冒頭から、スコセッシ演出のトレードマークのひとつの長大な移動ショットで、観客の視点が空間を通り抜けることで映画の世界観を体感する。『グッドフェローズ』では中盤に、『エイジ・オブ・イノセンス』と『カジノ』では映画が始まってまもなくあったのと同じに思える演出が、今回はファースト・ショットだ。

しかし、なにかが違う。『グッドフェローズ』ならレイ・リオッタとロレイン・ブラッコを、『カジノ』なら現金の入ったバッグをダイナミックなキャメラ運動が追っていたのが、今回は静かな病院の廊下を、キャメラはまるで幽霊の歩みのように進む。まだ歩ける老人の入院患者の亡霊のような動き以外に、生身の、活きた運動も、その躍動もほとんどない。

『グッドフェローズ』ならコパカバーナ・クラブの裏口から活気溢れる台所を通り抜けて満席のフロアの舞台すぐそばのテーブルに至り、『エイジ・オブ・イノセンス』なら絵画と花が所狭しと飾られたいくつもの客間を通り抜けながらその絵と社交を楽しむ招待客を交互に写し出し、『カジノ』なら書き入れ時のゲーム・フロアと現金集計室、つまりカジノの裏と表の金儲けの本質を往復していた、そんな情報密度の濃さ、言い換えるなら説明的な要素も、ここにはない。

よく見るとキャメラの動きそのものが、かつての流れるようなスムースさではなく、微妙に上下に震えていたりする。ステディカムではなくあえて手持ちキャメラなのか? 車椅子の老人の背中に歩み寄って行き、前に回り込む。老人は誰かに話すのでもなく、ただ語り始める。

普通の人々、お隣のマフィアのおじさん

老人フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)の語りは1975年、親しい友人らしきラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)とお互いの妻と共にフィラデルフィアからデトロイトに、飛行機でなく車で向かう長いドライブを回想し、その中でさらに2人が出会った頃の、1950年代が回想される。

普通なら「入れ子構造の回想」になるはずが、「入れ子」と言うには双方の要素があまりに複雑に絡み合うことで、スコセッシの構成の意図が浮かび上がる。映画は時系列に沿って物語を伝えるようには進行しないし、だから回想構造も複数の時間軸を階層的に並列させるのではなく、異なった時間軸で起こる雑多なディテールの出来事を、そこに共通する本質を手がかりにパッチワークのように縫い合わせ、多様な時間軸を並列的に編み込んでいくことで、ある特殊な世界のテクスチャーそのものを浮かび上がらせる。それは回想する晩年のフランクが現在いる老人病棟とは別世界の、しかしそれでも明らかに、同じ「アメリカ」の一部だ。

もちろん『アイリッシュマン』はジャンル的には1995年の『カジノ』以来久々の、スコセッシの本格マフィア映画で、デ・ニーロ&ペシと言うスコセッシ映画の代名詞コンビも『カジノ』以来24年ぶり、その世界観のテクスチャーとはつまり、アメリカ組織犯罪の裏社会の社会構造のあり方そのものだ。デ・ニーロもペシも、そしてスコセッシ自身がイタリア系マフィアの「自治」状態だったNYリトルイタリーで生まれ育ち、マフィアが普通の隣人としてそこにいる空気感は、すでにスコセッシの第2作でハーヴェイ・カイテル(今回はアンジェロ・ブルーノ役でゲスト出演)とデ・ニーロが主演した、自伝性の強い『ミーン・ストリート』から一貫しているのは言うまでもない。

『グッドフェローズ』がアメリカのギャング映画ジャンルを根底から改革したのもそうした authenticityの強靭さにあった。分かり易く図式化されたフィクション構造ではなく、実際にそうしたコミュニティの中で人間がどういうロジックで動き、情報が直接ではなく言葉の端々や身振り、眼差しなどの、一連の恣意的な記号によって伝達され、集団とその権力構造がそうした恣意的な記号を通して自己の意思を表明し、その命令がどう執行されるのかの連鎖のメカニズムを通して、そうした暗号的な行動原理が染み付いたマフィアの中の人間たちの価値観を映画的に再構築することである。スコセッシはマフィアを安易に断罪することなく、むしろ一見軽快で魅力的に、そして緻密かつ忠実に見せることで、ギャング映画の現実逃避的なファンタジーとしての娯楽性と、現実社会の矛盾や不満の反映としてのリアリズム性の関係を、この傑作で再定義して見せていた。

フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)、ラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)、フランクの娘ペギー(ルーシー・ガリーナ)
©︎Netflix

「一連の恣意的な記号 series of arbitrary signs」でこそ動く社会の構造

「一連の恣意的な記号 series of arbitrary signs」というのは『グッドフェローズ』ではなく次の『エイジ・オブ・イノセンス』のナレーションで、19世紀ニューヨーク社交界の慣習の説明として出て来る言葉だ。マフィア映画のプロで実際にその社会に育ち労働者階級、という先入観からスコセッシがこの映画を発表した時には偏見でほとんど理解されなかったが、恐らくは映画形式としてはもっとも完成されたフォルムを持った最高傑作で、監督自身がもっとも好きで自分の個人的感覚にももっとも近いという。

19世紀の社交界の人々の行動パターンはその実、20世紀の移民コミュニティの組織犯罪とほとんど変わらない。違いは19世紀なら手紙や電報の行間を「察する」のに対し、『グッドフェローズ』の20世紀には証拠が残らない電話になり、『カジノ』ではその電話でも盗聴されるので遠回しの婉曲話法が発達する。普通なら当事者たちでないと「察し」られないはずのその含意と、そこに潜む暴力性を、スコセッシは実際の殺人などのアクション以上に適確かつ強烈に見せるという新たな境地に、この双生児のような、あるいはコインの裏表か変奏曲のような2本の映画で到達していた。

20世紀のアメリカ組織犯罪のメンバーたちがこうして多用するようになった婉曲話法は、かつての上流階級が「上品さ」を志向して「エチケット」として多用したものでもある。『エイジ・オブ・イノセンス』ではその婉曲さこそがかえって発言の真意の残酷さと暴力性を際立たせていた。この作品は先述の通り映画界ではほとんど理解されなかったが、舞台となる時代の専門研究者の歴史学者や風俗史化、原作者イディス・ウォートンの研究者など19世紀英語文学の専門家を集めた試写では、いささか居心地の悪い爆笑の渦だったと言う。知識として彼らが知り尽くしていた当時の風俗風習、その仕草や言葉のひとつひとつに込められた含意を、映像として的確に演出・整理してスコセッシ映画ならではのシャープなクロースアップで示されると、上品さを志向していたはずのものが返ってそのグロテスクな悪意や攻撃性を際立たせ、そこが痛烈なブラック・ユーモアになっているのだ。

『アイリッシュマン』の特に前半でも『エイジ・オブ・イノセンス』に歴史研究者たちが爆笑したのと同様の、「わかる人にはわかる」強烈なブラックユーモアがあり、その笑いはしかもこれが犯罪映画である以上は、直接の暴力の行使と表裏一体になっている。

だいたい、この映画の原作の題名で、映画自体の副題にもなっているものが、こうした痛烈にブラックな婉曲話法のユーモアだ。「I Heard You Paint Houses」、「お前は家のペンキを塗るそうだな」、ただしそのペンキの色は一色だけ、血の赤だ。あるいはイントネーションを変えて「YOU」を強調すると、「I heard YOU paint houses」は「お前が家にペンキを塗るのを聴いたぞ」と言う意味にもなる。映画が始まってまもなく、この言葉が老人フランクの回想の言葉と黒地に白文字の挿入字幕で現れると、文字通り真っ赤なpaint、というか鮮血が、家(house)の白い壁にパッと広がり、「お前がペンキを塗る」その音、つまり銃声が響く。

絵画に例えるなら線を引くのではなく筆のタッチで絵の具を置いていくような映画

50年代から始まる回想は時代を追って展開しつつ1975年の自動車での旅へと近づいていき、二つの時間軸が一致した瞬間に、この自動車旅行がデトロイトで行われる結婚式に行くためだったはずが、実はまったく別の目的があったことに、我々は唐突に気づかされる。

唐突さは、『アイリッシュマン』でしばしば繰り返される叙述テクニックだ。しかもスコセッシは凡百の映画監督なら短いクロースアップの挿入で強調しそうなところを、長めのワイドショットのなかで唐突な何かを起こし続ける。例えば裁判の被告席に座るジミー・ホッファ(アル・パチーノ)が突然背後から肩を撃たれる瞬間や、娘が近所の食料品店の店主に小突かれたと聞いたフランクが、その店に乗り込むシーンだ。

後者のシーンには唐突な暴力の暴発とはまた別の、唐突さがある。この映画は主演の三人と出番は少ないが重要な脇役のハーヴェイ・カイテルの年齢が、演じている役柄の設定上の年齢よりかなり高く、そのため特に50年代のシーンを中心に「ディエイジング」というILMが開発した新しい技術が使われていることも話題だ。レンズが三つある特殊キャメラを使い、その映像情報を元にデジタル的に顔の皺などを減らしたり体型を修正して若く見せる仕掛けで、確かに1975年の自動車旅行のシーンから1950年代に同じ道路でトラックを運転しているフランクにカットして回想に入る瞬間では「若返り」も印象付けられる。

もっとも、その効果は事前に聞いていたほど極端なものではなく不自然さも特にないし、一方でデ・ニーロ、ペシ、パチーノ以外の俳優も、彼らほどではないにしても役柄の実年齢よりは歳上の配役が多く、つまり年齢的な対比の違和感がないように配慮もされている。いったんフランクの回想の世界観に入り込んでしまうと、ほとんどの観客は俳優の実年齢のことなど気にしなくなるはずだ。

ところが唐突に、普段は組織犯罪の一員であることを直接には家族に見せないフランクが一度だけ娘の前でその暴力性を露わにする食料品店前のシーンでは、暴力が唐突である以上に、それがワイドショットの長回しワンテイクであることで、別のことが唐突に観客に印象付けられる。30代後半から40代という設定上の年齢をなんとなく受け入れていたのが突然、ロバート・デ・ニーロが70代であることを唐突に突きつけられる。歩き方がやはりどう見ても老人のそれであり、店主を蹴飛ばすその蹴り方も、『グッドフェローズ』でジョー・ペシと共にビリー・バッツ(フランク・ヴィンセント)をメッタ蹴りにするシーンと基本同じアクションだからこそ、もう俳優デ・ニーロはああいう蹴り方はできない年齢になっていると、気づかされるのだ。

撮影現場でキャメラの前に作られた世界を現実の世界であるかのように受け入れることで成立する「フィクション映画」の約束ごとの基本構造を、このシーンであえて壊すのも唐突であり、そして何よりもこの瞬間、我々はそれまでいかにも自信に満ちて行動しているように見えたフランクが、あるいはこの映画のデ・ニーロが、幽霊のように不確かな、儚く移ろう存在であることに気づかされる。

こうして何重もの唐突さをこのシーンに組み込むことで、スコセッシは『アイリッシュマン』が『グッドフェローズ』や『カジノ』とはまったく異なったテーマの映画であり、それらの旧作で鍛えた演出力と自ら開拓した映画話法を存分に駆使しながらも、映画としての構造がまったく違うことも、ここで、唐突に、明示している。

ディエイジング(若見せCGI)を用いた真の理由

そのまったく異なったテーマとは、時の流れとその中の人間存在の不確かさ、我々がいつでも唐突に命を落としたり、唐突な出来事で自らの存在の根幹を奪われて別人になってしまうような儚い存在でしかないこと、そして老いと、人間が必ず死んでしまうものでしかないことだ。

この意味で『アイリッシュマン』は実はギャング映画でも、マフィア映画でもない。『グッドフェローズ』や『カジノ』がジャンル映画であることに自覚的で、そのジャンルの新しい地平を切り開く野心を持っていたのとも対照的だ。これは前作の『沈黙 サイレンス』以上にパーソナルな作品であり、生涯を「アメリカ」そして「アメリカ映画」と格闘することに費やし、今や老境に達した自分に自覚的な映画作家がたどり着いた「人間とは何か」を巡る哲学的考察である。

スコセッシはかつて一度だけ、似通ったテーマに取り組んだことがある。「ボクシング映画」と誤解されがちな1980年の傑作『レイジング・ブル』、ジョー・ペシがデ・ニーロの弟役で初めてコンビを組んだ作品でもある。

これも『アイリッシュマン』と同様にデ・ニーロが原作を読み、スコセッシに映画化を頼もうとした企画だった。ボクシングにまったく興味がなかったので最初はまったく乗り気でなかったスコセッシが考えを変えたのは、コカインの過剰摂取で呼吸困難に陥ってもうすぐで命を落としそうになった直後の、入院中のことだった。本人によれば自分自身が気づかぬうちに陥っていた自己破壊的な衝動とエゴの暴走を自覚させられ、主人公ジェイク・ラ・モッタが自分自身だと気づいたから、だという。

その意味では、『アイリッシュマン』のフランクは、76才になったスコセッシにとっての「自分自身」なのかも知れないし、そう考えて見ると『グッドフェローズ』と『カジノ』では主人公の妻たち(ロレイン・ブラッコ、シャロン・ストーン)との関係が重要だったのに対し、『アイリッシュマン』では娘ペギー(子供時代はルーシー・ガリーナ、成人後は『ピアノ・レッスン』の天才子役だったアンナ・パキンが演じる)との関係が極めて重要であることの意味が浮かび上がる。スコセッシ自身娘が三人いて、この映画の製作準備や撮影が進んでいた段階で、末娘のフランチェスカは10代後半の難しい時期だった。彼女の母親である妻ヘレンは、長らくパーキンソン病で闘病中だ。70代でも現役の映画監督として、プロデューサーとして、しばしば意に沿わない企画でも働き続ける背景には、この妻と娘と家族のため、という意識もあることは本人が率直に語っているが、巨額なギャラを稼ぎ続ける超有名人であることが「家族のため」と言われても、10代の娘なら納得できないところは確実にあるだろう。「父親が有名人」は独立心と自我・個性が強いほど、むしろ反発を覚えさえするのが、当然の心理でもある。

『グッドフェローズ』でもレイ・リオッタ演ずる主人公の言い訳は「みんな家族のために少しでも稼ごうとしている」だった。『アイリッシュマン』のフランクは、ヒットマンとしての仕事を家族に見せないようにしているつもりだが、ペギーが子供の頃から、夜中に「仕事」とだけ言って出かけていく父をじっと見つめているショットが、絵画である色面にその補色の絵の具を一筆だけ塗ると画面が引き締まるような、まさにスコセッシがいう筆触(brushstroke)のように、それも不意に、しかし必ず全体の構図・構成上もっとも適格な場所に挿入される。

ちなみに今回、フランチェスカ・スコセッシは初めて父の仕事の現場に、プロダクション・アシスタントとして参加している。

マーティン・スコセッシ本人の現在が率直に反映された作品

いやそれにしても、強烈な上昇志向でチャンピオンにまで上り詰め、その途端に過食と疑心暗鬼、嫉妬の自己崩壊に陥るジェイク・ラ・モッタが、70年代に『タクシードライバー』で一気にもっとも注目される若手監督に上り詰めた後のスコセッシの自画像になっているというのは分かるが、『アイリッシュマン』のフランクの立場は結局のところ、ジョー・ペシ演ずる裏社会のボス、ラッセル(そのさらに上司がハーヴェイ・カイテル演ずるアンジェロ・ブルーノ)と、かつてアメリカでもっとも力を持った労働組合だった運輸労働者組合(チームスターユニオン)の委員長ジミー・ホッファ(アル・パチーノ)に仕える立場だ。

この2人の大物の双方とも、フランクは一見対等にも見える信頼関係を得て、それなりの地位に到達するとは言っても、実際にはこの双方の板挟みになって振り回される立場でしかない。それが現代アメリカ映画でもっとも尊敬される監督の1人で、本人もスター扱いの有名人となったスコセッシの自画像に近いと言えるのだろうか?普通に考えれば、例えばジミー・ホッファの方がスコセッシ本人の社会的立場に近いように思える。

だが恐らく、スコセッシ本人が考えている自分自身の立場は、決してそんなに有力な権力者と重なるものではない。例えば『アイリッシュマン』自体、ディエイジング技術の実験が必要になったのは、デ・ニーロとスコセッシがこの企画に取り組み、デ・ニーロがパチーノに声をかけてパチーノがホッファ役を快諾してから9年もかかってしまったからだ。パチーノが最初に撮影したシーンはテレビでケネディの大統領選出を見ているところで、ケネディを「金持ちのボンボン」と断じて嫌うホッファが怒って立ち上がるとき、役柄のホッファは当時49才だがパチーノは78才で、パチーノの演技に感服したスコセッシがロングショットも撮ろうとした時にスタッフが反対した、という逸話まである。とても49才に見える立ち上がり方にはならない、というのだ。

ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノの共演で監督がスコセッシ、それでも大手スタジオなど既存の映画会社はどこも興味を示さず、ネットフリックスが名乗りを挙げてやっと撮ることができたのが『アイリッシュマン』だった。前作の『沈黙 サイレンス』に至っては2002年に完成した『ギャング・オブ・ニューヨーク』の次の作品になるはずだったのが10数年もかかってしまい、2009年にはいったん企画そのものが潰れている(この時には主演はベニチオ・デル・トロの予定だった)し、2002年から2009年の間のスコセッシ作品は基本的に全て、『沈黙』を撮るためのバーターを条件に引き受けさせられた映画だった。アカデミー賞を取った『ディパーテッド』に至っては、記者会見で思わず「こんな映画はやりたくなかったし、この映画を作っている間中、自己嫌悪に襲われた」とまで口走ってしまったこともある。

マフィアと労働組合でかなりの地位にまで登りつめたとはいえ、所詮は2人のボスと二つの組織の間で右往左往するだけのフランクの立場は、案外とスコセッシ自身の実感に近いのかも知れない。そしてそれ以上に、フランクのような立場は我々のほとんどにとって、現代の社会でなんとか成功し出世できても、せいぜいここまでだろう、という程度の地位そのものでもある。彼がヒットマンになったこと自体、たまたまそうなってしまった立場でしかない。

第二次大戦の従軍体験があるフランクは、命じられた殺人を「戦争と同じだ」と思って自分を納得させている。戦争に参加すれば人を殺す理由は「命令されたから」に行き着くが、フランクが体験したように、実際には直接には命令されなくてもやらなければ行けなかった汚い殺人もあった。

ストーリーの説明を拒絶する歴史映画

『グッドフェローズ』と『カジノ』がそうであったように、『アイリッシュマン』も実話の、かつてマフィアの世界にいた人間の告白に基づく映画化だ。その背景のスケールは遥かに大きい。映画の最後の方で、現代の、車椅子のフランクが若い看護婦に言うように、ジミー・ホッファはかつてアメリカで知らない者がいない大物だった。

全米運輸業者組合の委員長。チームスターユニオン、トラック運転手の組合で、かつてはホッファがストを命じればアメリカ中の流通が全て滞ると言われ、大統領選挙すら左右できるほどの力を持っていた。暗黒街との関係も噂され、同じく暗黒街との繋がりが噂されたケネディ家(ジョン・F・ケネディの父ジョセフが巨万の富を築いたのは、禁酒法時代の密造酒ビジネスの成功も大きかった)との因縁も深かった。

ジェームズ・R・ホッファは1975年にデトロイトの別荘から姿を消し、現在も行方不明のままだ。ホッファの存在そのものとこの事件は、ほとんどの人が忘れてしまったとしても、今もなお現代アメリカ史の亡霊であり続けている。

議会公聴会で司法長官ロバート・ケネディ(ジャック・ヒューストン)と対峙するジェームズ・ホッファ(アル・パチーノ)©︎Netflix

『アイリッシュマン』の原作『I Heard You Paint Houses』はこの事件に関わったと自称する元ヒットマンの老人フランク・シーランの告白に基づくノンフィクションで、シーランが彼なりの「事件の真相」を語っているが、事実・真相だと証明されているわけではない。シーランによればケネディ暗殺事件には、ケネディがカストロ革命でマフィアが失ったキューバの利権(『ゴッドファーザー PART II』のモデルになった史実)を取り戻してくれると期待して支援したマフィアが関わっていて、ボビー・ケネディの暗殺にも同様の背景がある、ということなのだが、これも真相が証明されたわけではなく、二人の暗殺事件は(忘れられたホッファ事件と異なり顕在的な)現代アメリカが抱え続けるトラウマにして過去のアメリカの亡霊として、現代のアメリカ社会に取り憑き続けている。

なお実際にホッファ失踪事件にマフィアが関わっていたかどうかはともかく、ホッファが消えたことはマフィアにとって確かに好都合ではあった。ホッファが組合で成功した理由のひとつは、トラック運転手たちのための年金保険基金を作ったことで多くの支持を集めたからなのだが、この膨大な年金を原資とする資金がギャンブルの街ラスヴェガスの建築に投資され(『ゴッドファーザー』の後半のモデル)、ホッファが消えたことでマフィアはこの資金とラスベガスの収益の双方を完全に掌握することになる(『カジノ』で描かれたのはその時代の話)。

陰謀史観の「真相」ではなく、不可解で複雑な世界の中で我々が生きる「真実」

フランク・シーランの告白をそのまま映画化すれば、60〜70年代アメリカ政治の壮大な裏面史の映画にもなったかも知れないし、多くの観客やプロデューサーもそれを期待しただろう。だが一方で、そうした方針で映画化されたなら、『アイリッシュマン』はオリヴァー・ストーンの『JFK』のような陰謀論映画になってしまっていただろう。ちなみに『JFK』が依拠しているジム・ギャリソン検事のケネディ暗殺に関する仮説は、現代の研究ではほぼ全否定されている。ギャリソンが不自然だと主張した「魔法の弾丸」の弾道は、実際のケネディとやはり被弾したテキサス州知事の座っていた位置と姿勢を計算すると、なんの科学的な疑問も残らないのだ。

現代アメリカ史の壮大な裏の真相を "暴く" ような映画は、スコセッシの興味の対象ではなかった。だから『アイリッシュマン』ではケネディ兄弟とホッファやマフィアの関係も、実際にフランク・シーランが直接に知り得たレベルまでしか映画には写し出されない。フランクはビッグス湾事件にも関わっていたのだが、そのこと自体彼は後になってニュースで見て気づくに過ぎない。

こうした表の政治の大きな出来事は、これまた絵画に例えれば絵の具をサっとひと塗りした筆触、brushstroke のように強く印象付けられるが、決して説明されることはなく、シーランが関係者から聞いたと称する「真相」らしきことの説明も映画から排除されている。そうすることでスコセッシはケネディとホッファに関わる政治陰謀史観を映画のテーマとするのでは決してなく、あくまで背景の、物語の枠組みに留め、むしろその得体の知れない大きなシステムの中でフランクが自分は権力の中枢に関わっているという幻想を抱きながら、実際にはその得体の知れない大状況の中のひとつのコマでしかないことを浮かび上がらせていく。

この構造を見せていくスコセッシの巧みさは、スコセッシがアルフレッド・ヒッチコック以降では最高の主観ショット、主観描写のマスターであることとも深く関わっている。ヒッチコックは巧みな主観描写、フランソワ・トリュフォーの言葉を借りるなら「登場人物の目にキャメラがはめ込まれたような、ヒッチコックしか撮れないショット」によって観客を主人公の立場に引きずりこむことで圧倒的なサスペンスを生み出した。スコセッシはそんなヒッチコックに学びながら、主観表現をさらに別の新しい次元へと押し上げた。『タクシードライバー』が典型のように、スコセッシ映画は主人公の主観にぴったり密着した視線ショットを駆使し、主人公の主観を観客と分かち合いながら、同時に世界をそのように見ている主人公の狂気や主観の限界性を、客観的に観客に示してもいる。

主観の限界性、どんな人間でも世界の一部、社会の一面しか見えないことは、『アイリッシュマン』の複雑な回想構造も含めたラディカルな構成の鍵となる演出要素であり、そのことが映画の根本的なテーマとも深く結びついている。我々はいずれ必ず死ぬことが決まっていて、その前にまず確実に老いていく、儚く移ろい行く存在でしかない。

我々はその人間的な限界の中でしか存在が許されておらず、だから全てを知ることもできないし、自分がそのコントロールの一部になっているつもりの社会の動き中で、実際にはそこに囚われて半ば盲目的に従うしかなく、むしろその運命に強要されて自分の意思に本来なら反することもやってしまう。