男の子たちの柔らかなレジスタンス
ファーストシーン、スケートボードを抱えた青年たちが、「立ち入り禁止」の入り口をくぐりぬけ、巨大な駐車場の最上階へ向けて外階段を登っていく。途中で高さが怖くなり、最上階までいくのをやめて、途中の階層で、ギヴアップして、滑り降りはじめるのだけど。しかし、滑り始めてしまえば、ものすごく大胆になんの躊躇もなく、亀裂や障害を乗り超えていく。この、臆病さと、勇敢さのバランスが、なんだか新鮮です。
滑り降りた彼らは、駐車場のゲートをくぐりぬけ、さらに、街路へとなめらかに滑り出していくのですが、とても自由自在に滑るので、まるで、街の全てが、彼らのものであるかのように見えます。撮影は、この監督であり、スケーターであるビン・リューが、自らスケートボードに乗りながら、仲間を撮影していて、カメラと、滑る彼らと動きが一体化していて、気持ちがいい。「やんちゃ」なはずの、エクストリームスポーツが、細部までコントロールのきいた、とても、エレガントで美しいものに思えてくるのです。
経済から見放された町、ロックフォードで、スケートボードにのめり込んで、一緒に育つ3人の少年が主人公の映画です。はじめは、スケボー仲間同士の技の撮影からはじまったので、一番はじめの映像は、黒人であるキアーが11歳、白人のザックが15歳、中国からの移民のビンが17才です。なんとそこから、12年の映像の積み重なりがあります。少年から青年へと変貌をとげる、とてもとても多感な時期ですよね。彼らにとって、スケートボードは、遊びやスポーツやコミュニティであるというだけではなく、失われた自信を回復し、「制御できる」という感覚を得るために、必要なものなのだということが、徐々に、わかってきます。しかし、彼らは、大人になる年齢にさしかかっていて、このまま、一緒に、仲良く滑っているだけではいられないようです。
なんと、ザックは若くして父親になるようで、隣には、お腹の大きいガールフレンドのニナがいます。キアーという少年は、ザックをしたっています。純粋で無邪気だけど、ひどい癇癪持ちで、頭にくると、スケードボードが折れるまで蹴り続けます。彼は、初めて、仕事につきます。少年のころから、ザックは、キアーをかばってきました。ザックが、愛しそうにからかうと、キアーがうれしそうに笑う。映画を撮っているビンもまた、それぞれと、とても親そう。それぞれに、見れば見るほど引きつけられる、魅力的な少年たちです。荒んだ街で、共に成長する少年たちの話は、しかし、途中で、思わぬ方向に、急カーブしていくのです。
「家の中で、暴力は日常的に受けていたの?」とビンが、キアーの後ろ姿にインタビューすると、キアーが答える前に、ザックの後ろ姿にかわり、キアーではなく、ザックが答えはじめるのです。(ちょっと言葉を濁すけど、でも、)彼もまた、親から暴力を受けていたのだと、その後頭部がでてきただけでわかる。その、冴えわたったマッチカットに、ハッとさせられます。3人は、それぞれに、家族から暴力を受けて育つ。その暴力は、彼らの自尊感情を根こそぎ、はぐ。スケートボードだけではなく、このような感情が、彼らは、お互いに、固く結びつけているわけです。
ビン自身が暴力を受けていた古い家に近づいていくシーンに入っている、ビンの荒い、乱れた息遣いがこわい。まるで、ホラー映画のよう。密室の中で、子供に対して行われた激しい暴力があらわになる。この、桎梏から開放されるために、ビンは、自分の母親にキャメラを向け、インタビューを試みます。キアーやザックを撮るときのように手持ちで、シンプルにカメラを向けられなかったのかもしれません。「これは、映画の撮影なんだ!」といわんばかりに、大きな照明を組み、大きなカメラを据置でかまえ、その後ろに、自分は座ります。そして、同時に、その、カメラの影に半分隠れるようにして、インタビューしている自分を、別のカメラで撮って欲しいとスタッフに頼むのです。ザックやキアーの傷ついた心の仕組みをカメラで解体してみせたように、今度は、自分をまるごと、映画に投げ込み、解体しようとするのです。大人の男性によって、傷つけられ、支配されることに、深く傷つけられながら、男性として、強くあれというプレッシャーの中で、生きなければならない、子供たち。そこから抜け出すために、ビンは、この映画を、仕掛けるのです。
同時に、ビンがザックを問い詰めて、なぜ、ガールフレンドのニナに暴力をふるってしまうのかを、話させるシーンは、胸が痛くなります。ザックは、ニナに対する暴力を、正当化しようとしています。「女がしつこく、はむかってきたら、男は殴ってもいい」というようなことを言うのです。でも、それは、彼が、自分の父親からされてきたことですし、自分の女の行動を管理できなければ、真の男ではない、というようなプレッシャーからきているのです。そして、その行為が、彼を、彼の息子とニナから、遠ざけているということも、自分でわかっているのです。ザックは、息子とニナと別れることで、自分自身を手放してしまいます。あの、感情豊かで、自信に満ちた少年が、自己嫌悪に苛まれ、薄ら笑いを浮かべ、おどけているだけの青年にかわってしまうのです。
わたしが、ずっと、不思議だと思っていたのは、小さい頃や、若い頃は、誰もが、心の柔らかい繊細で傷つきやすい部分を持ち、それを、表に出すのを躊躇しないのに、男の子は、育っていくにつれて、それがまるでないかのように、振るまいはじめる、ということです。心を表に表さなくなったり、攻撃的になったり。そして、繊細なままでいる男の子は、集団から、はじかれて卑屈になったり、しょげた感じになってしまう。どちらにしても、いきいきと生きていた心の柔らかい男の子は、いつの間にか、いなくなってしまう。それは、なぜなのだろう。自分がもし、男性だったら、どうなっただろう。「負けてはいけない」というプレッシャーの中で、しょげてしまっただろうか、それとも、自分より「弱い」と感じる男性を攻撃したり、あるいは、親密な関係の女性や、自分の子供を、攻撃してしまっただろうか。それとも、もっと、「超越的なもの」を求めて、宗教にしがみついたり、世捨て人のような生活を送ったりしたのかもしれない。と、延々と考え続けてしまいます。要は、まわりの男性を見ていると、こちらまで、そんな不安をかきたてられる若い時期があったのです。
ところが、ビンという人は、ちょっと違っています。ビンは、キアーのお母さんが、ボーイフレンドに、軽く、なじられ、悲しい顔になるのを見逃しません。また、キアーが、スケボー仲間から、黒人ゆえに差別されるときの、悲しげな表情を見逃すこともないのです。暴力へのセンサーが鋭い。さっと悲しみに共感できる、目を持っている。自分の母親が、ボーイフレンドから、殴られていたからです。親密な男性から暴力を受けた女性に、カメラを向け、インタビューすることができる。なぜか、女性たちは、肝心の相手の男性には何も言えないのに、ビンには、正面から、自分の言葉で、それを話す。それは、心の柔らかい彼が相手だから話せるのだと思う。ビンのカメラは、荒れた家庭で育ち、20才で、ザックとの子供を産んだニナが、ザックとの関係がめちゃくちゃになりながらも、一人で息子を育てるために、まともになろう、どうにか大人になって、自分の人生をコントロールしようと悪戦苦闘する姿を、じっくりととらえます。
ビンは、ただの被害者には、おさまらない。自分の人生をコントロールすることをあきらめない。泣きたい時には泣く、その姿をみなにさらすことを厭わない。その姿勢に、とてもとても心を動かされた。多くの男の子たちが、「女性的である」「弱い」「臆病だ」と判断されて、仲間内でいじめられることを恐れているのに、なぜ、ビンはそれが、できたのだろうか、つい、考えてしまいます。一つは、アジア系の移民の子供であったということがあるかもしれません。お母さんのモンユエの英語が息子のビンより、ずっと拙いことをみると、キアーやザックよりも、アメリカの男性社会と、心の距離があるように思えるのです。そもそも、二人より華奢で、声の高いビンは、男らしさの規範から、初めから外れているのかもしれません。2つ目は、高い教育を受け、映像業界で働くことができたことです。ジェンダー・スタディーズやフィルム・スタディーズが、頭に入っているように感じます。アメリカの配信会社の大手が準拠するような社会観や倫理観を内面化しているようです。
実は、男の子の育ち方について考えるときに、フェミニストが、「どうしたらいいんだろう」と感じるジレンマがあります。それは、男であることと、ミソジニーや無条件の男性権利意識とを切り離すにはどうすればいいのだろう?ということです。子供自身が、「男らしさ」について社会から受け取るメッセージ(弱みをみせてはいけない、アグレッシブであれ、とか)や、自分や他人を傷つけるようなジェンダー期待(女性をを支配的に扱ってもいい、とか)を、背負わずに自由に生きていくには、どうしたらいいのか。(コンビニの雑誌棚で成人男性向けの漫画や週刊誌の見出しを見ながら、いつも、私は、この問題が頭を離れないのです。男の子の母親たちと話しても、子供を加害者にせずに育てるには、どうしたらいいのだろうか、という話題が必ず出てきます。)この映画によって、ビンが取り組んでいることは、まさにそのようなことだと思います。どうしたら、社会から、メディアから、おしつけられた、「男らしさ」から抜け出せるか。ありのままの自分を否定せずに、自らの人生をコントロールしていけるか。
この映画の、クライマックスは、期待される「男らしさ」に閉じ込められて、自分の感情をうまく表現できず、妻を殴ってしまうザックが、その苦しい気持ちを話すところと、配偶者から暴力を受けても、長いこと彼と別れることができなかったことを話すモンユエと息子のビンのカットバックとなっています。女性を殴る男性、殴られる女性と、その子供。殴られて育った子供が、今度は、自分が、パートナーを殴る男になる。その絶望的な仕組みを、編集によってしめしてみせます。(ここの編集は、とにかく、冴え渡っています)そのとき、「どんなやり方でもいい、それに向き合え、ただ、考えずに逃げ続けることでは解決しない。映画でも何でもつかって、それに向き合ってほしい」と、ビンのお母さんモンユエは、ビンにはっきりと言うのです。モンユエの、「自分は間違ってしまったけれども、息子には間違わせたくない」という強い意思は、有無を言わせぬ迫力があります。
しかし、この映画を映画たらしめていると感じるところは、「アメリカ経済から見放されたラストベルトに蔓延する、貧困層の世代間で連鎖する家庭内暴力を断ち切れるか、そのために、自らの「男らしくあらねばならない」というジェンダー期待を、いかにかわしていくか」という、すぐれた「テーマ」設定だけではないような気がします。
ビンが、自ら、この映画を、しかけていくのは、自分のためだけでは、ないような気がするのです。失敗したら、大怪我するかもしれない大きな陥没や裂け目、障害に気付き、ジャンプし、乗り越え、無事に着地するという、ビンの覚悟、絶対に自分はコントロールしきってやるという武者震いのような気持ちが伝わってきます。自分も着地し、同時に、キアーも、ザックも、着地させ、コントロールを失わずに、滑り切りたいのです。スケートボートで、彼らが12年にわたり、あらゆるギャップを、ともに乗り越えてきたように。
無邪気なようにみえて、直感的で鋭いキアが、家庭で暴力をふるわれたら、自分もビンも涙を流してきたことについて「あたりまえだ、そんなときには、誰でも泣くよ」というようなことを、ビンに話すところに、ハッとしました。弱いところをみせても、大丈夫だと安心しているのです。子供たちが、傷ついた自分を相手に見せている。この世代の男の子同士の、この柔らかい関係性に、自分が、立ち会っていることに、心が震えます。ビンの、若い時期の、不安定な表情を見ながら、大人によって、こんなふうに自信をうばわれた弱々しい男の子が、よく、こんな素晴らしい青年に成長したものだと、感嘆するのですが、一つには、キアーが、そばに、いてくれたせいだと思うのです。
そして、それが、この映画が、何らかの普遍性に触れているところだと思うのです。この映画を見ていると、10代のおわりから、20代のはじめ、どうやったら大人になれるかわからなくて、途方にくれて、1人で泣いていた自分、というようなものに、つきあたる瞬間があるのです。忘れていたけれど、子供から大人になるって、それくらい大変なことでしたよね。それ自体が、大きなギャップなわけです。そして、ギャップを前にして、途方にくれるとき、そばには、自分と同じような問題を抱え、苦しんでいる、同世代の友達が、いたわけです。
ビンが、キアーに、「なぜ、君を撮影するのかというと、自分が家で殴られることが納得がいかなくて、だから、家で同じように殴られていた君のストーリーを自分に重ねて撮り始めたんだ。」ということを話して、キアーが、驚いた顔をして、それから、「全然知らなかった。それを知ることができて、うれしい」というようなことを言って、笑うところが、とても好きです。ビンの心を、キアーが素直に受け止めていて、涙が出ます。「傷をなめあう」というと、弱者同士慣れ合いで、それが悪いことのようなイメージがありますが、キアーとビンが、お互いの傷を、柔らかい心同士で、なめあえたことから、二人はそれぞれに、前に踏み出せたのだ、と思うのです。この映画には、柔らかい繊細な心のまま、認め合い、ともに大人になっていく男性の姿があります。その姿が、とても、健やかで、新鮮なのです。わたしは、ずっと、男の子のこんな姿がみたかったんだ、と気づかされます。そして、ビンのように、キアーもまた、自分自身で、自分の次の扉を開こうと、決心するのです。
「巨匠」や「中堅」といわれる監督たちの作る映画は、クリント・イーストウッドであれ、ハーモニー・コリンであれ、誰でもいいのですが、「男らしさの桎梏からは、逃れられない」というのが、物語を作る前提であったような気がします。その「逃れ難さ」を、いかにうまく描くかという、そういうところで「勝負」していたのではないでしょうか。しかし、その種の映画をみると、狭い場所に閉じ込められて、不安を、さらに煽られているようで、苦痛でした。「男らしさの桎梏ゆえ、自分を傷つけ、周りの女性を傷つけ、人生を棒にふる。他の男とも、心を通わせることができず、孤独になる。でも、男性というものは、そういうものなのだ、仕方ない」と、言われているようで、たのしめなかった。結局そういう映画は、無意識に、「男らしさの桎梏」を補強したり、再生産してしまい、男性本人にも、そのまわりにも、実害があったのかもしれません。私は、先の大統領選挙の渦中で、クリント・イーストウッドが、ドナルド・トランプの発言と、それを支持する層の考え方について、はっきりと否定しなかったのを見て、世にもつまらない気持ちになりました。男性の持つ矛盾を正確に描いてきたがゆえに、もう、矛盾そのものが相対化でき、そこから抜け出せるものだとは、思えなくなっている。『グラン・トリノ』のように、男らしさの矛盾を背負い、自ら、弾丸を浴びて蜂の巣になって孤独に死ぬだけが、暴力的な世界から少年を救う方法ではないわけです。
ビン・リューの、自分をしばる「男らしさ」への、柔らかく強いレジスタンスを知ったことによって、その不安から、あの狭い空間から、出られたような気が、私はしたのです。「誰だって殴られたら痛い。悲しければ泣く。それは、男だろうが女だろうが、変わらないから、男に生まれたからって虚勢なんかはることないし、「男らしく」なれないからって、卑屈になることもない。自分の手で自分の人生を制御していくのをあきらめないで」と、まだ若いビンは、この映画をとおして、自分よりもっと若い子たちにむかって、はなしかけているのだと思います。そして、この映画は、男の子の柔らかなレジスタンスを描いた映画であると同時に、親密な男性から暴力をふるわれながらも、子供を必死で守って生きている女性たちについての映画でもあって、(その二つは、そもそもが、切り離せませんね)映画は、モンユエとニナの、決して暗くはないその後の人生にもまた、あたたかく言及しています。 (終)
木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。
ストーリー
「アメリカで最も惨めな街」イリノイ州ロックフォードに暮らす、キアー、ザック、ビンの3人は、幼い頃から、貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。スケート仲間は、彼らにとって唯一の居場所、もう一つの家族だった。いつも一緒だった彼らも、大人になるにつれ、少しずつ道を違えていく。ようやく見つけた低賃金の仕事を始めたキアー、父親になったザック、そして、映画監督になったビン。ビンのカメラは、明るく見える3人の悲惨な過去や葛藤、思わぬ面を露わにしていくー。希望が見えない環境、大人になる痛み、根深い親子の溝…ビンが撮りためたスケートビデオと共に描かれる12年間の軌跡に、何度も心が張り裂けそうになる。それでも、彼らの笑顔に、未来は変えられると、応援せずにはいられない。痛みと希望を伴った傑作が、誕生した。
『行き止まりの世界に生まれて』予告編
出演:
キアー・ジョンソン
ザック・マリガン
ビン・リュー
ニナ・ボーグレン
ケント・アバナシー
モンユエ・ボーレン
撮影・監督:
ビン・リュー
製作:
ダイアン・クォン
ビン・リュー
編集:
ジョシュア・アルトマン
ビン・リュー
エグゼクティヴプロデューサー:
ゴードン・クィン
スティーヴ・ジェイムス
ベッツィー・ステインバーグ
音楽:
ネイサン・ハルバーン
クリス・ルッジェーロ
挿入歌:
”VIdeo Life" クリス・スペディング
”This Year" ザ・マウンテン・ゴーツ