郭仁植は1919年4月18日、韓国慶尚北道達城郡玄風面上洞(大邱)に生まれた。そして今年2019年「生誕100年郭仁植展」が韓国国立現代美術館(果川)で開催されることとなった。日韓併合、あるいは朝鮮併合されたのは1910年8月29日、日本による朝鮮半島の統治が始まり、1945年9月9日までの35年間、朝鮮は日本の植民地とされていた。こうした時期、郭が幼少期のころから青年時代の26歳になるまでの間、彼は日本統治下の文化に育った。日本統治下の影響下で韓国人であった郭は1937年来日し、日本美術学校(2018年閉校)に入学し、1942年に中退で帰国するまでの間に日本画壇に影響されて油絵を学んでいる。一旦故郷の大邱に帰国し、そして1942年に三中井画廊で個展を開いている。再度来日したのは1950年になるが、亡くなる1988年の3月3日(享年68歳)までの38年間は東京の稲城市にアトリエを構え制作を続けていた。私と郭との出会いは1975年に開催された東京の大阪フォルム画廊での個展会場だった。当時私はまだ多摩美術大学の学生であったが同郷の静岡県静岡市の同大学の先輩、「グループ幻触」の主要メンバーであった鈴木慶則(1936-2010)(私の中学時代の美術教師でもある)の紹介によるものだった。その場には美術評論家の石子順造(1928-1977)も同席しており、私と韓国との出会いもここから始まったと言っていいだろう。その後郭が亡くなるまでの13年間近く私は彼の制作の手伝いをさせて頂いた。

こうした経緯からも私は2年ほど前に韓国国立現代美術館のキュレーターに「生誕100年郭仁植展」を提案し、実現に至ったのだが、私が「生誕100年郭仁植展」を思いついたのは2016年に開催された「第10回釜山ビエンナーレ」「an/other avant-garde china-japan-korea」(「中国・日本・韓国の前衛」日本側のキュレーターは椹木野衣、アシスタント上田雄三)がきっかけだった。少なくとも「日本・韓国の前衛」の作家選考を行うえで、韓国側からか、あるいは日本に在住していたので日本側からか、郭が選考されるべきであると私は考えた。しかし思惑通り、郭は日本からも韓国からも選ばれることがなかった。またそれ以前「もの派-再考」(もの派以前のグループ幻触の展示も開催された。2005年 国立国際美術館、大阪)でも郭の展示は外されていた。何故、郭が選ばれることがなかったのか、やはり両国の美術史に郭の作品の位置付けや評価が不確定で、過少評価されていたことがその要因の一つではあるが、両国の研究者の認識不足も多くあったと思える。しかし見えない歴史も歴史として、見える歴史は見えない歴史によるものが多いことからも「生誕100年郭仁植展」を通じて、日韓の美術史に貢献できたら思う。韓国側のキュレーターたちは惜しみない努力を積み重ねて200点近い重要な作品を日本国内、韓国国内から多く集めることで展示が可能となった。展示された殆どの作品が日本で制作したにも関わらず、日本国内ではその殆どを見ることができない、郭の全貌を本展で紹介することができたことは日韓の美術史の空白を埋める新たな歴史(真実)となるだろう。

1962年頃から始めたガラスを割って制作したガラスの作品を紹介しよう。

「ガラスは割らないと作品にならない、ガラスは破られることで、ガラスの役目(機能自体は失われる)を終えるが、割ることでガラスは作品になる。」以前郭は私に禅問答のようなこのような話しをしてくれたことがある。ガラスの作品には多くの謎が含まれているが、実際郭がガラスを割り出した頃、郭は「祖国平和統一・南北文化交流促進文化祭」、「連立美術展」、「合同演劇発表」、「南北文化人による文集」(1961年)を通じて祖国の平和を願いながら運営委員として活動を続けていた時期と重なる。こうした時期、朝鮮半島が分断されている時期に、偶然かもしれないが郭は多くのガラスを割っている。割れたガラスは二度と元には戻らない、ガラスを割る行為「破壊と接続」を繰り返すことで分断された朝鮮半島、自国の運命を憂いでいたのではないかと私には思えてならない。

郭はその後に大きな和紙を太鼓張りに貼り、大工が使用するノミの刃先で円状に裂いた作品を制作。

「紙の『円』は、切れているともいえないし、つながっているともいえない。『円』といったが『円』でもないともいえる。またタブローでも、彫刻でもない。ただの物である。」(「物と言葉」- 第10回サンパウロビエンナーレに出品 1969年)と郭は語る。

石を割って再び元に戻す作品、点を打つ石、粘土の状態で、ピアノ線を使用して二つに裂き、自然の力に任せて、再び接合させるが二つの隙間が乾燥の状態でずれて、そのまま放置した作品、そしてそれらを1200度の電気釜で焼き物にした作品。70年代後半からは和紙の表裏から青墨や墨を筆で点を打つ作品。80年代にはカラフルな彩墨で同じように表裏に点を打つ。60年代に精力的に制作された、真鍮の板を歪めたり、傷つけたりした作品、ガラス、石、土、和紙の作品に共通することは最低限度の行為で、その物の素材を活かす、その素材の特性を記すことで事物のありようを郭は実験し、提示している。その即物的な独自の見せ方、作法は、仏教に見られる「即」の世界観に通底するものである。仏教の「即」とは2つのものが融合し離れないこと。表面上は別の物に見えても表裏一体とし。ある物がそのまま他の物であること。郭は物を使用しながらも、物と物の「関係を見せる」ことではなく物自体との「関係を超える」といつも語っていた。郭は物の本質を見抜いていた。

本展では郭の「破壊と接続」そして「即」による物の「関係を超える」世界を見ることができる貴重な展覧会となった。韓国国立現代美術館の後に、本展は郭の故郷の大邱美術館に巡回する、1942年に郭は大邱市の三中井画廊で個展を開いているが、77年の時を経て個展が開催される。     郭の生きた証、日本と韓国を「接続」する郭の世界がようやく記される。

「生誕100年郭仁植展」

2019年6月13日- 9月15日
韓国 国立現代美術館 (果川) 

2019年10月16日- 12月25日
韓国 大邱美術館(大邱)

Work 62 glass, panel 1962 collection of National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea

work 真鍮 brass 1965 collection of MMCA

物と言葉 Mono to Kotoba Washi, 130.4x130cm(left) 86x86cm(right) 1968(10th The Bienale de São Paulo)

glass

Untitled stone from Tama river in Tokyo 1976

Work 1978 ceramic, 1978

Work 83 C 和紙、彩墨 Washi, Saiboku 183x473cm 1983

Work 85-5-10 和紙、墨 Washi, sumi-ink 183x480cm 1985

和紙、彩墨 Washi, Saiboku

Quac Insik 郭仁植 (自宅付近にて 稲城市ー東京)     撮影:片山摂三 / photo by Katayama Setsuzo