兵庫県の日本海沿岸・香住にある大乗寺は、通称「応挙寺」と呼ばれ、円山応挙ファンの秘かな「聖地」である。この寺に、最晩年の応挙とその一門が8年間をかけて、165面の襖絵を描いたからだ。その「大乗寺襖絵」の主要な、寺の客殿(本堂)の中心部分の襖絵が、今年はまず東京(東京芸術大学美術館)で、そして今は京都で(京都国立近代美術館)で公開されている。
京都と東京では、この「大乗寺襖絵」の展示される部分が違う。東京では客殿の東側半分、京都では残りの西側半分の公開で、中央の「孔雀の間」はちょうど半分ずつ。東京での展示部分に描かれた孔雀は一羽なのに対し、京都展では二羽なので「おトク」、なんて冗談はさておきその裏側は、東京展では呉春ら弟子の描いた部屋だったのに対し(ちなみに与謝蕪村と応挙の双方に師事した呉春の「山水図」は蕪村風、「四季耕作図」は応挙の影響を受けながら独自のスタイルに到達した作品)、京都展では真後ろ・仏間の蓮池図が息子・応瑞の作である以外は、3部屋ぶん全てが応挙の、いずれも金地に描かれた作品だ。
会場の展示写真をご覧いただくと、ちょっと暗いと思われるかも知れない。実際、東京展より照明を落としているのだが、これは香住から駆けつけた副住職さんの指示だという。寺院の襖絵という特別な場所で、特に孔雀の間はその奥が本尊を安置する仏間になる。
「見るための絵ではなく、空間を作っている絵だということを感じて欲しい」と山岨眞應・副住職は言う。日々のお勤めではこの絵に囲まれて仏と向き合う、そう言う空間のために応挙は、特別な仕掛けを仕込んだ。その仕掛けをちゃんと感じるためにも、照明は暗い方がいいのだ。
金は言うまでもなく、光の反射率が高い。当初美術館が設置した照明器具でまんべんなく照らせば金は光り輝くが、これでは金を見ているのであって応挙の絵、その絵を通して大自然(大乗寺は真言宗なので、自然そのものが究極には大日如来の宇宙そのものとなる)を感じることには、ならないのだ。
特に「孔雀の間」の松と孔雀は、あえて色彩を用いずに墨だけで描かれた、いわばモノクロームの絵だが、「墨一色」と言ってしまうのは正確ではない。応挙はこの絵で様々な種類の墨を、それも随所で濃さに変えて擦って使い分け、時には塗り重ね、そうする中で墨の下の金の反射率も計算していた。
残念ながら写真にはなかなか映らないのでこれは展覧会に行って頂くしかないが、墨の黒しかないはずなのに、松葉に緑が見えるように、孔雀の胴体は青であるかのように、目が錯覚を起こす。その効果を感じるには、自然の太陽光が反射して柔らかく屋内に広がるか、屋内の美術館で再現するには、照明を暗めにするのが正しい。
応挙の襖絵は「絵を描いた」のではなく「空間を作っている」という大乗寺の山岨副住職の指摘の正しさは展示を見れば納得するし、その「空間」とは金で華やかに装飾された部屋、という意味ではもちろんない。金を三通りのテクニックで使い分けた「雪松図屏風」(国宝・三井記念美術館蔵。来年正月に公開予定)を見てもよく分かるが、応挙にとって金もまた、自分の絵画表現におけるひとつの色、ひとつの素材であって、注文主の財力の象徴ではおよそない。
そしてその応挙の絵画表現とは、「写生」、生命を写すこと、だ。
円山応挙、あるいは日本絵画の静かな革命としての「写生」
ここ10年ほど、江戸絵画といえば伊藤若冲ブームだ。奇抜で新奇な表現(といって独学の、敬虔な禅宗の信者だった若冲は、大真面目にあれらの絵を描いていたはずだが)と比較して、同時代の円山応挙の全体的にやさしい、人間味にすらあふれる作風が、日本の絵画に大革命を起こしたとは、なかなかピンと来ないかも知れない。
寺院の障壁画では「郭子儀図」などの中国故事に由来する画題であるとか、風景画であれば中国の景観を想像で描くのが慣例と言った約束事があった。だからこの最晩年の大作を見ただけでも、やはり応挙のなにが凄かったのかは分かりにくいかも知れないが、これら伝統に乗っ取った作品でも署名は「応挙寫(写)」だ。
展覧会では大乗寺客殿襖絵のそばに、応挙の「写生図巻」も展示されている。これは注文や売り物の作品ではなく、自身の学習のためと弟子の手本を兼ねて描き溜めた、様々な動植物のスケッチだ。この「写」が、江戸時代の絵画に革命をもたらす(ちなみに応挙を敬愛していた若冲も、しばしば署名は「寫(写)」だ)。
室町時代における日本絵画の飛躍的発展は、禅宗寺院で尊ばれ、足利将軍家が「唐物」として珍重した中国の北宋・南宋の大きな影響下に始まった。この時代の最大の天才・雪舟等楊はその意味で、「日本の画家」とは言えないところがある。明に留学時に皇帝に絶賛されたのも、明を中心とする中華文明圏でこの時代最高の画家にして、北宋・南宋の絵画の最高の継承者にして完成者としてだった。
一方で日本には平安時代から続く「やまと絵」の伝統があり、雪舟が完成させた漢画(中国式絵画)を継承しつつこの「やまと絵」のスタイルや雰囲気をうまく折衷させたのが、室町時代後期に日本絵画の最大流派となる「狩野派」だ。4代目で安土桃山時代に活躍した狩野永徳は信長、秀吉と言った新興権力者に寵愛され、戦国の覇者となった武将たちがこぞって自分たちの城郭や武家屋敷、それに寄進した寺院の障壁画を注文するようになると、長谷川派(長谷川等伯)、海北派(海北友松)といった流派が現れる。江戸時代初期にも、狩野派(幕府御用絵師・狩野探幽)といった武家に好まれた流派の、中国的な形式を踏まえた格式高い絵画が最初は好まれた。
円山応挙は、そうした既存の伝統流派とは別の流れで登場する。最初は光学おもちゃの「眼鏡絵」(オランダ貿易で入ってきたレンズを使って絵を立体的に見せる)の絵を描いていたそうだ。そんな応挙が、伝統的な画題の約束事や流派の約束事に縛られずに探求した自分の画風が「写生」だった。
格式や約束事ではなく、現実に見える世界を絵に「写す」という新しい美学は、平和になった江戸時代の経済発展で裕福になった京都の豪商たちに熱く支持され、応挙は一気に当代一の人気絵師になる。
この時、日本の絵画は受け手(権力階級たる武家から経済の実権を掌握した町人へ)も表現手法(伝統形式から「写生」へ)も、描き手と受け手が共有する感性も(格式の高さから、等身大の親しみへ)、絵画技術の習得法も(師匠から引き継いだ流派の手法の忠実な踏襲から、現実を見て研究してそこから描き方を見いだすことへと)大きく変わり、新たな表現の地平が開いたのだ。
人気絵師になった応挙は多くの弟子を抱えることになり、円山派を形成したが、大乗寺の襖絵の弟子とされる者たちの作品を見ても、記録に残った彼らの働き方からしても、「師と弟子」というよりも仲間同士のような感もあり、応挙は自分を慕った呉春であるとか長沢芦雪といった弟子たちの独自の見方や描き方、その個性を活かして伸ばすような育て方をしていたようだ。
明治時代、狩野派を超えなければならなかった東京の日本画と、そこにかつて応挙がいて、四条円山派があった京都の違い
京都では会場が京都国立近代美術館なのに円山応挙、つまり江戸絵画というのには驚かれるかも知れない。だがその「近代」区分の対象となる明治以降、首都が移った東京では国立の芸術学校(現在の東京芸大)が創設され、伝統画法を使いながらも新しい近代日本の新しい絵画としての「日本画」が、岡倉天心とその弟子たち(横山大観、菱田春草などなど)によって模索され、いわばひとつの「断絶」があったのに対し、京都での近代「日本画」は、応挙や呉春らの流れを自然に継承することで発展し、竹内栖鳳、上村松園と言った画家たちが活躍することになる。
それがこの展覧会の出発点となるアイディアだ。近代「日本画」でも京都では応挙らの流れが踏襲され継承されて発展したというのは日本美術史のいわば「定説」であり、ならば一緒に並べて見てみよう、というのが美術館の時代区分を取っ払ったこの展覧会のコンセプトとなる。
なぜ東京と京都でこうも違った伝統との向き合い方になったのか?
東京の方が横浜から直接に西洋絵画が入って来たり、西洋に強いコンプレックスを持った明治政府の首都・お膝元だけに新しい、いわば「国家的芸術」を生み出す要請が強かったなど、地理的・政治的な要因もあったのだろうが、もっとも大きかったのは、応挙の段階ですでに、その絵画が「新しかった」こともある。
たとえばフランスで絵画が古典的な様式から脱してよりリアルに現実に根ざすようになり、身の回りの普通の風景を絵にしたり、王侯貴族権力者ではなく普通のブルジョワ生活が絵の題材になったのは19世紀に入ってからだ。西洋絵画においてはミレーやギュスターヴ・クルーベ等の登場すら、応挙の「写生」の方が少なくとも半世紀は早かった。
印象派ともなるとほぼ100年、応挙と円山派・四条派が先取りしている。
近代日本画への「西洋の影響」というが、実は「近代絵画の成立」は、応挙の方が西洋より早かったじゃないか
開催の順番からすれば、京都展は東京でまず行われた展覧会の「巡回」なのだろうが、目玉の大乗寺襖絵が完全に入れ替わっている(東京では展示しなかった部分が京都では見られる)だけではなく、ずいぶんと違った印象を受ける。襖絵以外の作品は重複していても、まず章立ての順序が、東京では応挙・動物・自然・人物の順だったのが京都では応挙・動物・人物・自然となっている以上に、個々の作品の並べ方が違うことが大きいのだろう。
端的に言ってしまうと、東京での展覧会は江戸時代の応挙と円山派、四条派の写生的な絵と、明治以降の日本画の共通点を見出し、両者を時系列的に繋げるように構成されていた。京都ではむしろ、江戸時代の作品と明治以降・近代を直接隣どうしに並べている部分がとても多い。つまり「引き継いでいるから似ていると考えられて来たが、では実際に比べてみよう」という実験的な姿勢だ。
では実験してみた結論はどうかといえば、「いや実は、ぜんぜん違う」というのが筆者自身の感覚だった。そして「ぜんぜん違う」からこそ、東京での展覧会では「やっぱり応挙はすごいね」「呉春はいいなあ」と、近代の作品を円山派・四条派の亜流、模倣のように見てしまいがちだったのが、京都では「ぜんぜん違う」だけにかえって近代京都画壇の作品にそれなりの面白さをより感じ、応挙という一見慎ましく平穏に見えながら才気に溢れた稀代の天才の巨大な過去を前に、近代の京都の日本画家たちが何を学んでどう悪戦苦闘し、時に貪欲に西洋画法も取り入れていたのかが、より鮮明になったように思う。
しかし同時に、「ぜんぜん違う」と感じた時にますます際立つのが、円山応挙というアーティストのあまりの大きさだ。寺院の障壁画ゆえの画題などの約束事の制約があった作品でも、この人の絵は自然体に、のびのびと、自由なのだ。
この自由さはどこから来るのか? 「自由」が社会・政治的概念としておよそ確立していなかったはずの江戸時代に、独立した「芸術家」ではなく豪商たちパトロンの注文をこなす「絵師」だったはずの応挙が、なぜこんなに自由なのか? 直感では、その答えは、展示のほぼ最初にある「写生図巻」と、後期の展示で最後の章の「山、川、滝、自然を写す」のクライマックスになる最晩年の傑作・絶筆とも言われる「保津川図屏風」のあいだに、あるような気がする。
展覧会概要
会期:2019年11月2日 [土]-12月15日 [日]
前期:11月24日(日)まで 後期:11月26日(火)から
前期後期で大展示替え、ただし大乗寺襖絵は通期展示
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日休館)
開館時間:午前9時30分~午後5時(金曜・土曜日は午後8時まで)入館は閉館の30分前まで
会場:京都国立近代美術館〔岡崎公園内〕
京都市左京区岡崎円勝寺町
料金:
一般: 1,500円
大学生: 1,100円
高校生: 600円
主催: 京都国立近代美術館、朝日新聞社、京都新聞、NHK京都放送局
協賛: 岡村印刷工業、JR西日本
『円山応挙から近代京都画壇へ』展 cinefil プレゼント
下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、京都国立近代美術館「円山応挙から近代京都画壇へ」展チケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
この招待券は非売品です。転売、オークションへの出品などを固く禁じます。
応募先メールアドレス info@miramiru.tokyo
応募締め切り 2019年11月20日(水)24:00
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