それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその風景は別の何かの風景にーーおそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景にーー結びついているのだ。
そしてその結果、それらの風景は僕らの意識を押し広げ、拡大する。僕らの意識の深層にあるものを覚醒させ、揺り動かそうとする。
だからこそある種の風景は、たとえ現実的な有用性を欠いていたとしても、我々の意識にしっかりとしがみついて離れないのだ。
(村上春樹『使いみちのない風景』より)

「甘えんじゃねーよ」。

劇中で稲垣吾郎が演じる炭焼き職人の紘は、訳あって帰郷してきた元自衛官の瑛介(長谷川博己)に何度もこう言い放つ。それは周囲に迷惑をかけないように何事も自分ひとりで任を負う瑛介に対する言葉であり、もう一人の幼なじみである光彦(渋川清彦)がすぐさまかける「それって意味逆じゃねーの」というツッコミのとおり、実は「水くせえこと言ってねえで、少しは俺たちに甘えろよ」という意味で使われている。でも、紘は素直にそう言えないのだ。素直にそう言いたくない、あるいはそう言ってしまうことで生まれる相手への、そして自分への気恥ずかしさ。

© 2018「半世界」FILM PARTNERS

言葉とは裏腹に、「不惑」とはと惑い揺れる年齢なのだと思う。40年という歳月は、今まで歩んできた自らの道=世界がすべてだと思い込んでしまう傲慢さや無責任を埃のように身に溜め込む。と同時に、その道とは別の道があったのではないかという自責の念をも抱え込む。もうすぐ不惑の年を迎える男たちは、それぞれに「もうひとつの世界(=半世界)」を生きていることを知っている。だからお互いの領域には立ち入らず、それぞれの立場、それぞれ生き方を思いやり、尊重する。それこそが大人であり、自由なのだと自らに言い聞かせながら。しかし、それと同時に不惑になって改めて気づくのは、生きるとは他人に迷惑をかけ、その領域に足を踏み込み、日々汚れ、塗れることにほかならないということだ。

だから、瑛介の頑なな態度を見て、紘はなかば照れ隠しのように言ってしまう。「甘えんじゃねーよ」と。決して軽んずることなく、お互いに尊重しながら、でもやっぱり、困っているときには甘えてほしい。理屈では割り切れない人間の意地と可笑しさ、悲しさ。この国の長をはじめ、誰もが恥も外聞もなく、ただ今ここの利益と欲望のみを追求する現在にあって、本作はもう忘れ去られて久しい「含羞」という色がどのようなものであったかを思い出させてくれる。

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〈人間の尊厳とリアリティを追求してきた監督〉阪本順治は、そのような尊厳が持つ含羞と意地という性質、そしてその土壌となる世界とそこに生きる人々の不屈を描き続けてきた。阪本作品における「世界」とは単なる場所を指すだけでなく、すべからくそこで生きる人々の生活と人生が分かち難く結びついた「居場所」であり、そこから見える「風景」のことだ。ボクサーのカムバックを描いたデビュー作『どついたるねん』(1989)に始まり、その名の通り大阪の「新世界」を舞台に、そこに生きる人々の生を風景のなかに活写した初期の「新世界三部作」。その掉尾を飾る『ビリケン 』(1996)では、通天閣という場にいないとただの「置物」になってしまう神様(杉本哲太)が現れ、人々の願いを叶えるために阪神淡路大震災後の風景のなかを駆けめぐる。

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その姿から滲むのは、何度倒れたとしても、人々の生活と信念があるかぎり風景は生まれ、世界は必ず立ち上がるという確信だ。母親の葬儀の日に喧嘩のいざこざで妹を殺してしまった『顔』(1999)の藤山直美や、連れ添ってきた夫の突然の死に直面した『魂萌え!』(2006)の風吹ジュンもまた、それまで生きてきた世界が崩壊した後に、自らの手で必死に世界を再生させていく。『顔』の藤山直美は、自らが犯した罪を「許してもらわなくてもいい」と言い放つ。後の『大鹿村騒動記』(2011)で大楠道代に引き継がれることになるその言葉は、罪を犯すことでしか獲得し得ない生と自由があり、そのなかにこそ女たちのぎりぎりの尊厳があることを物語る。一方で、そのような尊厳がこの世界に見出し得ぬとき、それは『この世の外へ クラブ進駐軍』(2003)で日本の若きジャズマンたちが戦場へと赴くアメリカの兵士たちへ送ったように、「この世の外」へ向けられた音楽=祈りとして、あるいは『団地』(2015)で一人息子を失った夫婦と父親から虐待を受けている少年が旅立つ「宇宙」として現出するだろう。

では、もはや失う生活すらない、尊厳なき人々はどのような風景を見るのか。『鉄拳』(1990)のラストにおける決闘シーンの荒野や、二人の男の砂漠と化した心象が剥き出しになった異形の傑作『トカレフ』(1994)の風景がそれにあたるだろう。なかでも、『闇の子供たち』(2008)で繰り返される、『トカレフ』でのゴミ袋に捨てられた子どもや、新聞の山がうずたかく積み上げられた佐藤浩市の部屋の禍々しい風景は、すべてを拒絶しているがゆえに、見た者に忘れることすら拒絶する。そして、そのような風景の拒絶は本作において、実家の扉窓をすべて閉ざすことで自らを内なる風景へと封じ込めた瑛介によって、再び描かれることになる。

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風景と分かちがたく結びついた世界。幼なじみの三人が森林に埋めたタイムカプセルもまた、そのときの時間と風景をひとつの世界のなかに封じ込める。それはつまり、「映画」そのものだ。所詮、どこまで行っても意地は片意地で、世界は半世界のまま。紘の妻・初乃(池脇千鶴)の息子に対する意地も、その息子・明(杉田雷麟)の意地も、そして三人の男たちが抱えた意地も、皆それぞれにぶつかり合い、留守番電話に残された声のように、人は半世界にしか生きられないことの可笑しさと悲しさを骨身に伝えてくる。不惑の私もまた、それらの片意地と半世界のあいだで右往左往しながら、これからも戸惑い続けることだろう。だが、真っ直ぐにしか進めないややこしく面倒なそれぞれの意地が接点を結び、三角の形をなすこともある。映画というタイムカプセルに封じ込められたその形と風景を、いつも心にとどめておきたい。

『ぼくんち』(2002)の母親(観月ありさ)は、自らのもとを離れて旅立つ幼い息子に「私がタイムカプセルになってあげる」と言う。いつの時代も、私たちは使いみちのないタイムカプセルを埋め続ける。そこにはつねに変わらぬ風景が眠っている。だから恐れることはない。何度でも立ち止まり、またそこからカムバック=再生すればいいのだ。父と息子によって炭焼き小屋へと歩を進める風景が再び反復されるように。流れ続ける時間のなかで、年齢を重ね、見返すたびに異なった表情をして私たちの前に現れる映画のように。それはいまを生きる人々にとっての、そしてこれからの未来を担う人々にとっての現在となって、つねに新たな息吹をもたらすのだから。

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阪本順治監督✖️稲垣吾郎主演、
長谷川博己✖️池脇千鶴✖️渋川清彦で贈る
希望という名の物語。

哲学的な想像力を掻き立てられる『半世界』と名付けられた本作は、阪本順治のオリジナル脚本による26本目の監督作。世界は市井の人々の小さな営みでできているという監督の視点のもとに、諦めるには早すぎて、焦るには遅すぎる39歳という年齢の男三人の友情物語は、複数のエピソードを交えながら、やがて命の通った夫婦のドラマとしても結実していく。
長閑で風光明媚な三重県の南伊勢町を中心にオールロケを敢行。「人生半ばに差し掛かった時、残りの人生をどう生きるか」という誰もが通るある地点の葛藤と、家族や友人との絆、そして新たな希望を描く。

ストーリー

40歳目前、諦めるには早すぎて、焦るには遅すぎる。
大人の友情と、壊れかけの家族と、向き合えずにいる仕事ー。
〈愛〉と〈驚き〉が、ぎゅっと詰まった映画です。

「こんなこと、ひとりでやってきたのか」。山中の炭焼き窯で備長炭を製炭し生計を立てている紘は、突然帰ってきた、中学からの旧友で元自衛官の瑛介にそう驚かれる。何となく父から 継いで、ただやり過ごすだけだったこの仕事。けれど仕事を理由に家のことは妻・初乃に任せっぱなし。それが仲間の帰還と、 もう一人の同級生・光彦の「おまえ、明に関心もってないだろ。 それがあいつにもバレてんだよ」という鋭い言葉で、仕事だけでなく、反抗期の息子・明にも無関心だったことに気づかされる。やがて、瑛介の抱える過去を知った紘は、仕事や家族と真剣に向き合う決意をするが…。

『半世界』本予告 2019年2月公開

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脚本・監督:阪本順治
出演:稲垣吾郎、長谷川博己、渋川清彦、池脇千鶴、小野武彦、石橋蓮司
2018年/日本/119分/カラー/ビスタ/5.1ch
製作・配給:キノフィルムズ
宣伝:モボ・モガ
© 2018「半世界」FILM PARTNERS

2019年2月15日(金)より、TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開