「単なる、ダサかわいい、ロマンティックコメディです」という顔をして、すましている、この映画が、実際のところ、観客に、何をしかけているのか。考えれば考えるほど、わからなくなるのです。ものすごく奥手な女性がギリギリのところで見る離人症的な夢としての、『アメリ』(2001年/ジャン=ピエール・ジュネ監督)を、プロトタイプにしているのは、間違いないとして。ここで描かれた、圧倒的なさびしさといじましさを包み込むような何かを、なんとよんだらいいのでしょう。
この映画の監督、チェン・ユーシュンは、エドワード・ヤンたちが台湾映画を盛り上げた時期の最後、1998年にデビューし、それから、すぐに、映画を撮れなくなくなりました。台湾映画が、ほとんど作られなくなってしまったからです。でも、デビュー作『熱帯魚』を見れば、みんな、何かを感じると思うのですが。一言で言えば、映画の天才なのです。最初から、映像で、物語を完璧に語れる人なのに、作り続けられなくて、つぶれてしまったわけです。それが、ごく最近になって、台湾映画再興の流れによって映画にカムバックしました。
遅れてやってきた天才なのに、出てきたとたん、そのまま、いなくなり。さらに、ずっと遅れて帰ってきたのです。奇しくも、どうしても人より遅れてしまう、理由はわからないけども、運命的にそうなってしまう男、グアタイの片思いを描いたこの映画や、その他の映画の構想をひきつれて。
予告編をご覧いただけばわかるように、これは、ちょっとズレた男女、シャオチーとグアタイの、ラブストーリーとして、楽しく見れる作品なのですが、気になる人物が一人、物語に深くからんでくるのです。
その人は、なぜか、おたまを持ちながら、呆然自失で、去っていくのですが。あの後ろ姿。あの人物は、何に傷ついて、去っていくのでしょうか。それは明かされないのです。でも、ああ、さびしい。おたまもったまま、いなくなるなんて、なんていじましいんだ、人ってものは。と、ひきこまれてしまいます。すべての人のもつ、巨大な、さびしさに、ふと触れてしまったような、さりげないけれども、確かな感触があるのです。
いなくなってしまったはずの、その人物が、ふいにあらわれ、愛おしそうに、このずっこけた恋愛映画のヒロインであるシャオチーの頭をなでる。しかし、それは、すれ違ってしまったもの同士が、接触し、傷を認め合い、交わることで、葛藤を回復するという、ことでは全然なく、すれ違ってしまったもの同士が、可能世界の中で共存するというような、世界なのです。本来は会えない、引き裂かれた者同士が、引き裂かれたままで、共存する。まるで、悪い冗談みたい。博物館で、熊と人間が、仲良さそうに、隣り合って立っていたり、異なった時代の、例えば縄文時代と弥生時代の人が、仲良さそうに隣り合って立っていたりすると、ふと、涙が出てきませんか。この映画には、そのような瞬間が、あるのです。滑稽でいて、涙が出そうなくらいいじましい。笑いながら、泣いてしまう。
この映画の、SFみたいに静止してしまった台北の街の描写に、深い必然性を感じてしまうのです。たとえ、どんなやり方でもいいから、人と人との間の裂け目を埋めたい。そうしなければ、この巨大な「さびしさ」は、埋まらない。その深い欲望が、特に、後半、さえ渡ったシークエンスとなって、こちらに、次々と刺さってくるのです。興奮しました。こんな映画が、かつてあっただろうか。
「天使」という永遠に生きる存在を設定し、彼らの持つ、イマジナリーな時間へと意識を逃すことで、はじめて、空気のようにまわりにまとわりつき語ることさえできなった、冷戦の傷と適正な距離をとり。向き合うことができた『ベルリン 天使の詩』(1987年/ヴィム・ヴェンダース監督)を思い出したりしました。戦争の傷によって引き裂かれ、そのことによって、語ることさえできなかった、それぞれの、さびしさに、そっとよりそう存在が天使だったわけですけど。この映画では、止まった世界で、ただ一つ、爆走するバス、がそれにあたるのでしょうか。
『ベルリン 天使の詩』が企んだように、わたしはこの映画が、傷をおった先行世代が、若い人に、自分の傷を、無配慮に、無自覚に、そのまま、手渡さないために、映画で防波堤を築こうとしているようにも感じられるのです。もし、過去に何があろうとも、あなたがた自身の、今の人生のきらめきを諦めることはない。なぜなら、あなたがたは、わたしたちによって、愛されているのだから、と。
日本でも、たくさんの人が、かつて、台湾映画と、深い恋に落ちましたよね。わたしも、その一人です。何度も繰り返し見て、台湾の風景や人は、今でも、心の中の何かなのです。特に、映画の中で出会った登場人物たちの、さびしい気持ち、こわい気持ちを、忘れることができません。でも、さびしさも、こわさも、むなしさも、ほんとうに、その中にいるときには、それと距離をとれないうちには、言葉にできないのかもしれません。言葉にできなかったからこそ、語り得ぬものを、どうにか語ろうとしたからこそ、当時の、台湾映画には、尋常ならざる緊張感がほとばしっていて、それに世界中の人々の心が撃たれたのだと、今は、思います。
しかし、台湾の映画人は、今、自らと自らの持つ矛盾や暗さに、真正面から向き合うことを恐れません。『無聲』(2020年/コー・チェンニエン監督)や『ひとつの太陽』(2019年/チョン・モンホン監督)『足を探して』(2020年/チャン・ヤオシェン監督)『わたしたちの青春 台湾』(2017年/フー・ユー監督)などを見ても、その、自省の深さと厚み、凄みに圧倒されます。しなやかで、ものすごく力強い。観客との素晴らしいコミュニケーションが、築かれていっているのを、作品群の質の高さで感じることができます。台湾映画は、こんなに、変わったのか。
この作品は、ロマンティックコメディですから、先にあげた映画たちより、ずっこけています。ずっこけていながら、いや、ずっこけているからこその、ほとんど、狂おしいばかりの、観客への愛が、映画から溢れてきます。まったく、かまえさせずに、見る人ひとりひとりの、ふつうにおりていくのは、ちょっと怖い、心の深い深い、さびしい場所まで、連れて行き、バスに乗せて、無傷で、大事に大事に、現実につれもどしてくれる、稀有な仕掛けをもった作品だと思います。心の底から、すごいと思う。
遅れてきたチェン・ユーシュン監督が、さらに遅れて、そして、めちゃくちゃ遅れたが故に、できた偉大な仕事のように思います。さびしいとさえいえないほどさびしい、あの状況から、正しく距離をとる映画があらわれるなんて。台湾映画に夢中だった頃の自分には、想像さえできませんでした。
見終わった後、久しぶりに、晴々とした気持ちになり。自分の持っていた屈託が柔らかく溶けていくのを感じたのです。
前の世代の屈託は、下の世代へ、必ずしも同じ屈託として伝わるわけではない。だから、安心して、大丈夫。あなたは、あなた自身のすばらしい人生を生きて。長い時間かけて、そういうことを、台湾映画は、今、言えるようになったのかもしれません。
(終)
木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。
ストーリー
郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋もパッとしないアラサー女子。何をするにもワンテンポ早い彼女は、写真撮影では必ず目をつむってしまい、映画を観て笑うタイミングも人より早い。ある日、ハンサムなダンス講師とバレンタインにデートの約束をするも、目覚めるとなぜか翌日に。バレンタインが消えてしまった...!? 消えた1日の行方を探しはじめるシャオチー。見覚えのない自分の写真、「038」と書かれた私書箱の鍵、失踪した父親の思い出…謎は一層深まるばかり。どうやら、毎日郵便局にやってくる、人よりワンテンポ遅いバスの運転手・グアタイも手がかりを握っているらしい。そして、そんな彼にはある大きな「秘密」があったー。 失くした「1日」を探す旅でシャオチーが受け取った、思いがけない「大切なもの」とは…!?
『1秒先の彼女』予告編
新宿ピカデリーほか全国ロードショー公開中!
第 57 回台湾アカデミー賞(金馬奨)最多 5 部門受賞
(作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞、視覚効果賞)
監督・脚本:チェン・ユーシュン(『熱帯魚』『ラブ ゴーゴー』)
出演:リウ・グァンティン、リー・ペイユー、ダンカン・チョウ、ヘイ・ジャアジャア
エグゼクティブ・プロデューサー:イェ・ルーフェン、リー・リエ
2020 年/台湾/カラー/119 分/中国語/シネスコ/
英題:My Missing Valentine /原題:消失的情人節
配給:ビターズ・エンド
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