で、ハンフリー・ボガードの話だが、あの男が何度も生き直しができるのはなぜだろうかと考えてみた。すると、結論が出た。
それは簡単なことだ。
あの男にはスクリーンがあるからなのだ。
だが、おれの人生にはスクリーンがない。スクリーンがありさえすれば、おれも死ぬことができる。
死ぬことができれば、その分だけ生きるはずなのだ。そこで、おれはいろいろ考えたすえ、自分のスクリーンを持つことにした。
(寺山修司『幸福論』より)
現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しか関わりがないかのように、信じていない。映画を作るのは私たちではなく、世界のほうが悪い映画として私たちに現れるのだ。
(ジル・ドゥルーズ『シネマ』より)
「悪い映画」としての世界を受容するために
映画館へと足を運ぶ日常が遠ざかってずいぶんと経つ。多くの人々がそうであるように、私もまた映画という祝祭を楽しみ、胸震わせ、驚きと畏怖の念を感じながら救われてきた人間のひとりだ。敬虔な信者が毎週教会へ通うように、映画館へ通うことは祝祭的な儀式であり、そこでもたらされるものは、何物にも代えられない至高の体験だった。だから暗闇が明け、ほかの観客に混じってぞろぞろと出口へと向かうときには、束の間の陶酔と錯誤にまみれながら、何とも言いがたい後ろめたさを背負って映画館を後にすることになる。「暇つぶし」といえるほどの気楽さは失われ、かといって映画を観ることが「幸福」と言えるような無邪気さや幸せな日々はもう帰ってはこない。
映画と現実の乖離。その距離や断絶を意識すればするほど、映画という虚構世界に対する愛情や信念は深まり、現実世界に対する不信と絶望もまた強くなる。なんという屈折。寺山修司はそのようなみじめな現実を映画で埋め合わせるのではなく、映画の中の人物をスクリーンの外へ引きずり出せと挑発した。その一方で、映画や物語をなぞっても幸福になれない現実のもどかしさに気づいてほしいとホン・サンスは言う。だが、そのように映画と現実を二項対立的な図式で捉えること自体が、実は世界がどれほど深く映画に侵食させられているのかを如実に証明しているとはいえないだろうか。コロナ禍と東京五輪に対するこの国の狂気に振り回され続ける日々のなかで、この現実が悪夢というより、今まで観たどんな映画よりもたちの悪い映画に思えて仕方がない。
フランソワ・トリュフォーの『映画に愛をこめて アメリカの夜』(73)に象徴されるように、ヌーヴェル・ヴァーグ以降、映画が生まれる撮影現場は現実を異化し、楔を打ち込むひとつの特別な場となった。だがトリュフォーと同じように映画と実人生が相互に補完し合うようなホン・サンスの作品には、映画監督や映画作品は登場しても、その撮影現場が現れることは決してない。おそらくそれは、すでにこの現実が「悪い映画」として立ち現れてしまっているという感覚がホンのなかに深く根ざしているからではないだろうか。自らの身に振りかかる愛も死も、すべてが悪い映画のように作りものめいて見えるとき、私たちはただ目の前の世界を観察することしかできない。その観察者=観客としての空虚と孤独をこそ、ホンは一貫して描き続けてきた。だから防犯カメラやインターホンのモニター越しに世界を観察する『逃げた女』のガミ(キム・ミニ)も、スクリーン越しに彼女を観察する私たち観客も、同じ空虚と孤独を抱えた観察者であることに変わりはない。
もちろん、そんな空虚な観察者にも声=内面はある。実験映画を撮っていたホンに劇映画の可能性と回帰をもたらしたのはロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(51)だが、原作者ジョルジュ・ベルナノスの言葉=内面と映像=外面によって救済と恩寵を描くそのスタイルは、人物のモノローグを多用するホン作品に決定的な影響を与えている。そして『田舎司祭の日記』の構造とブレッソン作品の持つ高みに最も近づいたのが『ヘウォンの恋愛日記』(2013)だろう。そこではフランス最大の映画批評家といわれるアンドレ・バザンが『田舎司祭の日記』を評した「魂の唯一の現実」が、日記を読み上げるひとりの女性の声と姿を通して確かに伝わってくる。救済や恩寵とは対極にある、圧倒的な空虚と孤独の慄然とともに。
ブレッソンやカール・ドライヤー、エリック・ロメールなどの作品をフェイバリットに挙げるホンは、もともと彼らカトリック作家的な求道性をその資質として持っていた。だからキム・ミニとの出会いを経て以降の作品群は、その方向性がより明確になったといえるだろう。いわばキム・ミニというブレッソン的な「モデル」を得たからこそ、ホンは作品に救済や恩寵へのストレートな希求を描くことができるようになった。『それから』(2017)において「この世界を信じる」と断言するキム・ミニはまさにその証といえる。だが注目すべきは、『川沿いのホテル』(2018)の年老いた父親のように、人生の終着点としての死もまた、そのような希求や信念と同じ重みと率直さで、あたかも目の前にあるスクリーンにすっと入り込むように、ごく身近なものとして描かれているということだ。この世界や生に対する希求と可能性を信じるためには、その裏側にある死の可能性をも受け入れなければならない。そう、死ぬことができれば、その分だけ生きるはずなのだから。ここにおいて、ホンは「悪い映画」として立ち現れるこの世界、つまりスクリーンとしての人生を観察する者から、受容する者へと変化するに至る。
「愛する人とはいつも一緒にいるべきだ」という夫の信念を、ガミは出会った女友だちに言う。繰り返されるその言葉は、文字通り何度も再生される映画の「台詞」であり、同時に祈りでもあるだろう。私たちはスクリーンとしての人生を生きている。それは決まりきった紋切り型の台詞を反復し続ける出来の悪い映画かもしれない。それならば、もう一度「映画」に立ち帰ってみればいい。そこにはすでに起こってしまった過去とまだ訪れていない未来が共存し、反復しあいながらささやかな差異を生み出して、愛や死が再び開かれるのを待ちわびているのだから。つねにスクリーンの外側へと立ち去っていくホン作品の人物たちとは違い、ガミは踵を返して映画へと立ち帰ってくる。思えば、その登場からしてガミは立ち帰ってくる人物として現れていた。絶望でも希望でもない、愛や死が再び開かれるゼロ地点としての海=スクリーンをじっと見つめるガミ。そこには人生を受容したホンの空虚と求道性が、寄せては返す波の狭間で穏やかに同居している。
ベルリン国際映画祭 銀熊賞(監督賞)受賞!
ホン・サンス監督×主演キム・ミニ最新作『逃げた女』予告編
第70回ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞
ホン・サンス監督×主演キム・ミニ、7度目のタッグ作
ポン・ジュノ監督作『パラサイト 半地下の家族』(19)が米アカデミー賞作品賞に輝き、キム・ボラ監督の長編デビュー作『はちどり』(18)がコロナ禍の日本でスマッシュ・ヒットを記録。娯楽映画からアートハウス系の作品まで質量共に充実し、世界的に注目を集める韓国映画において、ひときわ特異な存在感を放ち続ける映画作家、ホン・サンス。24作目となる新作『逃げた女』は、第70回ベルリン国際映画祭で初の銀熊賞(監督賞)を受賞、2020年カイエ・デュ・シネマが選ぶベストテン2位に輝いた注目作だ。監督の公私のパートナーであり、パク・チャヌク監督作『お嬢さん』(16)でも鮮烈な印象を残した女優キム・ミニ(ニューヨーク・タイムズ紙が選ぶ「21世紀最高の俳優25人」にソン・ガンホと共に選出)との7度目のタッグ作であり、監督作品の常連俳優のソ・ヨンファ、クォン・ヘヒョ、『はちどり』のユジン先生を演じたキム・セビョクなど実力派が顔を揃えた。猫の名演技にもご注目!
愛について、結婚について、これからについて
揺れ動く女性心理をスリリングにあぶり出す
ホン・サンス作品の代名詞ともいえる長回しや奇妙なズームアップの演出が、一見たわいない会話、登場人物の気まぐれな行動を通して、愛や結婚、さらには人間や人生の本質をユーモアと詩情豊かに描き出していく。果たして「逃げた女」とは誰のことなのか、そして、彼女は一体何から逃げたのか――。
5年間1日たりとも離れたことのない夫、愛しているなら当然と思ってきた、今日までは――。
ソウル郊外、3人の女友だちとの再会。女たちの迷いと優しさ、隠された本心。女は何から逃げたのか。
〈STORY〉
5年間の結婚生活で一度も離れたことのなかった夫の出張中、初めてひとりになった主人公ガミ(キム・ミニ)は、ソウル郊外の3人の女友だちを訪ね、再会する。行く先々で、「愛する人とは何があっても一緒にいるべき」という夫の言葉を執拗に繰り返すガミ。穏やかで親密な会話の中に隠された女たちの本心と、それをかき乱す男たちの出現を通して、ガミの中で少しずつ何かが変わり始めていく。
監督・脚本・編集・音楽:ホン・サンス
出演:キム・ミニ、ソ・ヨンファ、ソン・ソンミ、キム・セビョク、イ・ユンミ、クォン・ヘヒョ、シン・ソクホ、ハ・ソングク
2020年/韓国/韓国語/77分/カラー/ビスタ/5.1ch
原題:도망친 여자
英題:The Woman Who Ran
字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ
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