「私たち」が物語るとき

この映画は、精神を病む母親と暮らす9歳の子供マチルドについての映画だ。子供は、フクロウを飼っていて、そのフクロウは、人間の言葉を話す。

主人公マチルドが、フクロウと話し始めるシーンを見たときに、「アッ」と思った。子供の頃に、自分は、やはり、心の中に架空の友達を設定して生きていたことがあるからだ。その「友達」の話すことは、当然、自分で考えているわけだから、「自作自演」なのだが、「彼女」は実在感を持って、そこにいて、私は、「私」としてではなく、常に「私たち」として生きていた。「彼女」は、この映画のフクロウのように、私より賢く、少し、超越的な存在で、私は、マチルドのように、「彼女」の力を使って、いつも、「誰かを救い出そう」としていた。その誰かは、今思えば、「仲違いした両親に挟まれて、孤独を感じている自分自身の甘ったるい投影」だけれども。そして夜に見る夢や他の妄想や現実と、「彼女」は、共存し、深く影響を及ぼしあっていた。この映画が、マチルドの現実の母親との破綻寸前の生活と、「湖に沈み、閉じ込められている自分」の妄想と、フクロウとの会話を、同列に描きマチルドの世界を描き出すのを、「ああ、こうだった、確かに。一人なのに、とても、みっちりしていて、彩り豊かで、獣と寝るように生暖かく、充実しきっているのだ」と思いながら、見た。

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

精神病院に入院する母親との別れに際して、「母親から自分への詩」を自分で作り、母に読み上げてしまう、マチルドの描写に笑ってしまう。私も、そのような子供だった。自分が追い詰められる予感の先に、先回りして先回りして、言葉によって、現実を作ろうとするのだ。そのようにして、武器として日常的にフィクションや言葉を使うことで生き抜こうとするのだ。

十代になると、自分が死ぬ/生き返るイメージをいつも頭に思い浮かべていた。この映画のキーとなる、溺死するオフィーリアのイメージが好きで、あの有名な絵をテート美術館まで見に行ったし、その映像を自分の体を使って再現しようと試みた。映画らしいものを作ろうと、繰り返し繰り返し試みた。恥ずかしい。でも、つまるところ、私自身の内面のそのようなイメージと、家族との関係がテーマとなり、映画を作るための衝動となってきたのだ。

そして、今、人より夢見がちなところのある幼児を育てている母親となってみれば、まるで、自分の子供の時と同じように危うくゆらぎ続ける娘の内面を、なすすべもなく心細く見守るだけだ。親であることは、なんて、不安で心細いんだろう。私は、子供にこのような思いをさせていないだろうか。彼女の妄想や想像の中に、落ちる私の影は、奇妙で暗いものになっていないだろうか。

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

しかし、この映画は、こうした子供にありがちな「幻影との、ぬくもりある、やりとり」のみを描くことに終始するわけでもないのだ。終盤に向けて、この映画は飛躍する。幻影に閉じ込められているはずの彼女が、いびつなあり様はそのままに、青年に成長してしまうからだ。彼女に、わざと、少女らしい、子供っぽい格好をさせていて、苦労した若者特有の、実際の年齢よりも成熟してしまった顔と衣装が、かみ合わず、とても、いびつな若者だ(この映画の衣装担当の仕事は、隅々まで冴えていて、怖いくらいだ)。そこまでの映画は、まるで、大人である彼女の回想、(彼女の主観による回想)であったかのように、彼女の表情には「現在性」があり、ハッとさせられる。「彼女は彼女自身の人生の本当の始まりに、今、立っている」というリアリティが宿っている。

大人になった彼女は、幻影としての親から解放されて、実際の親と対峙することを選ぶわけだが、そのことによって閉じ込められた「子供としての自分」から、大人の自分を解放すること。現実とは向き合えない親、その物語に、子供の側から、絡んでいき、自分の物語として捉え直すこと。「私を見て。たとえ、通じ合えなくとも。私たちは、ともに、個々に、そこに存在する、それぞれに肉体に閉じ込められた魂」。それを示せるのは、ダンスだ。

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

ダンスを見て、私が最初に作った8ミリ映画を思い出す。誰も住まなくなった自分の生家をモチーフにしたものだ。冬の寒々とした廃屋に、子供のときに見ていた風景、妄想が、現在のその家の光景で組み立てられる。両親の離婚や、納戸に住んでいると思っていた幽霊や、日曜日の朝、廊下に落ちる、冬の光、モーツァルトのピアノ曲。そして、突然、「現在」の私がベランダに立ち、庭を歩いてくる「現在」の父親を見下ろしているショットに変わり、いきなり、父親に向かい、飛び降りる。カメラは、主観ショットになり、死んで横たわった「私」が生き返り、立ち上がり、廃墟となった家をくぐり抜け、ドアから外に出て、すごい勢いで、生家から遠ざかっていく。取り残された庭の木々には、春の花が咲き始めている。

この映画で、私は、高所から突然飛び降りる自分の肉体に「現在性」を宿そうと必死だった。ノエミ・ルヴォウスキーにとってのダンスのようなものだ。私にとっては、そこが、映画作りのスタートだった。

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

苦しい時に、フクロウと子供がなんども繰り返すフレーズ、「明日は、勝利を我らにもたらさん」。主人公の9歳の子供が予感したのは、彼女に「勝利」をもたらすであろう、「明日と、それ以外のすべての日々」だ。私の中の「彼女」は、いつの間にかいなくなった。小学校高学年になると、(つまり、11歳になった時には)「彼女」は、既にいなかったように思う。社会性の急速な発達によって、私が、それを必要としなくなったからだろう。心の中は、好きな男の子と現実の友達たちとのやりとりで、いっぱいになった。しかし、作る映画の中に、「彼女」は、繰り返し、現れ続ける。ノエミ・ルヴォウスキーにとっても、私にとっても、難しい愛を生き抜くことと、フィクションを作ることが、渾然一体となったあの世界こそが、映画の源泉なのだと思う。

木村有理子(きむら・ありこ)
映画監督。慶応義塾大学環境情報学部卒。角川映画に勤務後、映像制作をしながら、文芸誌『ユリイカ』などに映画評を寄稿。主な監督作品に『犬を撃つ』(2000年カンヌ国際映画祭正式出品)、『わたしたちがうたうとき』(2012年ソウル国際女性映画祭招待作品)、『くまのがっこうのみゅーじかるができるまで』(2012年ドキュメンタリー)。

フランスで90万人動員の実力派監督・女優ノエミ・ルヴォウスキーが母に捧げた色彩豊かでファンタジックな自伝的物語。

ノエミ・ルヴォウスキーは前作『カミーユ、恋はふたたび』(12)がフランスで90万人を動員する大ヒットを飛ばした人気監督であり、セザール 賞に7度もノミネートされた名女優。
本作では監督を務めながら、情緒不安定な母を熱演し、自らの子ども時代を詩的な表現で紡ぐ。マチルド役は初演技にして豊かな表現力を見せた新星リュス・ロドリゲス、そしてマチルドを優しく見守る父役を監督・出演作『バルバラ セーヌの黒いバラ』(17)が話題のマチュー・アマルリックが演じ、作品に温かみをもたらしている。

© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

ストーリー

孤独ではみだし者のマチルド。
はじめて出来た友だちは小さなフクロウ。

フランス、パリ。ちょっと変わり者のママの突飛な行動に振り回され、学校でも友人ができず孤独な日々をおくる9歳のマチルド。ある日、ママ が小さなフクロウを連れてきた。驚くことに、フクロウはマチルドに話しかけてきた......。理知的な言葉を投げかけながら、ピンチに陥ったマチ ルドを守るフクロウはまるで守護天使のよう。幸せに見えたのも束の間、やっぱりママは騒動を起こしてしまう......。母と娘のユニークなエピソ ードが、ポップな色彩で、詩的に描かれる本作。親子の絆を痛感させる切なくファンタジックな展開が、観る者に優しい余韻を残す。

映画『マチルド、翼を広げ』予告編

youtu.be

監督:ノエミ・ルヴォウスキー
脚本:ノエミ・ルヴォウスキー、フロランス・セイヴォス
出演:リュス・ロドリゲス、ノエミ・ルヴォウスキー、マチュー・アマルリック、アナイス・ドゥムースティエ
2017年/フランス/フランス語/95分/カラー/1:1.85/5.1ch
原題:Demain et tous les autres jours/英題:Tomorrow and Thereafter
日本語字幕:手束紀子
後援:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
配給:TOMORROW Films.、サンリス
宣伝:サンリス
© 2017 F Comme Film / Gaumont / France 2 Cinéma

2018年1月12日(土)より、新宿シネマカリテほか全国順次公開