『恋人たちの予感』という映画の脚本家である、ノーラ・エフロンが、71歳で亡くなったと知ったとき、ドキッとしました。そのとき、生まれたばかりの赤ちゃんを育てていました…夜になると、くたくたで、自分に布団をかける気力も残っていなかったのに。遠く離れた彼女の訃報が、心にガラン、ガランと響き渡ったのです。その人の死によって、忘れていたはずの初恋の人を思い出したような感じでした。あれは、2012年の6月のことです。

『恋人たちの予感』は、その20年以上前の、ニューヨークを舞台にした、「男女の友情は成立するか?」という命題をめぐる、かけひきを描いた作品です。最初の出会いは、大学卒業後です。二人は、ひょんなことから、一緒に、長いドライヴをします。その間、ハリーはサリーを誘うが、彼女は拒絶します。サリーは、友達になろうとしますが、「男女は、セックスが邪魔して親友にはなれない」とハリーが拒絶し、ケンカ別れのようになります。5年後に、偶然、再会するも、同じやりとりを繰り返す。そして、10年後に、お互いに、大失恋した後に出会い、打ち明け話をするうちに、友情関係になる。しかし、今度は、サリーがハリーを誘い、二人は寝てしまう。寝てみたものの、ハリーの方は、今まで、サリーとの会話の中で、あらいざらい自分のことをさらしてきた分、セックスの後や、デートのときに、サリーと何を話したらいいかわからず、気まずくなります。サリーの方は、ハリーの態度にショックを受け、二人は離れ離れに。しかし、ハリーは、サリーへの思いが断ち難いことに気づき、結婚を申し込み、ハッピーエンド。という感じのプロットです。二人が、2度目に再会したときに、それぞれに、恋愛に疲れているので、お互いに意識せず、気楽になんでも話せる親友になる。信頼で固く結ばれた二人が、どんどん、ひかれあっていき、ついには寝てしまう。でも、お互いに、どうしたらいいのかわからない。初めて見たときから、この関係が、対等なのに、とても、ロマンティックで、どこかがすごく清潔で、大好きでした。

でも、当時から、この映画を、好きだ!というのが、なんだか気恥ずかしいのです。同じ年に作られた映画といえば『ドゥ・ザ・ライト・シング』(スパイク・リー監督、脚本、主演)や『ドラッグストア・カウボーイ』(ガス・ヴァン・サント監督、脚本)や『セックスと嘘とビデオテープ』(スティーヴン・ソダーバーグ監督、脚本)があります。これらの映画の、一筋縄ではいかなさ、に憧れていたので、『恋人たちの予感』が好きというと、自分がバカに見える気がして…そんなこと気にするなんて、それこそ、バカですよね。

エフロンが、亡くなった翌年、2013年に、エッセイ集『首のたるみが気になるの』(阿川佐和子訳、集英社)が、日本で刊行され、美容や子育てを題材とした自虐的でコミカルな文章でありながら、知性のスケールが大きい…日本でいえば佐藤愛子みたいな、文章の虜になりました。その後も、レナ・ダナムのエッセイ集『ありがちな女じゃない』(山崎まどか訳 河出書房新社)、『ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年、スティーヴン・スピルバーグ監督)が、それぞれ、エフロンに捧げられているのを知るにつけ、その都度、「はっ!」としました。いったい、どんな人なんだろう。動画サイトで本人を見ると、ファッションや雰囲気は、『恋人たちの予感』のヒロイン、サリーを演じた、メグ・ライアンに似ています。(メグ・ライアンも、撮影中は、エフロンの開くパーティーによばれてるみたいだったってインタビューで言ってますが)ブランドでいえば、アルマーニやチェルッティなのでしょうか。ベージュや茶色のなどの、洗練されたパンツスタイルです。内容は辛辣であけすけでも、口調はあくまで、ソフトでブリリアント。かっこいい。略歴やエッセイなどを読むと、とっても成功した裕福な脚本家の両親の元に生まれ、名門女子大学を卒業し、ケネディ時代のホワイトハウスの見習い→新聞記者→コラムニスト→映画の脚本家→監督という風に、キャリアを積んでいったようです。彼女は若い時期、政治家やジャーナリストになる野心があったと思うのですが、政治とジャーナリズムは、当時、大変に性差別的な仕事場でしたから、プライドの高い彼女への風当たりは強く、おそらく、「挫折した」ということだろうと思います。彼女は、そんなありきたりな表現はしなくて、「上司の家のパーティーに招かれたら、水をぶっかけられたので、その場でやめてやった」というようなエピソードとして書いています。どんだけ冷たい水だったのか。

そんなことは、忘れて、コラムニストとしてメキメキ頭角をあらわしたころの文章を集めた『ママのミンクは、もういらない』(小澤瑞穂訳、東京図書)が、とても面白いです。70年代といえば、ウーマンリヴの時代。彼女は、フェミニストでした。しかし、その政治的信条と、女性たちの混乱や矛盾への興味で、しばしば引き裂かれてる、というか、正直に書きすぎて、ウーマンリヴの運動の足をひっぱることは、よくないことだが、自分はそれをやめられない、というようなことを書いています。(わかる。わたしも、フェミニストだけど、フェミニストの新聞に寄稿して、書き直しを命じられたことあった。あの新聞も私もわるくない、と今なら思う。)頻出する言葉は、「それについて、いま語るつもりはない」です。政治や社会的通念などの、大きな論点を避けて、別の切り口を見つけてきます。独立した目、強迫観念的に、全てを描写してしまう目と筆があります。それも、他人だけでなく、自分自身に対しても同じような鋭さで切り取ってしまうのです。ウーマンリヴの新旧のスター達のキャラクターや、けっこう醜い争い合い。料理コンテストに応募する田舎の主婦達の控えめに見えて抜け目のない行動原理、あるいは、名門女子大で良妻賢母になるような教育を受け、それを内面化しながら、ニューヨークに出てジャーナリストを目指した自分自身の様々な矛盾。どれに対しても、突き放した視点を保つことができているのです。階層や年齢や性別や、その人物の持っている主義主張などにとらわれずに、それぞれの人物の持つ、どうしようもない欲望や矛盾を鮮やかに照らし出す。あらゆる人物が、等しく、本来持っている、グロテスクな表情を、切り取らずにはいられない。時代的にも、ニュージャーナリズムと関係があるのかしら、と調べると、それは、自分で否定しているようです。この、ソフトに人の一番イタいとこをつく方法。これは、私が、自分で見つけたんだよ、ということだと思います。誰にも語れないやり方で、アメリカ社会を語ってやるという野心に溢れています。群れない人。

「ニューヨークの独身女性の人生を忠実に描こうとすれば大衆小説を書くしかないことに気づいた。理由は単純、ニューヨークの独身女性の人生は大衆小説そのものなのだから。」とも書いています。彼女の映画やコラムが、大衆小説が題材とするような世界から、絶対に離れようとしないのは、この気づきがあるからだと思うのです。若い頃、映画や小説の好きな会社の同僚と、「部長が秘書と不倫してるって感じの、昼ドラみたいな陳腐な設定は、現実にはそうそうないと思っていたけど、会社入ってみると、実際に、よくあるから、驚くね?」と興奮気味に話し合ったのを思い出します。しかし、部長と秘書がなぜ不倫するかを見れば、社会のジェンダーギャップが見えるのですから、エフロンは、通俗的とされるものを、一段低く見たりしないです。かしこい。

カール・バーンスタイン(一般的には、ウォーターゲート事件への大統領の関与を暴いた辣腕記者の、と枕詞がつくわけですが)との結婚の破局を描いた自伝的小説『ハートバーン』(松岡和子訳、河出書房新社)もまた、あっと驚くような面白い本でした。読む前は、日本でいえば、婦人公論調文体の、離婚告白ものなのかな、と思っていたのですが。脱線とギャグのオンパレードです。あまりにも、書き手自身が、自分をつきはなしているので、読者の私は、主人公の結婚の破綻に、一瞬でも、同情したり、酔ったりすることはできないのです。自分語り的な、ナルシシズムが微塵も感じられません。自分の離婚を、この上なく面白いコメディとして、躊躇なく語れる人、それが、ノーラ・エフロンなのです。それにしても、妊娠していて、夫に別のシリアスな相手ができてしまう、というのが、プロットの根幹にあるにもかかわらず、妊娠しているときの、自分自身の、感覚について、一切触れられていないのは、さすがに気になります。女性は、体の感覚を描いたが最後、男性によって「周縁化」されるのを知っているから?そういえば、多くの男性は、女性の告発調の文体を読めませんね。何を書いて、何を書かないかが、慎重に吟味されているのに、違いないのです。そう。つわりとか、破水とか、絶対に…頑固なまでに…書かない。

「書かれていない」といえば、元夫カール・バーンスタインの著作の映画化『大統領の陰謀』(1968年、ウィリアム・ゴールドマン脚本、アラン・J・パクラ監督)を見て、その、ヒロイックでクールな描写の数々に、しらけた気持ちになりました。ディープスロートと呼ばれる政界の大物である情報提供者(薄暗い地下駐車場での、彼との隠れたミーティングに、逆行気味にあてられる、あの、かっこいい青い光、ほんとに、いるんかな…おおげさだよネ)をのぞけば、キーとなる情報提供者は、女性ばかりなのですが。情報提供の前に、その女性が、だいたい、うるんだ目で、じっと、主人公達を見つめる印象的なアップ・カットが挿入され、まるで、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン(こちらがバーンスタインらしい)演ずる2人の記者のルックスの良さと政治の腐敗を描くという大義にうっとりしてしまい、ついつい、しゃべってしまう、ように見えます(同僚の女性記者は、キーパーソンに、勝手にハニートラップを仕掛けて情報を聞き出し、主人公達を助けるんだけど…どんなに都合がいい話しなんだよ、んなわけあるか、なんだそら。)実際にも、カール・バーンスタインは、妻が妊娠している間に、「歯医者にいってくる」といって、ワシントンの政界の事情通の女性と浮気を重ねていたので、『ハートバーン』と『大統領の陰謀』は、一つの同じ話なのかもしれません。バーンスタインは、『ハートバーン』が出版されてすぐに、体調を崩して、入院した、というのですが。単に、元妻に、妊娠中の浮気を暴露されたから、というよりも、自分自身について彼が描いていたヒロイックでシリアスな物語が、この上なく乾いたコメディの物語によってチャカされ、笑い飛ばされ、きれいに上書きされてしまったからなのじゃないかと思います。ノーラ・エフロンは、「大統領の不正を暴いた英雄」の浮気された妻、つまりは、「被害者」になるかわりに、筆の力によって、相手の英雄物語を殺し、自分を生かしました。エフロンのお母さんは、50年代の有名な脚本家フィービー・エフロンで、小さい頃から彼女に「すべてはネタなのよ」と、言いつづけたようです。バナナの皮に転んだら、笑われるけれども、転んだ話を、みなにすれば、それは笑い話のネタになる。これは、「単なる、被害者でいるな」という意味だと、エフロンは、とらえています。『ハート・バーン』の中で、妊娠7ヶ月で夫に浮気された私を見たら、亡くなったお母さんなんていうかな?と考えて、どうせ、「メモをとれ」とか言うに決まっている、と気づくというくだりには、感心しつつ笑ってしまいます。

その後、彼女は、マイク・ニコルズと組んで、原発労働者の女性を主人公とした実話もの『シルクウッド』のシナリオを書きます。70年代のコラムの鋭さを考えると、この采配は、的確に思えます。政治的なことを個人的なことから語るのが、とにかく、うまいですから。政治的、社会的なテーマではあるが、主人公カレン・シルクウッドを、とてもセクシーな若い女として、労働者階級ならではの辛辣なユーモアも持つ、活動的な、でも、悲しく愚かな部分も持ち合わせる、絶妙な人物として描きます。彼女がボーイフレンドと、いちゃつくシーンで、相互の愛がにじみ出るかどうかに、作品の肝がかかるような映画なのです。題材は、ノーラ・エフロンが、ジャーナリストとしてあるいは、コラムニストや作家としてやってきたことの延長といっていいような気がします。しかし、ここではじめてジャーナリスティックな視点をフィクション視点に切り替えることにチャレンジしているのが興味深いです。

『首のたるみが気になるの』の中に、監督マイク・ニコルズとの共同作業の中で、彼女が、脚本の書き方についてはじめて理解した瞬間についての、見事な描写があり、何度読んでも感動します。エフロンは、シルクウッドに起こった現実のエピソード、彼女は労働者の安全を無視する原発を告発しようとして何者かに殺されてしまうのですが、それは、普通に考えると、おそらく、原発側の刺客によって、という物語になると思うのですが、ニコルズは、彼女を原発側に密告した同僚の女性との関係性を掘り下げようとします。彼女は、直接的には、原発側の刺客によって殺されたかもしれないが、(事実は不明ですが)、告発した同僚女性によって殺された、ともいえなくはないわけです。というか、物語としては、「誰が彼女を殺したのか?」の答えが、みる人によって、違うように、もっていた方が面白い。ニコルズは、エフロンに、物語においては、誰が被害者で誰が加害者なのかは、ジャーナリズムのように固定されはしない。という話をするのです。そして、怜悧な目を持つ優秀なコラムニストだったノーラ・エフロンは、物語を語れる脚本家へと飛躍します。

ここまできて、馬鹿な私は、ようやく気付いたのですが、『恋人たちの予感』を見ると、スウィートでハートウォーミングな気持ちになるけど、それを書いた女性は、これ以上ないほど、シニカルでスマートな人物なのです。『恋人達の予感』は、逆説的にいえば『ドゥ・ザ・ライトシング』や『ドラッグストア・カウボーイ』や『セックスと嘘とビデオテープ』と同じなのかもしれません。人と人との関係の不安定さ、一筋縄ではいかなさ、そういったものを新しい話術で見事にあらわしてる。確かに、『恋人たちの予感』は、ある男女の「結婚」までの道のりを描くという意味では、これ以上ないほど、ロマンティックでオールドスタイルな、構成を持っています。しかし、ジェンダー間のギャップを描き、なおかつ、それが超えられようとする一瞬を描くということは、当時としては、かなりチャレンジングだったのではないでしょうか。例えば、男女が、オーガズムについて話す、あの有名なシーンの会話の内容と俳優二人の演技。あそこを、何度も繰り返し見てしまいます。カット割まで覚えている…。この映画を見たあとに、あの見事なシーンについて語らずにいられる人がいるでしょうか。見たことがないなら、あのシーンだけでも、見た方がいい。

メイキング映像の中で、出演者の1人、キャリー・フィッシャー(レイア姫を演じた人ですが、ここでは、不倫をやめられない自虐的な女性を演じています。うまい。)は言います。「この映画に出てくる夫婦は、いい夫婦ばかりだけど、実際の統計では、離婚が多い。それでも、私だって楽観的にすべてを楽しみたいときもあるわ。そう思わせる映画よ」と。同じ監督であるベニー・マーシャルとの離婚を経験したロブ・ライナーが「せめて、映画くらいは、厳しい現実を忘れて、いい夢を見て」と続けます。メイキング映像の、ノーラ・エフロンとロブ・ライナーのインタビューを見ていて感じるのは、決して両者の意見は、一致していないということです。ギャップがある。ノーラ・エフロンが、自分で書きながら、わかっていないことを、ロブ・ライナーとメグ・ライアンが補足しているんじゃないかという印象を持ちました。この映画のメグ・ライアンは、本当に、本当に冴えてる。ノーラ・エフロンは、「悲観的で神経症的な男性と対照的に描くために、女性の方は、とてもノーマルで楽観的な割り切りのいい人間にした」とメイキングで語り、そしてそれは、彼女の自己像の投影でもあるような気がします。しかし、メグ・ライアンは、「割り切っているように見えるだけ。自分が自分をコントロールしていると感じたいだけで、(失恋によって)実際には、頭の中は、ぐちゃぐちゃなの」と、自分の役柄について語ります。男と話しているときは、さっぱりとして、わりきりのいい表情なのに、1人のとき、ものすごく鬱っぽい表情をして、エアロビクスを踊っているシーンがあります。とても、孤独で、悲しいシーンです。それに、映画の中の彼女は、極端でエキセントリックなところがあって、見ていられない。エフロンという人は、全て見えるからこそ、誰かと通じ合える時間、つまりはロマンスというものがあると信じなければ、少なくとも信じるふりをしなければ、決して生きて行けない。彼女から、そういう、深い必然性も感じてしまいます。

エフロンもまた、ロブ・ライナーや主演男優のビリー・クリスタルの、「女性は決して、あるがままの自分を受け入れてくれることは、ないのではないか」という疑問をめぐる、空白を埋めてあげているのかもしれません。ある地点まで行けば、女性から、友情も愛情も得られる地点がある、弱みをみせても愛されるんだ、と。あの作品の持つ多幸感は、ある意味では、というか、最良の映画というのは、全部そんなものなのかもしれないけど、複数の人間の切実な何かが溶け合い、互いを補いあって、1人じゃいけない場所まで、全員を連れて行っている。まるで、それ自体が、本物のロマンスみたいに。だから、観客を幸せにできるんじゃないかと思います。

しかし、主人公二人の「友情」部分には、実際には、監督と主演男性の実際の生活でも親友同士の友情が投影されている。彼らは、お互いの離婚後、ああやって、ベッドの中から電話しあって、慰めあっていたのだ。って、この映画の男女間の友情部分って、実は、男同士の友情がモデルになっているんですね。皮肉だと思いませんか?ところで、あなたは、異性の親友がいますか?

 
それはともかく、ノーラ・エフロンは、『恋人たちの予感』で得た多幸感を元に、『めぐり逢えたら』(1993年)『ユー・ガッタ・メイル』(1998年)を世に送り出す。二作とも、古典的なメロドラマを現代のニューヨークに実現せしめていて素晴らしい。ロマンティックなものの、再生。(わたしは、今回、はじめて『めぐり逢えたら』のネタ元である、『めぐり逢い」(1957年、レオ・マッケリー監督)を見たのですが、映画の世界に入り込みすぎて数日間放心状態になりました。)ノーラ・エフロンのフィクションの作り方には、分厚さがあります。一つは、ハリウッド黄金期の映画の魅力、ウェルメイドな物語への強い指向性があるということです。両親は『ショウほどすてきな商売はない』(1955年、ウォルター・ラング監督)など50年代の傑作を夫婦で書いた脚本家フィービー・エフロンとヘンリー・エフロンですから、鋳型として頭にはいっていると言ってもいいと思います。もう一つは、徹底して怜悧なジャーナリストやコラムニストの視点。もう一つは、政治や経済に対する、ある種のカウンターとして、身近な物語や恋愛模様を描くことを、自覚的に選びとっているということです。

2017年に作られたスティーヴン・スピルバーグ監督の『ペンタゴン・ペーパーズ』は、ノーラ・エフロンに捧げられています。というのは、この映画は、エフロンの元夫カール・バーンスタインが記者をやっていた、ワシントン・ポスト紙の発行人のキャサリン・グラハムと、編集主幹のベン・ブラッドリーが、ニクソン政権のベトナム戦争をめぐる言論弾圧と戦う話です。そして、彼女と深い関わりのある役者(『シルクウッド』と『ハートバーン』『ジュリー&ジュリア』の主演メリル・ストリープ、『めぐり逢えたら』と『ユー・ガッタ・メイル』の主演トム・ハンクス)が、この映画の主演二人を演じています。この二人の男女の関係が、なんというか、とても、新鮮なのです。異質なのに、お互いを尊敬しあってて、信頼があって。ふたりのあいだに、清潔な風が吹いている。キャサリン・グラハムのキャラクターは、キリッとした感じの女性では全くなく、普通の中高年女性で、「どうしよう…」と、普通の人として、いちいち悩みながら、不正と戦いに行くというという話です。卑劣なものと闘う時に、闘う相手と同じようにマッチョにならず、誰も傷つけない、普段の自分である女性の物語。女性や、子供たちが、普通に、いきいきと、そのままで、画面の中を、ウロウロし、男性によって、尊厳を傷つけられたり、決してしない。政治とジャーナリズムの映画では、画期的です。あの、とびきり優秀なノーラが一生をかけて、それでも描きえなかったことを、若い脚本家リズ・ハンナと、スピルバーグがひきつぎ、豊かに完成させた、と言う風に、つい、とらえてしまいます。『ペンタゴン・ペーパーズ』と『大統領の陰謀』を比べてみると、やっと、やっと、ノーラ・エフロンが思い描く世界観にハリウッド映画が近づいたのだと感慨深いのです。

政治的なものと個人的なものが不自然に切り裂かれていない世界、男女の対等で密な素晴らしいパートナーシップ、ノーラ・エフロンが持っていたビジョンです。ノーラ・エフロンは、もう、いない。でも、私たちは、ノーラ・エフロンが切り開いた世界を引き継ぐことはできる。どんな時にも、ただの被害者には終わらず、相手だけでなく、自分自身をも突き離してみてみること。どんな醜い世界であろうと呪わず、矛盾それそのものをみようとすること。そこに、ささやかな明かりを灯そうとすること。すぐそばにいる子供達のすこやかな生活を守ること。大げさに構えず、ただ、暮すこと。日日すごすことの中で生じる、様々な相手との友情や愛情を信じること。

ただ、もし、ノーラエフロンが、キャサリン・グラハムを描いたら、しゃれているけど、毒舌で、もっと下世話で、冴えてて、ずっこけた、矛盾に満ちた中年女性が現れたんだろうと思いますが。と、ここまで書いて、『恋人たちの予感』を見直してみると、ハリーは、政治コンサルタントだし、サリーは、新聞記者であることに気づきます。『恋人たちの予感』は、主に、主人公二人に仕事のない休日を舞台としているわけなのですが、ウィークディの二人には、政治とジャーナリズムというパブリックな世界がある。それは描かれなかったけど、ほんとうは、サリーがキャサリン・グラハムで、ハリーは、ベン・ブラッドリーで、政治とジャーナリズムに命をかけながら、互いの友情を育んで、その上で、恋におちてもよかったのに。もっと違う、『恋人たちの予感』はありえたかも。ノーラ・エフロンは、政治とジャーナリズム、パブリックと個人の生活、男女間の性差、メディアやエンターティンメントの作り手とその受け手の間という、どちらがどちらを凌駕してしまっても、なんの意味もなくなってしまうもの、均衡を保つべきものを正確に見抜いていたと思います。その中で、もしも、この世にロマンスがあるのなら、美しいものが存在するのなら、(あるいは、エフロン自身もまた、そんなものが、本当にあるのか、確信はもてなかったのかもしれないけども…)こういうものなんじゃないか、いや、こうあってほしいという意味で『恋人たちの予感』のシナリオを、1989年に書いたのではないか、という気がするのです。(終)

木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川大映に勤務の後、様々な媒体に映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(ドキュメンタリー)。

『恋人たちの予感』予告編

When Harry Met Sally

www.youtube.com

監督:ロブ・ライナー
脚本:ノーラ・エフロン
音楽:マーク・シャイマン
   ハリー・コニック・Jr
出演:メグ・ライアン
   ビリー・クリスタル
   キャリー・フィッシャー