わたしたちが一緒にできること

頭を殴られたようになり、呆然としてしまった。試写室から、家まで、帰った道筋を思い出せない。でも、なんで、こんなにショックを受けるんだろう。いつもの駅のホームで、わたしがスカーフを落としたのを、近くを歩く、二人の女性が、とっさに、指を指す。その彼女たちの顔。普段、自分の生活になんの疑いも違和感も持たないようにみえていた、道ゆく女性たちの顔が、今までと異なり、くっきりと、陰影をもって、見えて、ハッとする。この映画は、見えているのに、描かれてこなかったものを、描いてる。たぶん、ほんとうのことは、今まで描かれてこなかったのだ。女性同士が、さしで向き合い、その間に何も入ってこないなら、そこで起きていることは、一体何なのか。

「異性愛から、少し離れられるだけでも、ほっとするんだよね」と言った、ずっと前に仲違いしてしまった女友達の横顔が、浮かぶ。20代の最後のあたり、ずっと一緒にいた。職場も一緒、遊ぶのも一緒。お互いの部屋に泊まり、そのまま、仕事に行った。当時は、彼女といれば、安全だと思えたのだ。でも、あっという間に仲違いした。たぶん、異性愛的な何かを、彼女との関係にあてはめようとして、わたしは、彼女にふられたのだろう。自分が、まるで、相手の「ミューズ」か何かであるかのように勘違いしたのだ。あのときは、彼女がいうことがまるで理解できなかった。「所有ではない何か」を誰かと関係の中で求めていると、彼女は繰り返し繰り返し、私に話していたのに。依存でもなく、階層移動でもなく、誘惑でも、取引でもない。彼女は、ただ、わたしたちが「一緒にできること」を探していただけなのだ。とても、シンプルで、正しかった。

映画を撮るとき、私よりずっと若い俳優が態度で話しかけてきたのを思い出す。わたしは、被写体となる、彼女に、こうやれと、指示し、それを、こうやって撮ろうときめて、彼女の存在を規定する。しかし、彼女は、わたしの規定した女性像をさらに超えて、わたしに「このような自分を撮れ」といってくる。「リミットをもうけるな、わたしを使って、もっともっと先に進むのだ」と。わたしが彼女をみるとき、彼女も、また、わたしをみている。わたしと彼女の反射が、映画にうつる。そのとき、ミューズなど存在しない。わたしたちは、好む服装も違い、普段つきあう友達のタイプも、遊ぶ街も、違う。でも、わたしたちには、一緒にやることがある。その確かさ。得難さ。それが、うれしく。何度も何度も、その記憶を反芻した。でも、撮影を終えてから、実際に、彼女にあったことは、一度も、ないのだ。

そういえば、結婚のための肖像画が描き上がってしまえば、エロイーズは結婚することになり、画家のマリアンヌは、エロイーズと別れなければならない。それなのに、エロイーズは、マリアンヌになぜ、自分を描くことを許すのだろう。そして、それでも、マリアンヌがエロイーズを描かずにいられないのはなぜだろう。それが、彼女たちが、ほんとうの意味で、一緒にできること、だったからだ。描かれる側であったエロイーズが、描く側であるはずのマリアンヌに向かって、「これを、あなたは、描くべき」と指定するところで、私は、激しく動揺したのだ。こんなシーンを、かつて映画の中で見たことはなかった。

相手を失うことを前提とした恋愛であることに、また、回想された恋愛であることに、映画が進むにつれ、耐えられないほど、苦しくなっていく。なぜ、こんな映画を?こんなに苦しい喪失感を、なぜ、わたしたちは味わわなければいけないのか?わたしたちは、一緒にできることを見つけたのに。

そうか。かつて、数多の女性が、このように、失ったのだ。失いながら、描いたのだ。描かずにはいられなかったのだ。たとえ、取り返しがつかなくても。描かずにはいられなかった。まるで、競泳選手が、スタート台に立つときのような、誰もよせつけないような目と冷静を持っている、あのマリアンヌが、全てをわかっていたはずなのに、深く傷つく様を、わたしたちは見る。この映画には、ほとんど男性は出てこないのに。彼らの欲望と権力が、彼女たちを、根本的に、規定している。

二人が別れたのち、エロイーズに、再び、カメラが向けられるとき。エロイーズが、絵画で描かれるような抽象的な場所から、現実に、突然、出て来たように見える。感情が、抑制をこえて、目の前に、たたきつけられる。なくしたからといって、忘れてなるものか。私は、自由を知ったのだ。はかりしれないような、一歩間違えば、人を狂わせてしまうような、深い怒りについての映画でもあると気づく。「客体化」された女性の、奪われた季節、奪われた体、奪われた名前、奪われた歓び。奪われた主体。数限りない女性たちの。なんだか、体がふるえる。奥の方がふるえてると思い、しばらくして、自分もまた、エロイーズのように、泣いていることに気づく。怒りが、悦びが、彼女のプライドが、この体に、燃えうつってくるようだった。

木村有理子(きむら・ありこ) 映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

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シャーリーズ・セロン、グザヴィエ・ドランら、今を煌めく映画人が大絶賛
生涯忘れ得ぬ痛みと喜びを人生に刻んだ恋を辿る
追憶のラブストーリー

本作は、ハリウッドのトップ女優のひとりであるシャーリーズ・セロンが「この映画を本当に愛している」と絶賛し、アカデミー賞女優ブリー・ラーソンは“後世に残したい作品”に本作を挙げ、天才監督グザヴィエ・ドランを「こんなにも繊細な作品は観たことがない」と夢中にさせるなど、今を煌めく映画人を次々に虜にしている話題作。カンヌでは脚本賞を受賞し、ゴールデン・グローブ賞と英国アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたほか、世界の映画賞で44もの賞を受賞。ヨーロッパでのヒットに続き、アメリカでも過去公開された外国語映画の歴代トップ20入りを果たす大ヒットとなった。さらに、テイラー・スウィフトの最新アルバム「Folklore」のアートワークが本作の影響を受けているのではないかという推測がSNSでしきりに飛び交うなど、本作に魅せられているのは映画人に留まらない。

メディアからも「驚くほど美しい、最高傑作!」(TheObserver)、「とにかく素晴らしいこの映画を見逃してはならない。」(Pajiba)、「いつまでも 記憶に残る、愛と追憶のストーリー。」(IndieWire)、「強烈で生き生きとした油絵のような映画。」(Screen International)等、各誌で称賛されたほか、アメリカのWEBメディアIndieWireの“世界の批評家304人による2019年ベストフィルム”第5位に選出された。アメリカの映画批評サイトRotten Tomatoesでは98%フレッシュをたたき出している。そんな世界が絶賛を惜しまない必見の一作が、日本でもついにベールを脱ぐー!

(c) Lilies Films.

監督は本作で長編映画4作目ながらにして輝かしい受賞歴を誇るセリーヌ・シアマ。マリアンヌには本作でセザール賞にノミネートされたノエミ・メルラン。エロイーズにはシアマ監督の元パートナーで、セザール賞2度受賞のアデル・エネル。フランスで今最も熱い称賛をまとう女優ふたりが織りなす、そのひとの眼差しを、唇を、微笑みを、そして別れの瞬間の姿を思い出すだけで、息が止まるほど愛おしく切なく、蘇る情熱が命を満たす――そんな鮮烈な恋の、決して消えることのない燃ゆる炎を描く、一生忘れ得ぬ愛の物語が誕生した。

ストーリー

18世紀、フランス、ブルターニュの孤島望まぬ結婚を控える貴族の娘と、彼女の肖像を描く女性画家結ばれるはずのない運命の下、一時の恋が永遠に燃え上がる

画家のマリアンヌはブルターニュの貴婦人から、娘のエロイーズの見合いのための肖像画を頼まれる。だが、エロイーズ自身は結婚を拒んでいた。身分を隠して近づき、孤島の屋敷で密かに肖像画を完成させたマリアンヌは、真実を知ったエロイーズから絵の出来栄えを否定される。描き直すと決めたマリアンヌに、意外にもモデルになると申し出るエロイーズ。キャンバスをはさんで見つめ合い、美しい島を共に散策し、音楽や文学について語り合ううちに、恋におちる二人。約束の5日後、肖像画はあと一筆で完成となるが、それは別れを意味していた──。

『燃ゆる女の肖像』予告

カンヌをはじめ世界の映画賞で44も受賞した-映画史に残る愛の物語『燃ゆる女の肖像』予告編

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監督・脚本:セリーヌ・シアマ「水の中のつぼみ」 
出演:アデル・エネル「午後8時の訪問者」、ノエミ・メルラン「不実な女と官能詩人」 
原題:Portrait de la jeune fille en feu
英題:PORTRAIT OF A LADY ON FIRE
2019/フランス/カラー/ビスタ/5.1chデジタル/122分
字幕翻訳:横井和子 
<PG12>
(c) Lilies Films.  
配給:ギャガ

12/4(金) TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマ 他全国順次公開
『燃ゆる女の肖像』HP