の限界が浮き彫りになる。他人に命じられて動くのに、自分の意思で動いているかのように見えることは、本質的に不可能であり、ありうべき可能性としては①他人に命じられて動いているが、どこか映画内で特有の現実感(それは現実とは異なるもの)を生み出し、それが見るものを納得させるに足りうる面白さ・映像の強度を持つ、もしくは②他人の意思ではなく、俳優自身の意思で動き、発言してもらい、それを受け止めるようにキャメラで記録してゆく――この二つの方向性が考えられた。

 俳優の存在感を十全に生かし、かつセリフの書かれた脚本をちゃんと生かそうとすると①になるのが、ごく普通だし、実際多く劇映画はそちらを志向していると思うのだが、僕は②に挑戦してみるのも面白いように思えた。というのは、アメリカ時代に学んだメソッドアクティングの一つの流派(Stella Adler とそれを現代化したといって良いJudith Weston)の中に、俳優の意思に深く根ざした即興演技というものがあり、それを翻案すればいけるんじゃないかという直感が働いたからであった。

 それは簡単にまとめればこうである。
映画のフィクション内の人物にはそれぞれ、腹の底で感じている欲求がある。それをオブジェクティブ(Objective、直訳すれば「目的」)と呼び、台本の各シーン、一人の人物につき一つ決める。台本を読み込んでいったとき、セリフや役の行動を注意深く観察すれば自ずとその人物の腹の底の欲求は、透けて見えてくる。それを言語化して設定する。その設定には以下のようなルールがある。

・「〇〇を(に)〜〜たい」という表現にする。
・〇〇は、同じシーンにいる人物。
・〜〜は、動詞で〇〇との関係を最も反映させた言葉にする。

例を挙げて説明しよう。以下は拙作映画「桜並木の満開の下に」からの一節。
(実は何か名作の脚本から抜粋しようと探したのだが、データ化された脚本というのは販売すらされていない。なので手前味噌で恐縮だが、拙作の脚本で勘弁いただきたい。映画の雰囲気は以下の予告編を見てほしい。(https://www.youtube.com/watch?v=j9Xdv9x9DmM

臼田あさ美演じる主人公の栞(しおり)と、彼女の夫を不意の事故で殺してしまった工(たくみ、三浦貴大)が恋に落ち、一晩を共にする。翌朝、二人は偶然、自動車事故を目撃し、血まみれの被害者男性に泣きすがる妻の姿を目にする。栞は過去を思い出してしまい、その場から逃げ去り、工が後を追う場面である。

山中の道(昼)

少し離れたところを歩く栞を追いかけてくる工。

 栞 「……やっぱり、どうやっても過去は捨てられない……!」
 工 「栞さん……」
 栞 「……できる訳ない……!」
 工 「俺も、過去を捨てられるなんて思っていません……。
 そして、俺の罪も決して消えることはないです」
 栞 「……いま、私も罪を犯そうとしてる」
 工 「それは違います!」
 栞 「こんな事、誰も許さない! 出来ない!」
 工 「俺はその全て背負った上で、あなたと一緒にいたい」
 栞 「これ以上、周りにいる大事な人を失いたくないの!」
 
 沈黙。

 栞 「……あなたは加害者、私は被害者。その一線を越えること
    はできない」
 工 「……それは、あなた自身の本当の気持ちですか?」

栞、答えることが出来ない。

 工 「栞さん……」
 栞 「……私の、本当の気持ちよ……」
 工 「……」
 栞 「……もう二度と会わない」 

 悲しい目で栞を見つめる工。
 踵を返し、足早に去って行く栞。

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このシーンでのオブジェクティブを考えてみると・・・

 栞のオブジェクティブ 「工を 遠ざけたい」
 工のオブジェクティブ 「栞に 近づきたい」

というのが、初歩的なものだろう。

オブジェクティブは、俳優が決めるものであり、「俳優による自分自身への演出」である。時には演出家や他の俳優と相談しながら決めることもある。そのシーンで、一瞬一瞬を俳優が「役を生きる」ための指針と言ったらよいだろうか。俳優は、多くのセリフとブロッキング(動き)を頭に入れつつ演技しなければいけないので、意識の奥「第3の脳」でオブジェクティブを思い続けなければいけない。そのため、できるだけ簡易な文章にする。

現場で俳優から、例えば、工のオブジェクティブを「栞の心に接したい」という提案がある場合もある。俳優が自分の感覚に一番しっくりくるものを選んでもらえば良いが、僕はできるだけシンプルにすることを薦めている。なぜなら、演技は超スピードで情報処理をしつつ、感情的な余裕を作り相手役の演技に対するリアクションすることこそ味がでてくるものだからで、頭がいっぱいいっぱいになるとバランスが崩れるからだ。

俳優は、このオブジェクティブをずっと脳裏に置きつつ、シーンを演じる。一挙手一投足、視線の向け方、歩き方、振り返り方、そのスピード、大きさ、セリフのトーンなどなど、この「腹の底の欲求」に直結させて行う。そうすることで金太郎飴のように、どんな瞬間も俳優はその役になりきった一貫性を維持し続ける。これが、このメソッドの真髄である。

このアプローチは、じつは深い人間洞察に裏打ちされている。
人間が社会生活を営むなかで、様々な会話がなされる時、人間は無意識で何かを感じているものだ。相手が「感じいい人だな」とか「ムカつくやつだな」とか、「この人を味方につけたい」とか、「この人とはできるだけ関わりたくない」とか。これは、本音と建て前という日本人の文化的側面ではなく、国籍・文化・人種に関係なくどんな人間にも備わる表面(サーフェイス)と感情(無意識)の2層構造である。これを、キャメラの前の演技に取り入れようというメソッドなのである。

(つづく。さらにオブジェクティブの応用を語りたい)

WRITER:

舩橋淳

映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。
『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。メロドラマ『桜並木〜』(主演:臼田あさ美、三浦貴大)はベルリン国際映画祭へ5作連続招待の快挙。
他に『小津安二郎・没後50年 隠された視線』(2013, NHKで放映)など。2018年日葡米合作の劇映画『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演柄本祐、アナ・モレイラ)を監督。
柄本佑はキネマ旬報最優秀男優賞に輝いた。
最新作はハラスメントとジェンダー不平等を描く「ある職場」。

舩橋淳オフィシャルサイト:

東京国際映画祭TOKYO 2020 正式招待作品

「ある職場」(舩橋淳監督)

4/16(土)~29(金・祝)ポレポレ東中野にてアンコール上映

『ある職場』オフィシャルHP:http://arushokuba.com/

※カバー写真 アッバス・キアロスタミ監督の遺作『24フレーム』より