劇伴と「仮当て」について
根岸
今回は楽曲が3曲とも素晴らしかったけれど、劇伴はきだしゅんすけという、過去にも塩田組を手がけたことがある方。劇伴をつくってもらう前に、編集過程で編集部含め監督が音楽を仮当てすることってたまにあるじゃない。僕はほぼやらないけれど、今回、塩田は割合当てていたよね。もちろんそのままでは使えないので、最終的にはまったく違うオリジナルの曲が付くんだけれど、ある程度編集が固まった段階で、音楽を仮当てするなかで、モグワイの曲を当てていたところがありましたよね。あれが、編集ラッシュ段階でプロデューサーを含めた女性スタッフにやたらと好評で。きださんにはモグワイはモグワイとして研究してもらった上で、まったく異なる曲をつくってもらったわけなんだけど、やはり響きの感じなどには影響を受けている気配もあって、非常にうまくやっていただけたかなと。きださんによれば、モグワイの楽曲はコード進行が少なく、テリー・ライリーとかにも通じる反復音楽ではあるんだけど、難しいコードはあまり使わない。カッコいいフレージングの繰り返しで実にアーティなんだけど、今回の3つの楽曲の勢いをそがないというか、寄り添えていける構造だったと。劇伴はそうした点を意識しながらつくってくれた。
塩田
今はデジタルで簡単にできてしまうのでみんなやるんだけれど、劇伴ができていない段階で編集ラッシュに既成の音楽を仮当てしていくという作業は、実はやらないほうがいい。僕も『どろろ』(07)のときに1回だけやったけれど、これはやらないほうがいいという結論に達して、それ以降、編集中に音楽を仮当てするのは一切やっていないんだよね。ただ、今回だけは、あまり台詞のないシーンが続いていくなかで、その折々にライブシーンがある。このライブシーンの音楽と劇伴が相殺してはいけないので、音楽を一切つけないということも含めて、どういうことが可能なんだということをある程度探らなければいけなかった。
根岸
だから今回は実験と検証としてやったということだよね。シマが喫茶店でドバイの話をする過去のシーンで初登場するとき、ジョン・コルトレーンの曲を付けていたじゃない。あれはやはりその後の楽曲に対し、すごく抑圧を与えていたよね。
塩田
すごい抑圧かどうかは分からないけれど、劇伴にしろBGMにしろ、何かが際立ってくると良くない。できるだけ、気がつけば鳴っていたというところに持っていったほうがいいと思う。
根岸
でもモグワイの曲ってあれだけ際立っている音響なのに、3つの楽曲にはほとんど影響を与えなかったのは不思議といえば不思議だった。やはりコード進行の少なさとか、難しいコードを使わないということが関係しているのかなと。音楽の専門用語では「否和声音」というらしい。
塩田
そのあたりの理屈はよく分からないけど、モグワイがかかっていたのは大阪で「さよならくちびる」を歌っているところから、劇伴に乗り変わって、ホームレスに肩を揉まれている女性のエピソードにつながっていくところ。その同じ曲が、最後にラストライブが終わって、東京に向かっていく夜明けの車の車窓のシーンでかかっているんだよね。我ながら本当に不思議だったのは、まったく違う意味とまったく違う情緒のシーンに同じ曲がかかって成立しているというところ。
根岸
そうだよね。仮当てしたのはモグワイの『Come on Die Young』(99)というアルバムの「CODY」って曲なんだけど、ちょうどそのアルバムのプロデューサーがデイヴ・フリッドマンなんだよ。
塩田
えー! そうなんだ。『SAPPUKEI』をはじめとしたナンバーガールのプロデューサー。
根岸
だからナンバーガールの解散にインスパイアされた今回の『さよならくちびる』とは直接的には関係ないんだけど、そういう思わぬ偶然の繋がりがあった。
塩田
この映画が完成した直後にナンバーガール再結成のニュースが飛び込んできたりもして(笑)。偶然とはいえ、いろいろと繋がっている気がする。
根岸
あいみょんの新曲「1995」は彼女の生まれた年であると同時に、ナンバーガールが結成された年でもあったし。このあいだ行われた日本武道館でのワンマン『AIMYON BUDOKAN -1995-』も、ナンバーガールの解散ライブのときと同じように、期せずして塩田、北原、瀬戸、僕の4人が揃ったしね。レコード屋のシーンの仮当てでは、ジェームス・ブラッド・ウルマーの曲を付けていたよね。
塩田
ジェームス・ブラッド・ウルマーのなかでも、最もポップというかソウルに近い音楽を付けたね。
根岸
そのあたりもきださんは塩田監督の意を汲んで、まったく違う感じの曲ではあるけど、あのレコード屋に流れていてもおかしくはない感じの曲をつくってくれた。きださんに言わせると、ジャミロクワイを意識したらしいけど。
塩田
僕が仮当てしたウルマーの曲は80年代後半から90年代初頭の音楽なんだけれど、その当時にあえて70年代風の音楽をやっている曲を付けてみたんだよね(笑)。だから、少しでも70年代が絡むとハマるなあと思っていたんだけど、プロデューサーたちからは「70年代はやめてくれ」と言われて(苦笑)。
根岸
特に一番言われていたのは、ハルレオのライブの際の入場曲で2回使ったニール・ヤング(笑)。あれなんかはまさに70年代風で、僕も曲自体は好きだけど、あそこにあのハーモニカが鳴るのは得策ではないとずっと言っていた。それもまた、きださんがうまくつくってくれたよね。
塩田
あれはきださんに、冒頭のタイトルバックにかかる曲が実は入場曲でしたという構成でつくりたいとオファーをして、案外うまくいったんだよね。
根岸
でも、あの劇伴は最後の入場曲のときが一番合っていた気がする。最初の出だしは、ドラムが強すぎるのかなと思ったり、若干違和感があった。それはこのあいだ観た立川の極上音響上映でも思ったし。あの曲自体ははまっているけど、勢いが強すぎるかなと。ただ、3回繰り返して出てくるので、最後はすごくグッとくる感じになる。あの劇伴はシマの趣味という雰囲気を表しているんでしょ?
塩田
そう。シマがハルレオの入場曲としてチョイスした既成音楽という背景設定。
根岸
シマの音楽性はレコードのジャケットを説明したり、そういう入場曲をBGM風に流してみたり、ジープのなかからも聞こえてきたりと、背景でさりげなく感じさせる。ミニマリズム的な手法だったよね。
塩田
僕にはよく分からないけど、80年代っぽいらしい。あの劇伴が一番最初に映画のなかでかかる音楽じゃない。確かに、僕も最初は違和感があった。あそこの違和感をどう捉えるのかというのがあって、違和感のまま終わるのではまずいんだけれど、それが引っかかりになって、最終的にラストライブのところでうまく機能していく。最初はずれている感じだったのがだんだんはまっていく。それはそれで、音のドラマとして面白くていいなと思ったんだよね。
根岸
80年代風というのは案外狙ってたのかもね。イナタイ感じっていうか、今そういう音がむしろ流行っているし。最初に塩田が入れていたのはシャインヘッドの「ジャマイカン・イン・ニューヨーク」でしたっけ? スティング「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」のレゲエ版。なんだかLAが舞台のバディもの=刑事ものみたいなノリで「そんな映画でしたっけ?」というのは正直あったけど。
塩田
映画のなかで最初にかかる音楽が、その映画のエモーションの方向性をディレクションしてしまう、方向づけてしまうところがあるので、慎重に仮当てをしていたんだけれど、一番最初にかかる音楽だけがどこまでいってもはまらなかったんだよね。70年代のライ・クーダー風の音楽をかければはまることは分かっていたんだけれど、それだけはやってはいけないと思っていたので、ずっと避けていた(笑)。それで何か他の手はないかと探し続けて、結局ディレクションをしないという結論に達したんだよ。きださんのあの劇伴が最初に違和感を感じるのも、「えっ、これが映画のノリなの?」という感じがするからじゃないかな。よりエモーショナルではない音にしていったというか。
根岸
作品全体のバランスのなかでは楽曲が主役で、その3曲を繰り返し12、3回歌うわけだから、劇伴はサイドディッシュなんだけれど、所々で狙っているところもあるので、そこをうまくきださんや北原さんにやってもらって本当にありがたかった。あと、オールラッシュまでの過程で、何度かラッシュを観ているときふと気づいたのは、楽曲の歌詞が、ときどき台詞に聴こえるときがあるんだよね。塩田監督がどこまで狙っていたのかどうかは別にして、これってつまりミュージカルじゃないかと。音楽映画なんだけれど、大事な台詞は普段の芝居のときにはやらずに、先ほど塩田監督が言っていた和解や謝罪という感情も含めて、ハルレオとシマの3人が歌詞のなかでそういうやりとりを交わしているように見える。ラッシュのバージョンによっては、そう見えるときがあったり、見えなかったりもして、それがすごく面白かった。
塩田
それはやっぱり秦基博さんやあいみょんさんが書いてきてくれた詩の良さにインスパイアされているところも大きいと思う。
根岸
でも、それも脚本家塩田明彦の書いたシナリオを読んで、そこからピックアップして出来上がったんだろうね。「煙草」という言葉も入っていたし、秦さんは相当深く読み込んでいたと思う。あいみょんはもうちょい直観的に攻めてきている感じだったけど。
塩田
そうだね。だからいい意味でキャッチボールができていたと思う。ハルレオの初期から中期の曲をあいみょんさんがつくって、最新の曲を秦さんがつくっているというのは、バランスとしても素晴らしい。最初のあいみょんさんはより生っぽくダイレクトな主張があって、それがハルレオを決定づけていくし、そこから最終的にはもう少しソフィスティケイトされていくという。