FRAME #3:
時間の地層

「アイリッシュマン」(M.スコセッシ)が、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシの若返りと時代ごとの加齢を、CGの”De-Aging Process”により自在にコントロールしてみせたことが話題になっている。一方、我が国では「男はつらいよ お帰り 寅さん」(山田洋次監督)が公開され、さくら(倍賞千恵子)や博(前田吟)の顔を見るだけで、第1作から50年という月日が経ったという現実が浮き出ており、柴又・寅さん一家の半世紀に渡るドキュメントという映画史上稀にみる現象が起きた。この二作に通じるのは、スクリーン上の人間の身体に現れる時間の経過を、映画という表層芸術がどう扱うのかという命題である。

 

 この命題への本質的なアプローチを試みた作品があるので、取り上げてみたい。諏訪敦彦監督の新作「風の電話」である。  

ひとりの人間は、ただ現在を生きるしかない。

息を吸い、息を吐く。その繰り返しさえ逆行は許されず、ただただ前に進むしかない。目の前にある現在を一つ一つ踏みしめるように、繰り返し空気を肺へ出し入れし、眼差しを前方に向け、歩むしかない。

「風の電話」は、この現在を生きる過酷さを描いた。

東日本大震災後、多くの被災者が感じてきたのは、飛ぶように進んでゆく復興のペースに自分が取り残されるように感じる疎外感だった。

時間を堰き止めることはできない。

大事な愛する家族を失い、あの時で時間が止まっている、止まっていたい、と願う人々の思いをよそに、東北の再建は進んでゆく。

時間の流れは渓流のようにどんどん押し寄せてくる。そこで止まっていようとするのは、無理なこと。踏ん張って立ち止まろうとしても、徐々に押し流される。どんなに上流で留まりたいと思っても、人は激しい流れに身を任さざるを得ず、いつの間にか濁流に巻き込まれ、水上にはっと自身を発見することになる。過去という岩場にしがみついたとしても、いずれ激流に飲み込まれ、前に進まざるを得ない。そんな時の流れに身を委ねることの痛みが、あの津波で両親と弟を失った少女・ハル(モトーラ世理奈)の身体を通して描かれる。

「風の電話」(諏訪敦彦監督, 1/24公開) ©2020 映画「風の電話」製作委員会

自分の中で停滞してしまった時間をどうすることもできないハルは、叔母に預けられ震災後の8年を生きた広島を離れ、両親と死に別れた故郷・大槌町に向かう。その道程で出逢うのも、大事な人を失った過去を引きずり、その空虚な現在に抗おうとしている人々である。妻と子どもと別れ、記憶を失いつつある母親と暮らす中年男(三浦友和)、入国管理局に夫を拘束され、祖国にも帰れず、埼玉で時間が止まったまま苦しんでるクルド人コミュニティの人々、福島で妻と子どもを亡くし、自宅から避難して車中生活をしている元原発作業員(西島秀俊)など。周りは飛ぶように時間が過ぎゆく中、今を生きることの残酷さを寡黙に耐え忍んでいる人間たちとハルは交流してゆく。

 こうしてこの映画=ハルの旅は、311により時間が塞き止められ、厚く積もった個人の後悔や呵責、寂寥感の堆積物、その地層のようなものをつぶさに記録してゆくドキュメントと化す。

震災後の日本で、この「時間の地層」に正面から取り組んだ作家は、諏訪敦彦が初めてではないだろうか。ドキュメンタリーの映像記録は、時間の変化に寄り添ってみせることはできる。しかし、このフィクションは、現在のみを見つめることで、個人の心の中にせき止められた時間の地層の“厚み“を照射するという、稀有なアプローチに挑んだ。まったく異なるが、ツァイ・ミンリャン監督の傑作短編「walker」(2012)を思い出した。異なる時の流れとスピードの異なる運動を、映像に昇華した点において、二人の作家は交錯している…。

「walker」(ツァイ・ミンリャン監督、2012)

ハルは旅の最後、ついに大槌町に辿り着く。

すっかり復興を遂げた大槌町の町並み。彼女にとり時間が塞き止められ、最も堆積している場所は、この町並みのはずれに残された自宅跡である。そこにはコンクリートの土台だけが残り、まるで津波が引いた直後のように、(しかしおそらくは単に雨後だったのだろう)水溜りが広がっていた。家族との時間が長く蓄積されたその場所でハルにできることといえば、その場で横になり、全身でその場所に留まること。どんどん流れゆく現在において、彼女に出来るのはせいぜいそれぐらいのことだ。ハルはそこで「ただいま」と繰り返し言ってみるが、返答がないのは誰もが分かっている。しかし、返答をして当然の人々の不在が、この連呼される帰宅を意味する言葉によって浮上してくる。ハルには、過去に戻ることも、現在に留まり続けることも出来ないのだ。

時間の経過は、どうしても塞き止めることができないのか?

ハルの心の叫びに対して、諏訪敦彦は魅惑的な答えをいくつか用意している。(ネタはバラさないでおこう)それらは、まさに映画だからこそできること。中でも「風の電話」はまさに、時の流れの“塞き止め装置”として機能する。過酷な時間の速度差に、どうにも立ち行かなくなった人間たちが、流れをいったん塞き止め、逆流し、渦中に深く身を沈みこませ、いよいよその流れを前向きにする準備をさせてくれる時流の停止装置が、映画の最後にいよいよ登場する。

モトーラ世理奈は、存在自体が独特の時間を内包しており、この表面的にはいたってふつうだが観念的には大胆で深遠な傑作を可能としているといっても良い。過酷な現在を拒み続けた彼女が、<いま>を生きる意味を見出だすドキュメンタリーとして、この映画のラストが結実している。

WRITER:

舩橋淳

映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。日本人監督としてポルトガル・アメリカとの初の国際共同制作『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演・柄本祐、アナ・モレイラ)は、2018年度キネマ旬報主演男優賞(柄本祐)に輝く。現在、日本のジェンダーバランスを問い直す新作「ささいなこだわり」を制作中。

オフィシャルサイト:http://www.atsushifunahashi.com

※カバー写真 アッバス・キアロスタミ監督の遺作『24フレーム』より