映画のクライマックスを占める恐るべき客観性
だが『アイリッシュマン』は一方で、そんな主観ショットのマスターだったこれまでのスコセッシの映画とはかなり違ったスタイルの作品でもある。
冒頭の大移動ショットがかつてのステディカムを駆使した流麗なキャメラワークで観客を魅了したのとは相当に異なった、幽霊のような撮り方であることに始まり、登場人物の視線に密着しそこにキャメラが乗り移ったような凝った主観ショットを、スコセッシはこの映画では極めて抑制的にしか使っていない。映画の構造としては主人公の主観の限界を明確にその骨格にしていて、ほとんどのシーンがフランクが実際に主観的に体験したことであるにも関わらず、だ。
映像のスタイルとして、『アイリッシュマン』はかつてなくシンプルなスコセッシ映画だ。キャメラワークの力技のような大胆な映像の運動も、音楽性に満ちた編集の超絶技巧も、あからさまな部分では一切見当たらない。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』以来スコセッシと組み続けているロドリゴ・プリエトの絵作りは、深い陰影が印象的で色調は抑え気味だ。その代わり、フィックスショットとシンプルなパンが基調となるその構図のひとつひとつが厳格な様式性を持ち、映像が過剰に自己主張することなく静かに、しかしがっしりとした眼差しで、物事を映し出して行く。
特に1975年のデトロイトへの長いドライブが終着点に辿り着いてからのほとんど全てのショットが客観ショットで、スコセッシ映画だというのに主観ショットがまったくなくなる。
フランクもラッセルも歳をとり、いつの間にかディエイジング効果もなくなっている。
避けられない運命がはっきり定まったときに、2人がホテルで朝食を取る。ほぼ実年齢通りのジョー・ペシの顔を窓から差し込む朝の光が照らし、色眼鏡の奥に左目が浮かび上がる。この時の光の残酷さと、ペシの顔に刻まれた皺の深さ、その表情が、強烈に印象的だ。
ここから先、ほとんどの観客が史実としてホッファがどうなったのかを知っていて、さらにここに到るまで緻密に構築されて来たこの社会の婉曲話法の恣意的記号によるコミュニケーションのロジックの暗号解読的なものの見方を、この時点で観客がほぼ完全に共有しているからこそ、もはや主観ショットは必要がなくなるのだ。我々は直接の説明が一切なくとも、裏でどのような決定がなされ、彼らが何をしなければならないのかを、完全に理解してしまっている。
しかし、にも関わらず、ここでは映画がどう終わるのかがさっぱり読めないままだ。そして映画のトーンがこの朝食シーンを転機に、明らかに変わる。
ラスト30分の引き伸ばされた時間は、もはや時間芸術としての映画を超えている
ここから先、一切主観ショットがなく、キャメラ移動も極めて少なく、クロースアップもほとんどない、恐ろしく淡々としたショットの連続の、まったく静謐とさえ言っていいクライマックスこそが、『アイリッシュマン』のもっともラディカルで、そしてもっとも凄まじいところだ。
恐ろしく淡々として、一見なにも起こりそうもないほど静かで平凡ですらあり、それも一見平凡なショットがあえて繰り返しすらされるこの引き延ばされた時間こそ、観客にとってはほとんど見るに絶えないほどの息苦しさに満ちた、強烈にエモーショナルな時間となる。編集のセルマ・スクーンメイカーに確認したところでは30分弱しかないはずが、3時間を超える上映時間の1時間以上を占めているかのような錯覚にさえ、我々は囚われてしまう。
なにが起こるのか分かっているからこその緊張感は、ヒッチコックの定義した「サスペンス」そのものと言ってしまえばそれまでだ。だがヒッチコックだったらここで主観ショットを多用して、観客の焦りをさらに徹底して引き出したはずだ。しかしスコセッシはあえて主観ショットをまったく排除し、非サスペンス的な、極端なまでに淡々とした演出のシーンをぶつけて来るのが、真に恐ろしい。こうして映画の時間展開は恣意的に操作され、歪められ、なにが起こるのか分かっているはずだからこそ、重苦しく引き延ばされた、時間を超えた時間がここにある。それはジミー・ホッファにとっては無限大に引き延ばされた死の瞬間でもあり(現に公式には生死不明・行方不明のままだ)、映画の全体構成の中で引き延ばされた生と死の狭間の、引き延ばされた宙づりの時間、幽霊の時間だ。
この映画の世界観の全体が、実は生身の人間が生きていた実際の過去の再現ではなく、幽霊たちが彷徨うアメリカの過去の亡霊でもあったのだ。そしてその亡霊のアメリカは、ジミー・ホッファが誰なのかをほとんどの人が忘れてしまった現代のアメリカにも、未だに取り憑き続けたままだ。
これが生身の人間ではなく亡霊の住まう映画世界であることは、新たな登場人物が紹介される度に既に示唆されても来ていた。誰かの初登場シーンの度に映像がストップモーションになり、名前が紹介されるだけでなく、何年何月何日にどの都市で顔を3発撃たれて死亡とか、どこそこで爆死とか、その死についての情報が最初から示される。つまりほとんど全員が既に死んだ人間、それも残虐に殺された者たちなのだ。その意味で『アイリッシュマン』は『沈黙 サイレンス』のラストの十字架が示していた以上に、亡霊、幽霊、そして死後もなお残り続け引き継がれる亡霊的な意思、その魂の、鎮魂の映画でもある。
『アイリッシュマン』に取り掛かるのと前後して、スコセッシは話題のバットマンのスピンオフ『ジョーカー』の監督をオファーされ、断っている。普通の観客には『タクシードライバー』を明らかに意識したように見えるこの映画だが、スコセッシにとっては決定的になにかが違い、自分には絶対に監督できないものだという確信があったのだろう。この一件については本人が、マーヴェル・コミックの映画化は「もはや映画ではない」と断言してしまい、ひどく物議を醸してもいる。
この発言は、映画が映画でなくなってしまう危機感が、スコセッシにとってとりわけ強い脅威となって迫っているものであることを如実に示している。そして確かに、スコセッシや、そして我々観客が「これが映画だ」と思って来た映画のあり方は今日、あらゆる局面で危機に瀕している。ネットフリックスがあったからこそようやく実現できた『アイリッシュマン』だが、しかしネットフリックスのような配信事業には一方で、その「映画の死」をさらに早めてしまう危険性もある。実際にこの作品も今月27日からネットフリックスで配信されるのだが、パソコンやタブレット、スマホで見られる映画かといえば、それはまったく違う。映画館で見なければ、特にクライマックスにおけるスコセッシの時間演出の魔術は、その意味すら伝わらないだろう。
その意味で、『アイリッシュマン』もまたもはや、これは映画ではないのかも知れない。マーヴェル・コミックの映画化が「もはや映画ではない」のとはまったく違った、正反対のベクトルで。
つまりこれは、かつてあった「ギャング映画」という娯楽ジャンルが死んでしまっても(『沈黙 サイレンス』のラストの十字架のように)頑固に地上に残り続けた死者の意思=亡霊が再び存在と魂を与えられて甦ると同時に、「映画そのものの死」の後の時代にふさわしい別のフォルムに変貌した新しいなにかであり、そしてこの映画でついに、スコセッシは我々が「これが映画だ」と思って来た映像と時間の体験を、超越してしまっているのではないか?
再び絵画に例えていうのなら、パブロ・ピカソがキュビズム絵画を始めた時に、多くの人はそれを見て「こんなものはもはや絵ではない」と一瞬は思ったことだろう。いやそこにこそが絵画の本質があるという理解はすぐに広まったものの、そんなピカソの表現に馴染んだ人達ですら、1937年に『ゲルニカ』を目にした時、「これはもはや絵画ではない」と思わず叫んでしまったのではないか? 『ゲルニカ』が本当に戦争告発の「絵画」なのか、それとも残虐な戦争でこの世の命を半ばで奪われた人々の亡霊がピカソの絵筆を通して甦ったものなか、これを本当にただ「絵画」と呼んでいいのかは、実は今でもよく解らない問題でもある。『アイリッシュマン』もまた、そのような意味において、もはや映画ではない。それを超えた別のなにかなのかも知れない。
『アイリッシュマン』予告編
【STORY】
20世紀の名立たる悪人たちと関係していた元軍人の暗殺者フランク・シーラン。彼の視点から描かれるのは、今なお未解決とされる労働組合指導者ジミー・ホッファの失踪事件。巨大な組織犯罪と、その背後でうごめく権力争いや政権との繋がり…。第二次世界大戦後のアメリカの闇の歴史を、数十年にわたって紐解いていく。
限定公開中・11月27日より配信開始
公式サイト・配信ページ:https://www.netflix.com/jp/title/80175798
上映館情報 https://movie.jorudan.co.jp/cinema/38674/ (2019年11月28日まで)
スタッフ・キャスト
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:スティーヴン・ゼイリアン
撮影:ロドリゴ・プリエト
美術:ボブ・ショウ
衣装:サンディ・パウエル、クリストファー・ピーターソン
音楽:ロビー・ロバートソン
編集:セルマ・スクーンメイカー
製作:マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロ
出演:ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、ハーヴェイ・カイテル、レイ・ロマノ、ボビー・カナヴェイル、アンナ・パキン、スティーヴン・グレアム、ステファニー・カーツバ、キャスリン・ナルドゥッチ、ウェルカー・ホワイト、ジェシー・プレモンス、ジャック・ヒューストン、ドメニク・ランバルドッツィ、ルイス・キャンセルミ、ポール・ハーマン、ゲイリー・バサラ、バマリン・アイルランド、セバスチャン・マニスカルコ、スティーヴン・ヴァン・ザント
アメリカ映画/2019年/カラー/1:1.85/209分