7月26日(金)から全国公開される深田晃司監督の最新作『よこがお』。2016年の『淵に立つ』に続く筒井真理子を主演に迎えた本作は、‪人間の多面性というテーマとそれをあぶり出す緻密で大胆な演出が見事に組み合わされた深田監督の集大成的な作品であり、紛れもなく長編劇映画での最高傑作といっていいだろう。

風が吹き荒び、声ならぬ叫びが響き渡る此岸の荒涼。その淵に佇む筒井真理子の美しき悲壮を見つめる眼差しは、どこにも属さない「ゼロ」の地点、いわば虚空の彼岸から見つめているような底知れない凄みを帯びている。その眼光をもって、旧態依然とした日本の映画界にも鋭い問題提起を続けてきた監督に話を伺った。

©2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

ミステリーよりもサスペンスを

野本
深田監督はエリック・ロメールから強い影響を受けていると公言されていますが、今回の『よこがお』(19)ではヒッチコックやロマン・ポランスキー監督などのニューロティックなスリラー映画に通じるものがあると感じました。その点について、例えば参考にしていた映画作家などはいらしたのでしょうか。

深田
映画をつくるときには、過去に自分が観た好きな映画を無意識的に参照しているので何とも言えない部分ですが、ヒッチコックでいえば『裏窓』(54)での見る/見られるという視線の関係性はすごく好きなので意識はしていました。窓越しの視線の使い方ひとつとってみても、やはりヒッチコックは自分のなかでも大きな存在だと思っています。映画が求めるのがミステリーであるのかサスペンスであるのかを見極めることも、ヒッチコックから影響を受けた点です。今回は二つのエピソードが並行して進んでいくミステリー的な要素もありますが、そこに主眼は置いていません。犯人が誰であるといったことはどうでもよく、むしろ犯人が分かったあとで事件に関わってしまった人々に訪れるサスペンスのほうが重要だと思っています。これはヒッチコックでいえば『めまい』(58)です。『めまい』はミステリー小説が原作であるにもかかわらず、ヒッチコックは映画の中盤で犯人を明らかにしてしまう。そのようにして登場人物は犯人を知らないけれど、観客だけは知っているという状況をつくり、サスペンスとして持続させていく。映画としてはミステリーよりもサスペンスのほうにより豊かなものを感じるのも、やはりヒッチコックの影響があるからだと思います。

深田晃司監督

野本
今回の映画でいえば、洗車のシーンのえもいわれぬ恐ろしさやラストシーンなど、人間の内面を無機質な物体に投影させる演出も冴え渡っていたように思います。洗車のシーンはどのようにつくられたのでしょうか。

深田
あのシーンは脚本の段階で、観客がいろいろなことを想像できるシーンになるとは思っていました。さまざまなことが起こった後に、洗われている車のなかに市子がひとり無表情でいるだけで、ものすごく豊かで引き立つシーンなるのではないかと。ただ、我ながらいい加減だと思うんですが、脚本には書いたけれど、考えてみたら僕自身は一回も洗車をしたことがなかったんです(笑)。車の免許も持っていませんし。だから撮影当日に初めて「ああ、こういうふうになるのか」ということを知りました。

野本
逆に脚本から撮影時に変更したところなどはあったのでしょうか。

深田
あったと思います。もちろん、筒井真理子さんのお芝居が自分のイメージを超えてきたところがたくさんあったので、その点ではいろいろ変わりました。また、構成が変わったり、シーンを丸ごと削除したりするなど、撮影段階というよりは編集の段階で変更した点が多かったですね。

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「他者性」をもつ映画

野本
深田監督の作品には「人間の多面性」というテーマがあるように思います。例えば、『歓待』(10)の古舘寛治さんや『淵に立つ』(16)の浅野忠信さん、あるいは『さようなら』(15)のアンドロイドや、『海を駆ける』(18)のディーン・フジオカさんに至るまで、リトマス試験紙のような存在がある状況や関係性をかく乱し、変化させ、人間の表面下にひそむ本質を鏡のように逆照射していく。監督ご自身はそのようなテーマや構造を自覚されたうえで追求されているのでしょうか。

深田
共同体のなかに闖入者が介入するという物語構造が多いという点をよく指摘されますが、自分では意識して脚本を書くことはほとんどなく、結果的にそうなっているということが多いです。例えば、ひとつの共同体を描こうとすると、その内部からでは客観性をもって描くことができない。だから、第三者の目を入れることで物語を進めていく。そのような構造は演劇でも見られますし、作劇の手法のひとつではあると思います。ただ、なぜそれが自分にとってしっくりくるのかというと、映画が「他者性」をもちやすくなるからです。そういった他者性を欠いた映画には内省しかない。そこにあるのは葛藤と「自分」だけです。そして、そうした映画ほど、出演者本人に「本音」を語らせることでしか、ある種の感情を描けなくなってしまっている。しかし、私たちの感情というのは、ひとりの個人だけで成立するものではなく、つねに関係性やコミュニケーションのなかで成立しているものです。だからこそ、他者性が必要になってくるし、それは映画が独りよがりにならないためにも必要なものだと思います。ある種の共同体とその外部の人間との関係性を描くというのは、そのような問題を解決しやすくするひとつの方法であり、自分にとってもやりやすい方法だといえますね。

深田晃司監督

野本
なるほど。そのような関係性を描く際の距離感や眼差しにも、深田監督独特のものがあるように思います。今回の『よこがお』(19)でいえば、基子(市川実日子)の一家が引っ越して空き家になった家屋の中から、遠く窓越しに市子(筒井真理子)たちを見つめているショットのぞっとするような禍々しさ。それらはどこにも属していない、いわば「ゼロ」の眼差しのように思えます。あの印象的なショットは、どのようにして生まれたのでしょうか。

深田
最初に脚本を書いたときのイメージとしては、ひとつの家庭がなくなってしまったという時間と空虚感を出したかったというのがあります。ただ、今回は筒井真理子さんというひとりの女性をフォーカスして追っていくという、自分にとって初めての試みをしました。今回と較べると、以前の作品は「関係性の映画」だと思っています。明確で分かりやすい主人公がいて、その人物を追っていくというより、登場人物を含めたある関係性のなかで、あるいは主人公の周りでいろいろなことが起こっていく。例えば、『海を駆ける』のディーン・フジオカさんや『ほとりの朔子』(13)の二階堂ふみさん自身には何も起こりませんが、彼や彼女の周りに起こる出来事によって、人々の感情が透けて見えてくる。そのような関係性の映画から脱却した今回の試みのなかで、それまでひとりの主体として追ってきた筒井真理子さんが、あのシーンではポンと外部の人間として放り投げられるような感覚が得られた。私たちは主体でありながら、つねに誰かの他者もあります。そういう感覚をもたらすショットになったので、自分でも好きな画ですね。

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妄想と現実が等価であるということ

野本
距離感と同じく、色彩もまた深田監督の映画を特徴づけるひとつの要素だと思います。特に今回印象的だったのは、劇中に出てくるゴッホとモンドリアンの「ひまわり」の絵画をめぐる色彩と象徴性です。公園での幻想的なシーンで、市川実日子さんはモンドリアンと同じ「明」の衣装をまとい、筒井真理子さんはゴッホと同じ「暗」の衣装をまとっています。野暮かもしれませんが、この二人の対比に込められた意図は何でしょうか。

深田
あのシーンの基子は市子の妄想のなかにいる存在です。実際には、あの公園には市子しかいません。意図されている答えとは異なるかもしれませんが、私はあのような、映画におけるリアルではないある種の幻想シーンが好きなんです。今回もいくつかそのようなシーンがありますが、映画の恐ろしさとは、そのように現実をグニャリと曲げてしまう力があることだと思っています。公園のシーンでいえば、あれは市子の妄想かもしれないけれど、それを「妄想らしく」撮らない。僕は妄想をほかのナチュラルな現実のシーンと等価に描くことが好きなんです。そして、それができることこそが、映画の力なのだと思います。結局、映画はカメラの前にある被写体を写すことしかできない。カメラの前ではすべてのものが等しくなるというのは、映画の根本的な原理です。その原理のなかで、妄想という、基本的に脳内の出来事で、その当事者しか体験できないものも含めて、映画はすべてを客観的に描くことができる。だから現実の見方を変えることができるシーンとして、あのシーンを入れました。市子のなかにある妄執のようなものが、ポンと現実に出てきてしまう。その人にとってはそういうふうに見えているということを客観的に示すことができるシーンとして。また、これはいい加減にやめたほうがいいと自分でも思っているんですが、毎回ビンタのシーンを描いています(笑)。おそらくビンタをしていないのは『さようなら』ぐらい。初期の『東京人間喜劇』(08)をはじめ、『歓待』、『ほとりの朔子』、『淵に立つ』、『海を駆ける』でもすべてビンタをしています。そろそろ「ワンパターン」だと言われるのではないかと思っていましたが、予想していたほど指摘はされていません(笑)。

深田晃司監督

野本
深田監督の映画では、水辺もまた印象的なモチーフとして登場します。今回も彼岸と此岸の淵に佇むような筒井真理子さんの美しさが一際目を引きますが、ジャン・ルノワール然り、「水」というモチーフについて何かこだわりはあるのでしょうか。

深田
「水」というモチーフにあまり象徴性や文学的な意味はこめていません。ただ単純に、カメラにとって水が魅力的で写したい被写体であるということが大きいと思います。動かない石をひたすら撮り続けていても、情報としては何も変わらないわけですから、映画はつねに動いているものを被写体にしたほうが魅力的だというのは基本的な原理です。次にどう動くのか分からないものこそが映画の被写体としては面白い。だから、動物や子どものほうが撮っていても面白いんです。同じように、たゆたい動き続ける水は、動きが読めず、つねに動いているものですし、次の瞬間には二度と同じ姿にはならない。そのような被写体だからこそ、映画のキーとなるようなシーンの舞台装置として使いたくなるんだと思います。

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映画と小説への取り組み方

野本
深田監督は根岸憲一さんや芦澤明子さんなど、毎回優れた撮影監督と組まれていますが、撮影監督の個性や特長などをどのように感じていらっしゃいますか?

深田
撮影監督が違えばスタイルや方法も変わりますし、カメラマンもひとりの表現者であり、自分の手足として動いてもらっているわけではありません。逆にいえば、それが映画づくりの面白さでもあります。今回の撮影監督であるの根岸さんの面白さは、フィルムの時代からずっと活躍されている方でありながら、ビデオに対しても理解があるので、フィルム時代の経験値をビデオ映画の表現に持ってきてくれるということです。色彩にもとてもこだわりのある方なので、色味で構成をつくり、意図を加えていくということを計算してできる理論派の方だと思います。

野本
初期のアニメ作品である『ざくろ屋敷 バルザック「人間喜劇」より』(06)から現在まで、深田監督ご自身は映画製作や演出面など、映画への取り組み方に変化はありましたか?

深田
その辺りはむしろ観客や批評家の方々に分析してほしいところではあります。自分では気づかない無意識的な部分での変化はあるのかもしれませんが、結局、自分がつくりたいもの、観たいものを観るという姿勢は変わっていないので、変わっていないというのが正直なところではないでしょうか。

野本
深田監督はご自身の映画をもとに小説も書かれていますが、小説と映画はどのように書き分けているのでしょうか。

深田
小説を書くのはいつも必死です。もともと映画学校に入る前は小説家になりたかったぐらいなので、山っ気のようなものはあるのですが、実際に書いてみると大変ですし、映画とは向き合い方がまったく違います。映画は集団創作なので、例えば、観客にスクリーンを現実世界と同じように観てもらうために、なるべく観客の想像力を引き出す方向で考えますし、そのほうが良い結果になるので、ある程度俳優に感情の構築も任せています。その一方で、小説の場合はすべて自分で書き込まなければいけない。映画であれば、俳優に委ねつつ、前後の文脈のなかで、無表情からさまざまな感情を想像してもらうことができます。しかし、小説でそれをやると、あっという間に終わってしまって、単純に単行本にならない(笑)。だから仕方がないので、自分でいろいろなことを考えながら書き込んでいく。ただ、面白いと思うのは、小説を書くことが、自分自身にとって映画作品をもう一度見直す作業にもなることです。あのときの俳優のあの表情は、こういったことを考えていたのではないかと、自分が映画をつくっていたときには、そこまで追い込んで考えてはいなかった登場人物の感情をもう一度考えなければならなくなる。だから、もう一度作品と向き合う良い機会でもあるのだと思います。

野本
逆に、今後小説だけを発表することはあり得るのでしょうか。

深田
機会があればとは思っています。ただ、映画の小説版は今回で3作目ですが、実際に小説だけやるとなると大変だとは思います。

野本
映画はフランスとも合作で製作されていますが、今後もアジアを含めて海外との合作という形は考えていらっしゃいますか?
また合作の場合、日本と比較してハードルを感じる部分などはあるのでしょうか。

深田
海外との合作も機会があればまたやりたいと思っています。監督としてはハードルを感じる部分はあまりありません。もちろん言葉の壁はありますが、通訳の方さえいれば何とかなります。監督以上に、プロデューサーの方が大変なのではないでしょうか。例えば、日本とフランスではお金に関するシステムや慣習などが違いますし、製作費に関する観念など、根本的な金銭感覚も異なります。その部分を擦り合わせていくという点で、監督よりもプロデューサーのほうが苦労されていると思います。

野本
現在は初のテレビドラマを制作されているということですが、テレビと映画の違いなどは感じますか?

深田
幸いにも周囲が普段映画をつくっているスタッフということもあり、いつも通りに映画を撮っている感覚なので、今のところはあまり感じていません。ただ、テレビは一話何分という時間の制約がありますので、今後、編集で苦労するかもしれません。今回のドラマは自分が20歳の頃に読んでいた漫画が原作です。いつか映像化したら面白いと言いふらしていた漫画なので、今回携わることができてよかったと思っています。

©2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

日本映画の現状

野本
深田監督は映画監督であると同時に、NPO法人「独立映画鍋」(http://eiganabe.net)の代表理事も務められ、長らく日本の映画業界を改善する活動に従事されています。日本映画界の問題点については、例えば、今回の映画のオフィシャルライターを務めた寺岡裕治さんが2014年に刊行された『映画はどこにある――インディペンデント映画の新しい波』(フィルムアート社)のロングインタビューをはじめ、数多くの場で言及されています。この書籍が刊行されて以後、現在に至るまでに、日本の映画業界はどう変わり、あるいは変わっていないのか、現場に立ち続けているつくり手としてお話を伺えますか。

深田
少しずつ良くなっている面はあると思いますが、概ねは変わっていないのではないでしょうか。そもそも2014年の段階では、労働環境の酷さなども、好きなことをやっているのだから当然だと思われていましたし、日本の映画界にはさまざまな問題があるという認識すら浸透していませんでした。ただ、今の状況がおかしいのではないかという認識は、徐々に深まってきたとは思います。例えば、文化庁の助成金制度にしても、「映画鍋」に限らず、いろいろな人たちの声が通りはじめて、今年度からより使いやすいように改訂されました。そのように少しずつ更新はされていますが、全体でいえばまだまだ助成金は少ないですし、経済的にも、大手の映画会社が大手の映画館チェーンを持ちすぎていることなど、不平等なシステムが依然として続いているのが現状です。

深田晃司監督

野本
商業映画とインディペンデント映画の違いなどはどのように捉えていらっしゃいますか?

深田
その点に関しては「映画鍋」でもよく議論になるのですが、商業映画とインディペンデント映画はけっして対立物ではありません。インディペンデント映画であってもチケットを販売して興行をしているわけですから、私自身はすべての映画が商業映画だと思っています。完全に自分の個人マネーだけ、またはすべてを助成金で賄ったものや、美術館で上映されるような無利益の映画や映像作品は商業映画ではないのかもしれませんが、そうした区分に意味はありません。だから、その意味では自分の映画は今でもインディペンデント映画だと思っています。たとえ日活や角川が出資していようとも、自分がつくりたい映画を、一緒につくってくれる仲間を集めて、いかにしてつくり続けることができるのか。海外にはジャンル映画とアート映画という区分はありますが、商業映画とインディペンデント映画という二項対立はありません。海外のプロデューサーにとって、インディペンデント映画とは監督やプロデューサーたちがつくりたいものを主張してつくれる環境のことなのです。その意味では、今回の『よこがお』も、幸いなことに角川さんという理解ある映画会社と組むことができ、企画したプロデューサーと監督が一致してつくりたいものをつくっているので、インディペンデント映画なのだと思っています。

野本
二極化が進むばかりの日本映画界のなかで、深田監督が今まで歩まれてきた道や映画製作の姿勢には、これからの将来を担う若いつくり手の方々も見習うところが多いと思います。彼らに向けて、最後に深田監督からアドバイスなどがあれば伺いたいのですが。

深田
若い監督にはよく言うのですが、自分がつくりたい映画を撮り続けたいのなら、どうすればそれを続けられるのかを意識してほしいということです。どうすれば資金を集め、映画をつくり続けられる体制を構築できるのか。あるいは、たんに自分が勝つためにサバイブするのではなく、後進のための良き環境をどのようにしてつくれるのか。そういったことを意識してほしいと思います。

(聞き手・文・構成=野本幸孝)

深田晃司
1980年生まれ、東京都小金井市出身。大正大学文学部卒業。99年、映画美学校フィクションコースに入学、習作長編『椅子』など自主制作した後、05年、平田オリザが主宰する劇団「青年団」に演出部として入団。06年、19世紀フランスの小説家、バルザックの小説を深澤研のテンペラ画でアニメーション化した『ざくろ屋敷 バルザック「人間喜劇」より』を監督。08年、青年団の劇団員をキャストにオムニバス長編映画『東京人間喜劇』を公開。10年、『歓待』を発表。11年、第一回こまばアゴラ映画祭を企画・開催。12年、映画の多様性を創出するための互助組織、特定非営利活動法人独立映画鍋を有志数人と設立し現在、共同代表理事。13年、『ほとりの朔子』公開。15年、平田オリザ原作の『さようなら』公開。16年、『淵に立つ』が第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員賞を受賞。17年、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。18年、インドネシアを舞台にした『海を駆ける』公開。同年、フランスで芸術文化勲章「シュバリエ」を受勲。作品のノヴェライズも手がけ、小説「淵に立つ」(16)、小説「海を駆ける」(18)に続き、「よこがお」(KADOKAWA刊)も書籍化されている。

深田晃司監督の新たなる衝撃作『よこがお』予告編

深田晃司監督の新たなる衝撃作『よこがお』予告編

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ストーリー

訪問看護師の市子は、その献身的な仕事ぶりで周囲から厚く信頼されていた。なかでも訪問先の大石家の長女・基子には、介護福祉士になるための勉強を見てやっていた。基子が市子に対して、密かに憧れ以上の感情を抱き始めていたとは思いもせず――。ある日、基子の妹・サキが行方不明になる。一週間後、無事保護されるが、逮捕された犯人は意外な人物だった。この事件との関与を疑われた市子は、ねじまげられた真実と予期せぬ裏切りにより、築き上げた生活のすべてが音を立てて崩れてゆく。すべてを失った市子は葛藤の末、自らの運命へ復讐するように、“リサ”となって、ある男の前に現れる。

■出演:筒井真理子/市川実日子 池松壮亮/須藤蓮 小川未祐/吹越満
■脚本・監督・原作:深田晃司
■原作:「よこがお」(KADOKAWA刊)
■配給:KADOKAWA
■2019/111分/カラー/日本=フランス/5.1ch/ヨーロピアンビスタ
©2019 YOKOGAO FILM PARTNERS & COMME DES CINEMAS

7月26日(金)より、角川シネマ有楽町、テアトル新宿他全国ロードショー