ポーランド映画界の新たな才能アダム・グジンスキ監督の映画『メモリーズ・オブ・サマ ー』が、6 月1日よりYEBISU GARDEN CINEMA、UPLINK吉祥寺を皮切りに全国順次公開されます。

アンジェイ・ワイダ、ロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキ、クシシュトフ・キェシロフスキなど数多くの名監督を輩出し、近年、パヴェウ・パヴリコフスキ(『イーダ』『COLD WAR あの歌、2つの心』)、 アグニェシュカ・スモチンスカ(『ゆれる人魚』)と次々に実力派監督を生み出すポーランド映画界において、アダム・グジンスキ監督は、新たな才能として、注目を浴びる監督です。

デビュー短編『ヤクプ』 (97)がカンヌで絶賛されたアダム・グジンスキ監督。1970年生まれの彼が自身の体験をもとにつくりだした本作『メモリーズ・オブ・サマー』は、子どもと大人の狭間で揺れる12歳の少年の目を通して、忘れられない一夏の記憶を観る者に鮮烈に焼きつけるに違いない。

この度、シネフィルでは来日したアダム・グジンスキ監督にインタビューし、監督作『メモリーズ・オブ・サマー』についてはもちろん、ポーランド映画界の現状に至るまでお聞きしました。

『メモリーズ・オブ・サマー』

アダム・グジンスキ監督インタビュー

アダム・グジンスキ監督
photo by Shion Saito

――本作はあらゆる事象が主人公であるピョトレック少年の心情や内面と緊密に結びついた、精巧で簡潔な非常に力強い作品だと思います。とりわけ、ピョトレックが湖で出会った少年がお守りにしていた虫入りの琥珀が象徴的だと感じました。作品自体が監督の子ども時代の記憶や感情、また子どもの持っている純粋さを封じ込めた琥珀や宝石のようです。

トリュフォーやフェリーニをはじめ、多くの映画監督が子どもをテーマにした名作を生み出してきましたが、「子ども」という未分化な存在に魅せられる理由は何ですか?また、映画と子どもの関係について、監督ご自身が思うことはありますか。

アダム・グジンスキ:(以下、グジンスキ)
私は大学時代に撮った習作から、すでに子どもの視点から見た世界を描いていました。そのときに自問したのです。なぜ子どもが自分にとって興味深い対象であるのだろうと。そのときに出した答えは、子どもは大人よりも物事をはっきりと見つめているからだ、ということです。彼らは曖昧な灰色の部分を残さず、世界を感情的に見つめています。その眼差しを通して大人の世界や子どもたち同士の世界を見つめることで、より明瞭な世界を描けるのではないかと考えました。今もそう思っています。トリュフォーが子どもを描いたのは、自身の子ども時代を清算する意味もあったでしょう。また、フェリーニやダルデンヌ兄弟、あるいはタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』(62)など、様々な世界の映画監督が子どもの視点から世界を描いていますが、私もまた彼らに倣いつつ現在に至っています。

© 2016 Opus Film, Telewizja Polska S.A., Instytucja Filmowa SILESIA FILM, EC1 Łódź -Miasto Kultury w Łodzi

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――演出について伺いたいと思います。本作では世界を見つめる視点である主役の少年(マックス・ヤスチシェンプスキ)の切迫感溢れるリアルで瑞々しい演技が非常に印象的です。彼は今回が映画デビュー作ということですが、彼を起用した経緯や理由を教えていただけますか。また、彼のような非職業的俳優と、今回脇を固めているベテラン俳優とでは、演出の際にどのような違いがあるのでしょうか。

グジンスキ:
本作では合計8人の子どもたちをキャスティングする必要がありましたが、主人公である少年役を見つけるまでには2年間かかりました。まずプロデューサーの提案でウッチにある学校を当たったのですが、残念ながら適役は見つからず、最初の1年目は探し出すことができませんでした。そこでいったん企画全体を延期し、改めて翌年の夏休みに探したときに、ようやくマックスを見つけたのです。彼が演じる少年役はほかの子どもたちとは絶対的に異なる存在でなければならない。彼をキャスティングした理由は、彼の存在自体がある種の真実を伝えていると感じたからです。また、彼はある状況のなかに入り込むことができました。そして集中力が高く、以前に演じたものと同じ演技を繰り返すことができる。これはプロの俳優であってもなかなかできることではありません。何百人という子どもたちと出会ったなかで、いっさい妥協することなく彼を選びました。

彼のような非職業的な俳優とプロのベテラン俳優との演出についてですが、これはまったく違います。マックスの場合には、もともと「真実」というものが彼のなかにあります。その場合の演出とは、その真実をある感情の方向へと導いていくことです。それに対して、プロの俳優への演出というのは、彼らは誰かの「ふり」をすることを仕事としている人間ですから、そのような「ふり」をさせることなく真実を引き出すことがプロセスとして必要になります。具体的にいえば、本作ではマックスに全体のシナリオを読ませませんでした。彼が作品や物語全体を理解する必要はありません。ただ撮影の前に、この場面ではこういう感情をもって動いてほしいと彼に言葉で説明すればいいのです。それに対して、プロの俳優たち、特にマックスの母親役を演じた女優ウルシュラ・グラボフスカとは撮影前に長い時間をかけてディスカッションを行いました。映画全体がどのような物語になっていて、彼女がどのような女性像をつくらなければならないかをともに話し合ったのです。ですから、この両者に対する演出はまったく別のものだといえますが、それぞれ非常に面白いものでした。

photo by Shion Saito

――本作はまた、ポーランド映画の巨匠であるイエジー・スコリモフスキ監督の『アンナと過ごした4日間』(08)や『エッセンシャル・キリング』(10)を手がけたアダム・シコラが撮影を担当しています。その映像の素晴らしさはもちろんですが、それ以上に印象的だったのが「音」です。部屋の中から遠く聞こえてくる人々の歓声やレコードの音楽、あるいは線路を走る汽車の警笛や雨音。それら耳に聞こえてくるあらゆる音が少年の心情や内面を反映し、密接にリンクしている。映画における「音」がもたらす効果やサウンドデザインについてはどのようにお考えですか。

グジンスキ:
私にとって「音」は非常に重要です。ある意味で、それは物語の主人公といってもいいと思います。本作にはいわゆる「劇伴」のような、説明的な音や音楽というのはいっさい出てきません。そうではなく、むしろドラマツルギー的な意味として、音楽=歌の歌詞が大変重要になってきます。その歌詞は、女性のなかに生まれてくるある感情を表しているからです。そもそも私は、人間=観客というのは聞くべきものに耳をすませる、つまり、「これは聞かなければいけない」というものに耳をすませるようにさせることが、映画における正しい音の使い方だと思っています。音のすべてを再現するのではなく、これだけ聞こえてくればいいというものを観客が懸命に聞くという聞き方にしたい。したがって、音を選別することになります。本作の音を作り上げるのには3か月かかりました。例えば、犬が遠ざかっていく音や列車の音など、それらをある状況や雰囲気を暗示的に表現できるような音として設計するために大変な苦労がありました。

photo by Shion Saito

――それまでの少年の視点から、踏み切りを挟んで母子が対峙する最後の場面に至って、母親から見た少年の視点へと切り替わります。おそらく本作で最も力強く、衝撃的な瞬間だと思うのですが、前述の「音」に対して、そのような映画における「人称」や「視点」という点についてはどのように捉えていらっしゃいますか。

グジンスキ:
まさにおっしゃるとおり、あの場面こそ映画における「視点」をどのように使うかということの最も良い例になると思います。本作はすべて主人公である少年の視点から見ているわけですが、あの最後の瞬間に初めて「母親の眼」になります。そこで観客は、少年のなかで何が起きていたのかを初めて見ることができる。少年のなかにあった真実を母親である彼女が初めて直視する瞬間が、視点の切り替えによって表現されているのです。それまではすべて少年の視点で撮られていますから、少年が経験した様々なことは、我々観客には実体化したものとして見ることができずに、少年の内的な感情として共感するかたちで見ています。しかし、あのラストの強烈な線路の場面に至って、少年のなかに何かが起こっているのだということを、観客は「母親の眼」によって初めて見ることができる。観客に初めて外部の視点から見るチャンスが与えられるのがあの場面なのです。より簡潔に言えば、本作の99パーセントは少年の映画ですが、最後の1パーセントだけ母親の映画になるといえるでしょう。

© 2016 Opus Film, Telewizja Polska S.A., Instytucja Filmowa SILESIA FILM, EC1 Łódź -Miasto Kultury w Łodzi

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――そのような視点の演出に関連して、本作とはまったく対照的だと思いますが、ハリウッド映画などに見られる観客を「感情移入」させる演出に関してはどうお思いですか。

グジンスキ:
ハリウッド映画の演出というのは、観客に対してどうすればこのような効果が現れるのかということをすべて計算し尽くしたある図式に則って、それを素早いテンポや画面転換を反復させることで成り立っています。それに対して、我々のような「作家主義」的で、ある意味でマイナーな映画作品というのは、概してハリウッド的な映画よりも困難なテーマを取り上げて描こうとする。結果として、観客にとって単純で気持ちの良い映画というよりも、より複雑な映画言語を使った映画になるのです。例えば、日本の小津安二郎監督の作品などもそういえるのではないでしょうか。彼の映画もまた、人間同士の関係性というものを非常にゆったりとした、反ハリウッド的ともいえるテンポと映画言語で描いています。

photo by Shion Saito

――次にポーランド映画の歴史や作家性について伺いたいと思います。アンジェイ・ワイダ、ロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキ、クシシュトフ・キェシロフスキなど、第二次大戦後ポーランドの映画界は世界的に活躍する優れた映画監督を輩出しています。グジンスキ監督も著名なウッチ映画大学のご出身で、ヴォイチェフ・イエジー・ハスに師事されていたということですが、このような優れた映画作家が生まれる社会的、文化的な土台や下地のようなものはあるのでしょうか。もしくは、ポーランドの映画作家に共通している資質があるとすれば、それはどのようなものだとお考えですか。

グジンスキ:
いま名前を挙げられたポーランド映画の巨匠たちのことを考えながら映画をつくることはとても重要です。なぜなら、彼らが活躍していた時代の映画と現在の映画とでは、まったく異なるものになっているからです。現在のポーランド映画というのは、当時とはまったく異なる時代や条件のもとでつくられていますが、そこに通底している伝統を忘れてはいけません。ご指摘されたように、私はハス監督のもとで映画を学びました。また、キェシロフスキは私が最も敬愛する映画監督のひとりでもあります。ただ残念なことに、彼は私が大学在学中に心臓発作で亡くなったため、直接お会いすることはかないませんでした。

彼らポーランド映画の巨匠たちに共通する特徴とは何かというと、ワイダは別扱いしたほうがいいと思います。ポーランドの民主化運動や独立自主管理労働組合「連帯」についての作品を例に挙げるまでもなく、彼の映画の特徴はポーランドの伝統そのものであり、ポーランドとは何かという「ポーランド性」です。彼はポーランドというテーマを深く掘り下げ、それを映画言語に置き換えました。それに対して、彼以外のポランスキーやハス、キェシロフスキなどの監督たちは、ある普遍的なテーマを探しつつ観客とコミュニケーションを図ったといえるでしょう。

photo by Shion Saito

――ポーランド映画は以前と状況が異なっているというお話でしたが、最後に現在のポーランドにおける映画づくりの製作環境について伺えますか。

グジンスキ:
まず順を追って説明しますと、1998年がひとつの転換点だと思います。この年以前まではポーランド映画にとって非常に厳しい時代で、年間を通じて8本しか映画が製作されない年もありました。毎年ポーランドのグディニャで「グディニャ映画祭」という、新作映画を中心に表彰する国内最大の映画祭が開かれるのですが、年間製作本数が8作品しかないのなら、映画祭自体が開催できないのではないかといわれた時代があったのです。しかし、2005年に「ポーリッシュ・フィルム・インスティチュート(ポーランド映画芸術研究所)」という国立の映画機関が設立されました。この機関に映画館収入の一部やテレビ局から数パーセントの売上を納入するという法的仕組みがつくられたため、そこからいわゆるマイナーな作家主義的映画の企画に対して資金が提供されるようになったのです。資金援助を受けるためには、著名な映画監督などから構成されている委員会による審査を通過する必要がありますが、例えば、新人監督のデビュー作ならばおよそ予算の80パーセントがこの国立機関から提供され、残りの20パーセントを自分たちで調達するかたちになります。このような仕組みができたことによって、数多くの新人監督たちが自分たちの映画を製作することができるようになりました。機関の援助なしで採算が成立する非常にコマーシャルな映画作品ももちろんありますが、作家主義的な映画に関していえば、この国立機関ができたおかげで、少なくとも財政的には映画製作のできる良い環境ができたといえます。

(聞き手=角章・野本幸孝)

(文・構成=野本幸孝)

photo by Shion Saito

アダム・グジンスキ Adam Guziński
1970年、ポーランドのコニンに生まれ、14歳の頃、父親の仕事の都合で中央部のピョートルクフに移る。ウッチ映画大学でヴォイチェフ・イエジー・ハスの指導を受け、短篇「Pokuszenie」(96)を発表。続いて、父親のいない少年を主人公にした短編『ヤクプ Jakub』(97)がカンヌ国際映画祭学生映画部門で最優秀映画賞を受賞したほか、数々の映画祭で賞を受賞する。本作は、2007年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現国立映画アーカイブ)で開催された「ポーランド短篇映画選ウッチ映画大学の軌跡」でも上映された。
短篇「Antichryst」(02)を手がけた後、2006年、初の長編映画となる「Chlopiec na galopujacymkoniu」を発表。作家の男とその妻、7歳の息子の静かなドラマを描いたこのモノクロ映画は、カンヌ国際映画祭のアウト・オブ・コンペティション部門に正式出品された。
『メモリーズ・オブ・サマー』はグジンスキ監督にとって長編2作目となる。

© 2016 Opus Film, Telewizja Polska S.A., Instytucja Filmowa SILESIA FILM, EC1 Łódź -Miasto Kultury w Łodzi

『メモリーズ・オブ・サマー』予告

映画『メモリーズ・オブ・サマー』予告編

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アダム・グジンスキ監督・脚本:アダム・グジンスキ
撮影:アダム・シコラ
音楽:ミハウ・ヤツァシェク
録音:ミハウ・コステルキェ ビッチ
出演:マックス・ヤスチシェンプスキ、ウルシュラ・グラボフスカ、
ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ
2016年/ポーランド/83分/カラー/DCP
原題:Wspomnienielata
英語題:MemoriesofSummer
配給:マグネタイズ
配給協力:コピアポア・フィルム

6月1日(土)より、
YEBISU GARDEN CINEMA、UPLINK吉祥寺ほか全国順次ロードショー