名目は文化財の保存修理の成果をお披露目する展覧会。こういうテーマはある意味、語弊を恐れずに言えば、見に行く側にとっては「(これを口実に)どんなものが集まっているのかが楽しみ」みたいなところがある。

絵画ならまだ、日本絵画は表面をクリーニングして煤や汚れを落とし、表具をやり直して平らな布や紙に貼り直すことで、見違えるほど鮮やかになる。だが東京国立博物館の展示(他に九州国立博物館でも開催中、京都・東京の泉屋考古館での展示は終了)は彫刻、主に仏像だ。日本の文化財保存ではこの場合、「現状保存」が原則で、剥落した金箔や漆や褪色した彩色を本来の色に再現などはしない。後世に塗られた彩色や漆だと分かれば、除去するくらいだ。

七仏薬師如来立像 平安時代12世紀 岩手・正音寺 後世の彩色が取り除かれ、簡素な木の質感が美しい

修理された仏像はだから、一見何百年もの歳月を経た「古色」の状態で綺麗になる。修理前の状態と比較しなければどこを直したのかを極力見せないことが重要なのだから、「修理の成果」そのものを観客が理解するのには、直感的にはかなり難しい。

それに見る側も、美術品として鑑賞するにせよ、信仰の対象とするにせよ、作られた当時そっくりの新品の金箔に頭髪は真っ青、衣は真紅の如来像だと、なぜかかえって有り難みを感じなくなるのが、日本人の感性だろう。中国本土とかチベットやタイで新品同様に金箔が輝く仏像を見ると、我々はむしろ違和感を感じてしまう。奈良の興福寺では江戸時代に作り直された本尊釈迦如来を、中金堂の再建に当たって造立当時の姿に復元した。この像は文化財指定を受けていないので寺側の独自の判断で可能だったことで、筆者自身はいい試みだと思うが、日本人の拝観者の賛否は分かれる。

つまり「どこを修理したのか分からないのが、いい修理」である以上、東京国立博物館の「文化財よ、永遠に」をぜひお勧めするのは、展示会場の写真パネルやとても丁寧に作られた図版で修理のプロセスがとてもよく分かるのも興味深いのだが、それが本サイトで紹介する理由ではない。住友文化財団の助成で修理されたことをいわば「口実」に全国から集められた仏像がどれも個性的で、平安から鎌倉、日本人の「ほとけのかたち」が成立した時代の地方の仏たちを通して日本人が日本人としての民族性を培ってきた歴史の一端が体感できる、そんな展覧会でもあるからだ。

平安から鎌倉、日本人にとっての「ほとけのかたち」が成立する時代の仏像たち

しかもいわゆる「地方仏」、こういう機会でもないと、全国を回るわけにもなかなか行かないし、観光寺院でなければ、行っても拝観できるかどうかも分からない。それだけにこの展覧会は密かに、滅多に見られないものを見て体系的に考えられる、またとないチャンスなのだ。

日本人が普通に「仏像」というとなんとなくイメージする、なで肩で柔らかな曲線の、ふっくらとはしているが露出した腕や胸が様式化されてあまり肉感的ではなく、横から見ると体が薄くて、衣の襞が平行線状に整理されて彫りの浅い、全体に穏やかな印象の、心安らぐスタイルは、平安時代後期に京都で活躍し、主に朝廷と藤原氏に仕えた大仏師・定朝(じょうちょう)が確立したものだ。真作と確定しているのは京都・宇治の平等院阿弥陀堂(10円玉で有名な鳳凰堂)の丈六阿弥陀如来坐像のみだが、このスタイルを踏襲した仏像は京都を中心に数多い。

阿弥陀如来坐像 栃木 満願寺 平安時代12世紀の定朝様 台座と光背も製作当時のものなのは貴重 (栃木県指定有形文化財)

鎌倉時代に入ると有名な運慶・快慶らの「慶派」が、身体性や躍動感を強調した新しい仏像スタイルを生み出す。本領発揮のダイナミックな表現となると、まず思い浮かぶのは歴史の教科書にも出て来る東大寺南大門の仁王像(金剛力士立像)が典型だが、明王や四天王、十二神将などなど、仏教を守る神々の像だろう。

十二神将立像 鎌倉時代13世紀 滋賀・金剛寺 運慶の時代以降のダイナミックに躍動する表現(滋賀県指定有形文化財)

一方で如来(いわゆる仏陀、仏さま)や菩薩では、基本は落ち着いた姿でないと信仰対象としては困るせいか、そこまで肉体的な運動や躍動感を強調はされていない。

それでも胸の筋肉を大きく取っていたり、体の動きこそ直接には強調されないものの、定朝様の穏かさに比べて体が厚く、肉感的で、静かに座る如来像でも筋肉の張りが演出されていたりで、やはり存在感が違い、見慣れて来ると一目で「慶派」とわかる個性がある。衣の表現も定朝様の整理された穏やかな様式美と比べて、よりリアルだったり、いささかくどいほどに凝ってウネウネしていたりする。

運慶の父・康慶の弟子だった宗慶の作 阿弥陀如来坐像および両脇侍立像 鎌倉時代・建久7(1196)年 埼玉・保寧寺(重要文化財) 頰の張りや胸の筋肉の厚みなどに慶派的な表現が見られる

丸く張りのある頰と、横から見るとどっしりと厚い身体で、定朝様とはかなり対照的な重量感。中尊の阿弥陀如来の上体が後ろ向きに反り返るように傾いているのも特徴的

阿弥陀如来坐像および両脇侍像 鎌倉時代 仁治3(1242)年 鎌倉・常楽寺 (鎌倉市指定有形文化財) 二代執権北条泰時の臨終に作られたと見られる。中尊の胸の筋肉が広く、衣の表現が特に脇侍の二菩薩で極端に凝っているのも注目

こうしたスタイルの変遷は、主に中央、つまり京都・奈良や鎌倉など政権の中枢に近いところで起こりったもので、当然ながらそうした中央で作られた仏像表現の歴史から、理解されて来たものだ。

もちろん江戸時代までは、日本の仏教の中心にあったのも天皇家だし、鎌倉時代以降武家政権の時代になると、武士は戦うこと、つまりは殺人が本業であるだけに、良心の呵責に苦しみ救済を願う気持ちもより強まり、鎌倉もまた仏教美術の大きな中心になった。先にも触れた運慶も、奈良・興福寺を本拠としていたが、東国の武士との関係を強めた。

「日本」という国の成立・統一と仏像スタイルの伝播

歴史を考えるときにはどうしても、美術などの文化史でさえ、時代時代の政治的な中央から考えがちだ。また日本の仏教の歴史では、中央集権化した律令体制の全国統治体制確立とワンセットでまず全国展開が始まったのも確かだ。

聖武天皇が各地方に(日本は江戸時代までの区分だと六十余の「国」に分かれる)「国分寺」を建てたときには、金堂や五重の塔などの建造技術がフォーマット化され、技術者が全国に派遣され、ほぼ同じ様式、同じ構成で同じ大きさの寺院が建てられた。この奈良時代の国分寺の仏像はまったく残っていないので、どんなものだったか分からないのだが、やはり奈良に今も残る平城京の寺院の仏像と同じスタイル、同じ技術が踏襲されたと考えるのが自然だ。

平安時代になっても仏教は、まず天皇とその周辺貴族のエリート層がメインの受容者で、天台宗・真言宗の平安仏教は「国家護持」の色彩が、仏教を国家統治の基本思想としようとした奈良時代以上に強い。そんな中央・京都から派遣されたそれぞれの地方の長官である国司が、京都の最新の仏像の流行も赴任先に持っていくなどして、中央のスタイルが地方でも模倣されたというのが普通の考え方だし、現に今回出品されている栃木の満願寺の阿弥陀如来像(上掲の写真)も、定朝様の典型に忠実な造形だ。

阿弥陀如来立像 平安時代・11~12世紀 鳥取・三佛寺(鳥取県指定保護文化財)
基本的に定朝様を踏まえた穏やかな作風だが不思議に頭が大きく縦長に引き伸ばされた造形が特徴的

またここは東京国立博物館、会場の隣には常設展(総合文化展)の彫刻室があり、ここではやはり典型的な定朝様の、埼玉県西光院の阿弥陀如来坐像(平安時代 安元2年、西暦1176年)が見られる。その隣には、基本は定朝様ながら慶派など鎌倉時代に通じる要素も見える、説法印を結んだ阿弥陀如来坐像(この手の形は比較的珍しい)があり、これは広島県・宮島の、厳島神社の神宮寺にあったものだ。つまり栃木(下野)、埼玉(武蔵)、広島(安芸)には、定朝様が忠実に伝わって、12世紀には主流になっていたことが、これだけでも分かる。

歴史のパターンに必ずしも収まらない地方仏の魅力

この展覧会では、東日本大震災で被災した福島県など東北の仏像も多い。

釈迦如来坐像および迦葉立像・阿難立像 鎌倉時代 14世紀 福島・楞嚴寺 (福島県指定重要文化財)
中尊の衣の凝った表現は、定朝様の穏やかに整理されたラインと対象的でいかにも鎌倉時代。楞嚴寺は禅宗寺院なので脇侍は羅漢(釈迦の弟子)の阿難・迦葉、つまり「普通の人間」で、衣の表現のリアルさは、運慶の晩年の傑作・無着世親量菩薩立像(奈良・興福寺)の衣の表現をちょっと彷彿とさせる

ちなみにお寺の津波被害は案外と多くない。特に平安時代に遡るような寺の多くは津波が届かない高台や、むしろ山の麓や中腹に建てられている場合が多く、深刻だった被害は地震で倒れたりして、もともと経年劣化で接合部などが痛んでいたり、木材の腐食や虫食いがあった仏像が、バラバラになってしまったケースだ。今回の展覧会ではそうした東北の仏像の展示を通して、平安時代から鎌倉時代にかけて優れた仏像がすでにこの地方にまで広まっていたことも再確認できる。もちろん平安後期の東北といえば、平泉に中尊寺金色堂などを建てた奥州藤原氏が有名(ちなみにこの堂の阿弥陀如来は典型的な定朝様の名作)だが、この展覧会で見られるのはその平泉以外の、もっと慎ましいがそれだけに個性的な作例だ。

本記事の1枚目の写真で掲げた、岩手県正音寺の七仏薬師は、定朝様の表現の定型を一応踏まえてはいる。しかし簡略化された顔立ちや全体の雰囲気には、東北地方ならではの素朴な荒々しさがあり、衣の表現は定朝様を踏まえながらもここは特に極端に簡略化され、だからと言って表現に稚拙さを感じさせるのではなく、むしろこの地方独自の創意工夫のようなオーラを感じさせる。

七仏薬師如来立像・右側の三尊 平安時代12世紀 岩手・正音寺 (岩手県指定有形文化財)

七体の像の造形た彫り方タッチにどこかしら、木それ自体の生命の力強さをそのまま仏像に移したような感じがするのは、 元の木の歪みをそのまま活かして、必ずしも真っ直ぐな姿になっていないせいもあるのかも知れない。そしてこうしたところにこそ、もしかしたら、日本の仏像彫刻になぜ圧倒的に木造が多いのか、のヒントがあるのかも知れない。奈良時代までは塑像(粘土を固めたもの)や銅像、乾漆像(漆におがくずを混ぜた「木糞漆」を使った造形)も盛んに作られたのが、平安時代以降は圧倒的に木の仏像ばかりになるのだ。

特に奈良時代後期から平安時代初期にかけて現れて一時は大変に発展したのが、仏像の主要部を丸ごと一本の木から彫り出す「一木造り」だ。仏の姿だから神聖であると同時に、そこに巨木が持つと信じられていた霊的な力も宿そうとしたかのような迫力が、こうした仏像には多い。もっとも有名な例が京都の西北・高雄にある神護寺の本尊、薬師如来立像だろう(ちなみに国宝)。また奈良の唐招提寺には、金堂には奈良時代ならではの乾漆のテクニックを活かした像が並んでいる一方で、霊宝館に行くと手などが欠損していたりするものの、こうした一木造りの力強い実例が数例ある(二体は今年、国宝になった)。

南相馬市の杉阿弥陀堂の本尊は、震災で頭部や手が脱落して大きく破損したのを機に、三年がかりで修理が行われた。江戸時代に行われた修理の後補部材の位置が修正され、明治時代に塗られた彩色を取り除くと、ヒノキで造られた美しい目地が現れた。

阿弥陀如来坐像 平安時代12世紀 福島県南相馬市江垂・杉阿弥陀堂(福島県指定有形文化財)

伝承では京都から来た仏師が作ったとされ、確かに定朝様の仏像だ。だとしたら当初は漆箔(漆を塗ってその上から金箔を貼る)だったのかも知れないが、この像にはむしろ美しい木目の表情がふさわしい。ふっくらした頰と定印を結んだ手の柔らかいながらも艶かしさのある表現などに、どこか中央とは違った風情の、人間的で土着的な艶かしさも感じるのは、この像が南相馬市で拝まれ続けた歴史のせいなのだろうか。

この展覧会で見られる定朝様の系譜の仏像で、ひときわ印象的なのが山形県・向居薬師堂の薬師如来坐像だ。

薬師如来坐像 平安時代12世紀 山形県鮭川村 向居薬師堂(山形県指定重要有形文化財)

雪が多い山形のなかでも特に冬が厳しい北部山中の、そんな山の中腹にあるお堂の過酷な状況の中で何百年も祀られて来たこの像は、定朝様の定型を踏まえながらも、その穏やかさとは別次元の力強さを持った不思議な魅力を放っている。まず強いインパクトを覚えるのは、がっしりとした肩幅と胸の筋肉、そしてなによりも指が太く力強い手で、定朝様の優美な手の表現とは対照的な無骨さがある。

近代の修理で彩色を施すため全体にまず和紙が貼られ、元の顔立ちがかなり変わって見えたのを取り除くと、虫食いや湿気による腐敗で一部に木材がスポンジ状にまでなっていたそうで、丁寧な修復で本来の姿が蘇った。基本的に平安後期の様式ながら鎌倉時代的な要素も見られるとして、平安末の12世紀の作と推定される。

指が太く力強い手。薬師如来は現世利益、つまり病気平癒など今現在生きている世界での救済を祈る対象

だが素人の勝手な空想だと、この力強い肩と胸、分厚い掌、丸顔ながらも精悍さも感じる顔貌は、確かに鎌倉時代・慶派的な肉体的存在感の強調の先取りと見える一方で、平安中期から「和風化」が進んで定朝様が完成される以前の、つまり平安時代初期の、大きな木材から主要部を丸ごと彫り出した一木造りの仏像などにどこか通じるものを、なぜか感じてしまう。

またこのお堂が豪雪地帯の険しい山奥にあって、修理のため山から降ろすだけでも大変だったと聞かされると、ますます想像をかきたてられてしまう。こうした厳しい環境では、京都風の典雅で温和で、その優美さにすがれる仏像よりも、例えばこの分厚い掌と太い指に現れているような力強さを持った信仰対象をこそ、人々が必要としていたのかも知れない。

日本に本格的に仏教が伝播した時の、聖武天皇が全国に造らせた国分寺の仏像は、残っていない。だからそれがどんな像だったのか今は分からないが、新しい時代ごとの新しい表現が中央・上方から伝わる一方で、古い様式の仏像を見た記憶が元になったり、地域の風土が仏像表現に反映されたり、あるいはより地元の感性に馴染んだ、古くからある仏像の影響が残ったりしたことは、なかったのだろうか? そうした結果として例えば、向居薬師堂の薬師像の独特の個性が生まれたとは考えられないだろうか?

もちろんそんなことを歴史的に検証するには、あまりに実例が足りない。なにしろ日本の地方の隅々にまで最初に伝播した仏像、つまり聖武天皇が全国に作らせた国分寺の仏像がどんなものだったか、手がかりがないのだ。だから素人の空想でしかないのだが、滅多に見ることができない地方仏で、それも修理のプロセスの説明を通してどういう構造でどのように作られた像だったのかも分かって来ると、ついいろいろ想像が膨んでしまうのが、この展覧会のおもしろさのひとつだ。

それはまた、我々が教わって来た歴史観では見落とされがちな日本各地の地方に堆積した、日本という国がどう出来上がって私たち日本人という民族が何を本当は引き継いで来たのかに、思いを馳せることでもある。

薬師如来坐像・菩薩立像・持国天立像・増長天立像 平安時代 11世紀 高知・北寺 (重要文化財)

(以下次号)

展覧会概要

住友財団修復助成30年記念 特別企画「文化財よ、永遠に」

会 期 2019年10月1日(火) ~12月1日(日)
会 場 東京国立博物館 本館特別4室・特別5室
開館時間 9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)
(ただし、金曜・土曜、11月3日(日)、11月4日(月・休)は21:00まで開館)
休館日 月曜日、11月5日(火)
(ただし、10月14日(月・休)、11月4日(月・休)は開館)
観覧料金 一般620円(520円)、大学生410円(310円)
※総合文化展観覧料でご覧いただけます
* ( )内は20名以上の団体料金
* 障がい者とその介護者一名は無料です。入館の際に障がい者手帳などをご提示ください。
* 高校生以下および満18歳未満,満70歳以上の方は無料です。入館の際に年齢のわかるもの(生徒手帳,健康保険証,運転免許証など)をご提示ください。
交 通 JR上野駅公園口・鶯谷駅南口より徒歩10分
東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅、千代田線根津駅、京成電鉄京成上野駅より徒歩15分
主 催 東京国立博物館、公益財団法人住友財団、 住友グループ各社、読売新聞社
後 援 文化庁、美術院、国宝修理装潢師連盟
お問合せ 03-5777-8600 (ハローダイヤル)

東京国立博物館「文化財よ、永遠に」展(総合文化展観覧を含む) cinefil チケットプレゼント

下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、東京国立博物館「文化財よ、永遠に」展(総合文化展観覧を含む)チケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
この招待券は非売品です。転売、オークションへの出品などを固く禁じます。

応募先メールアドレス  info@miramiru.tokyo
応募締め切り    2019年11月20日(水)24:00

1、氏名
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の電話番号、郵便番号、建物名、部屋番号も明記)
  建物名、部屋番号のご明記がない場合、郵便が差し戻されることが多いため、当選無効となります。
4、ご連絡先メールアドレス、電話番号
5、記事を読んでみたい監督、俳優名、アーティスト名
6、読んでみたい執筆者
7、連載で、面白いと思われるもの、通読されているものの、筆者名か連載タイトルを、5つ以上ご記入下さい(複数回答可)
8、連載で、面白くないと思われるものの、筆者名か連載タイトルを、3つ以上ご記入下さい(複数回答可)
9、よくご利用になるWEBマガジン、WEBサイト、アプリを教えて下さい。
10、シネフィルへのご意見、ご感想、などのご要望も、お寄せ下さい。
また、抽選結果は、当選者への発送をもってかえさせて頂きます。