世界のインディペンデント映画祭の中で、最も有名で歴史のある「レインダンス映画祭」が、9月26日より10月7日まで今年も英国ロンドンで開催されます。

前々から、日本のインディペンデントの映画を評価してくれているこの映画祭では昨年も、オープニング作品として平栁敦子監督の『オー・ルーシー!』が選出され、話題をあつめたが、今年も、メインとなるコンペティション部門の10作品で日本からは、カンヌ国際映画祭シネ・フォンダシオンで世界にデビューし、初長編作に挑んだ井樫彩監督の『真っ赤な星』と同じく映像ディレクター ・関根光才による初長編『生きてるだけで、愛。』がノミネートされています。

この度、シネフィルではレインダンス映画祭の創設者であり、世界のインディペンデント映画界の立役者であるエリオット・グローブさんに様々な質問をお送りし、お答えいただけました。

世界の映画界の数十年の流れから、世界に旅立つ監督になるための方法なども含めお聞きしました。前、後編という形で、緊急掲載いたします。

映画産業の主流派が製作するお手軽作品に”けり”を入れた結果、続いたレインダンス映画祭

レインダンス映画祭が今年で26回になりました。おめでとうございます。

 恐縮です。1993年の時点で、レインダンスが四分の一世紀も続くなんて思ってもいませんでした。これは人々が映画産業の主流派が製作する型通りのお手軽作品にけりを入れた結果だと、私は思う。

自己紹介をお願いします。映画に興味を持ったきっかけはなんですか?また、経歴も教えてください。

「イエス・キリストが復活した時、映画館にいるところを見つかったりしたくないよね」。私はカナダのオンタリオのメノナイト(田舎で共同生活をしているキリスト教派の一つ、アーミッシュはここから分かれた)の一家に生まれ、「悪魔が住んでいるから」という理由で映画館に行くことを禁じられていた。 ある暑い八月、農場で必要な部品を近くの村へ買いに行かされた。待ち時間が三時間になりそうなのと、天気のいい午後で、ポケットにコインがいくらか入っている16歳の子供なら誰でもすること、つまり悪魔がどんな姿をしているか見に行った。
 99セント支払って中に入ったら、まるで教会のように椅子が正面を向いて並んでいた。上述したように、私は映画が如何なるものか全然知らなかった。映画館には行くなと言われていたのだから。座席について、照明が消え、カーテンが開き、年端もいかない16歳の少年の目に映った最初の悪魔の顔は「家路」(訳注:コリー犬を主人公にした“ラッシー”シリーズの第1回作品で1943年に公開)だった。赤ん坊のように泣き、終わるとスクリーンに走ってラッシーの毛の肌触りを確かめようとした。すっかり魅了されてしまった。
 年月が経ち、私はロンドンで途方に暮れていた。1991年に地価の値崩れで全財産を失い、落ち込んでいた。ぶらぶらしている私を見た年上の友人が「どんな名医だって、自己憐憫に陥っている患者はなおせないよ、エリオット・グローヴ君」と言った。その忠告の意味を知りたくて、「何をしたらいいんだろう」と尋ねると、彼の答えは「君の大好きなことをやるんだよ」だった。
 
映画に関するトレイニングも、娯楽産業の背景も知識もまるでなかったが、映画は大好きだった。「家路」は私に衝撃的な影響を与えていた。これを念頭に、もともとは思考実験のつもりで、レインダンスを始めた。経験もなく、トレイニングも受けてなく、金もないのに映画を作れるだろうか。
あの頃、多くの人々がほとんどないに等しい予算で映画を作っていた。脚本家、監督、製作者、俳優たち——初期にはポール・ブルックス(「マイ・ビッグ・ファット・ウエディング」の製作者)、製作者ジェレミー・ボルト(「バイオハザード」)、私の最初の助手エドガー・ライトは「フィストフル・オブ・フィンガーズ」、クリス・ノーランは「フォロウィング」を手がけた。予算は極小だけど、高い評価、または興行的成功を得てしかるべき映画が多数あった。 
 レインダンスは変革者には何が起きるかというかっこうの例になった。初期に成功したら業界からはそねみ、さげすまれ、経済的安定と他者に受け入れられための長い闘いが続いた。そして、既存勢力へ挑戦する新たな変革者が出現する最終段階がきた。
 多分、トレイニングを受けてなく、経験もないということが私に味方したのだろう。そのために私は早い時期に里親、革新者とならざるを得なかった。そして、これこそが失敗する映画祭の多い中で、レインダンスをユニークなものにしたのだ。

 私が思うに映画祭で成功するには二つのこと、すなわち才能と金が必要です。10月の第三週には、ロンドンに多数の国際的な業界人が集まることに気付いていた。第三週はMIP-TV(国際映像コンテンツ見本市)と今はやってない映画市場MIFED(ミラノ国際映画見本市)のはざまの週なのです。映画製作者たちが新作映画数本を見る機会を逃すはずがないとわかっていたので、レインダンスを10月に開催することにした。私の次の挑戦は才能を得ることだった。
 26年間は映画祭が存続するには長い年月だ。
私がレインダンスを始めた時代は百万ドルという結構な額の金が必要だった。
映画はすべて35ミリで撮影されて映画館に運ばれた。それからホームビデオが登場し、その後は投資家もかなりの配当を得る機会を持つようになった。
 ついでデジタル革命がおき、映画製作だけでなく、配給にも多大な影響を与えることとなった。
 

だが、今でも変わらず、そして今後も変わらないものがある。人々は私にどんな種類の映画がレインダンス映画祭に選ばれるのかと尋ねます。それは簡単、過激なストーリーや話題、過激な映画製作技法です。レインダンスではストーリーがすべて、ただし過激なまでに良質でなければならない。

レインダンスの創設者エリオット・グローヴ氏
世界的に著名なレインダンス映画祭やブリティッシュ・インディペンデント・フィルム・アワードの創始者。これまでに短編長編合わせて700本以上の作品をプロデュース。

レインダンスのスタートは手元にあった100ポンドのお金で、
100枚のファックスを送るところから始まったー

レインダンス映画祭が存続できた方法、理由を教えてください。

 1993年5月、私はヴァラエティ誌のカンヌ製作ガイド号の古本を手にしていた。レインダンスにふさわしいと感じた百本の映画題名に丸をつけた。チャールズ皇太子に夜の回に鑑賞してもらえるように手配し、昼間の上映はピカデリーにあるオリジナルのプラネット・ハリウッドで行った。
 映画祭を始める資金として、手元に百ポンドあった。当時、私はチェルシーのグラフィック・デザイン・スタジオとデスクをシェアしていた。スタジオには一回1ポンドのファックス・マシーンがあった。1ページのプレスリリースを作成し、映画会社百社にファックスを送付した。期待に胸を躍らせていると、半分から返事が来た。「ギルバート・グレイプ」のワールド・プレミアも含めてね。

 こうやって映画を手繰り寄せた。なぜならカンヌで開かれるMIP-コムとミラノの今はなきMIFEDの中間の週という好時期に開催したからだ。この時期にしたので、二つのイベントに参加するヨーロッパの国際買い付け担当重役が参加できることになる。映画祭は才能だけでなく、世界プレミアのための金銭もかかわってくる。

個人的に特に興味のあるエピソードがあったら教えてください。

 私はいつも業界の支援を得ようと奮闘してきた。変革者ということは、普通あるべき初動資金がないということ、公的な資金による映画ファンドの門番の心を動かすような実績もない。今と違って、ロンドンで活気あふれる映画マーケット付きの国際映画祭が実現可能とは認識されてなかったんだろう。

1994年、ビデオ映写の一番最初の一般公開があった。サラ・ジェイコブソンが極小予算でビデオ撮影した「メアリー・ジェーンはもう処女じゃない」(Mary Jane's Not a Virgin Anymore)がそれだ。

1995年 危機状態が三年目に入り、ほとんど破産に近かった。どれだけひどかったかというと、多くの作品をソーホーのパブの地下室でベッドシーツの上に映写したほどだ。

1995年、レインダンス・ウェブサイトの開設[http:web.archive.org/web/20010429190719/http:www.state51.co.uk/raindance/]
 イギリスにおける最初の一つ。4ページで「現在地」「上映作品」「チケットの入手方法」「レインダンスについて」を紹介。

 1998年最初の映画予告編を作成

6th Raindance Film Festival Trailer (1998)

www.youtube.com

 21本のレインダンス予告編を見てください。私はそれらを誇らしく思っている。
https://www.youtube.com/watch?v=9dpQf5lQj_o&list=PLORfEDKMvjjvNNdkJv5Q4O6T6diGXigqB

 1998年 BIFA(ブリティッシュ・インディペンデント映画賞)
 私は1998年にイギリス映画と製作者を称賛する賞 [www.bifa.film] を設立した。ブリティッシュという言葉を使うことで国会ともめた。で、偉大で素晴らしい人々、例えばケン・ローチ、マイク・リーのような人々の支援の手紙30通を集めなければならなかった。最終的にこのイベントをブリティッシュ・インディペンデント映画賞と名付ける許可を得た。

1999年 「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のヨーロッパにおける最初の映画祭上映。当時、ヨーロッパの配給権を持っていたパテがドイツに権利を売った。配給会社が上映に参加し、ダニエル・マイリックとエドゥアルト・サンチェス監督もセレブが集まった上映会に出席。友人たちが「上映に参加することはマダム・タッソーの蝋人形館に行くのと少し似ている」と言った。

 1999年は重要な年となった。デジタル革命が勢いを得た年だ。映画祭はわずか6年目だったが、レインダンスが生き残るためには革新しなくてはならないとわかっていた。幸運なことに私はその年のBIFA授賞式でマイク・フィギスと出会い、彼が、製作費がほとんど何もないところから作られた映画を紹介する偉大なポップアップ映画のアイデアを示唆。冬の間じゅう、そのアイデアがすごいと考え、マイク、私、そしてユアン・マクレガーのような連中がソーホーにある質素な地下の事務所に集まって計画を練った。結局、その企画は断念したが、今でも私はタイムリーなアイデアだったと思っている。

2000年
「メメント」ここロンドンで初上映された別の作品。レインダンスのその年の目玉フィルムメーカーはクリストファー・ノーランだった。彼は上映に参加し、最後に彼(と彼のママ)を映画館から送り出した。その時ママが「素晴らしい映画だったわ、クリス。でも何を言いたかったの」と言うのを聞いた。

2007年
 アイルランドの無予算映画「ONCE ダブリンの街角で」を見た。これがもとでクラッシュのミック・ジョーンズ主演でブロードウェイ・ミュージカルとなってヒットした。私はミックのプライベートなギグの一つで、彼と知り合ったプログラマーを通じてミックと会った。ミックは新しい才能と仕事をするのが好きで、映画ファンでもあった。その年、ギブソン・ギターがスポンサーで開幕の夜にトップ・ギターをプレゼント用に提供してくれた。私はミックにも提供してくれるかと聞いたら、断られた。でも、幸運な当選者が登壇すると、ミックは飛び上がり、ギターをプレゼントした。それは彼が奏法を学んだギターのコピーだった。上映後に彼は「フォーリング・スローリー」が頭の中でなり続けていると語った。もちろん、その曲アカデミー賞主題歌賞を得た。

2007年はレインダンスのインターンだったイヴァナ・マッキノンが去った年。彼女はギリーズ・マッキノン(訳注・「ウイスキーと2人の花嫁」の監督)の娘でフィルム4に所属、そこで働き始めて、「スラムドッグ$ミリオネア」を製作に参画した。

2011年
 レインダンスは常に斬新な映画トレイニングのリーダーたらんとしている。スタッフォードシャー大学と提携して大学院学位講座を始め、すぐに称賛を浴びるようになった。200人強の学生それぞれに脚本執筆、映画、ウェブ・シリーズ、VRを製作する進路を提供することができたのだ。

2013年、私たちはウェブ・シリーズの急増に着目し、ウェブ・フェストを始めた。当時のヨーロッパでは第一号だった。

2014年 
 BIFAの成功からわかったことだが、映画製作者にはパーティ好きが多い。そこで私たちはフィルムメイカーズ・ボールを始めた。カンヌ映画祭の二週前にロンドンで、トロント国際映画祭期間中にトロントで。

2016年 VRXを発足。
 ヴァーチャル・リアリティ(VR)の出現は映画製作技術にとって百年前に音声が映像に加わった時以来の最も重要な進歩である。2016年9月、第24回レインダンス映画祭においてVRXを発足、今では独自のVRX賞を授与するまでに成長し、形式の異なるすべてVRのトレイニング機関として成功を収めていて有望だという評価も得た。

世界のトップクラスの映画祭の一つの創設者として、何年もの間に、あなたの子供すなわちレインダンスが変わってきたと感じますか。もしそうなら、どうやって変わったのか、できることなら何か別のやり方をしたいですか?

 1990年代初め、映画を撮ろうと思えば大体百万ドルは必要だった。35ミリで撮影し、完成すると比較的容易に映画館にかけられ、そのあとホームビデオ、地上波TV放映という流れになる。
 1992年、ロバート・ロドリゲスが「エル・マリアッチ」をほんの数千ドルで作って製作費百万ドルに挑戦した。
 それからデジタル革命が起きた。製作費はほとんどゼロにまで下がり、映画市場はデジタル映画であふれた。製作費はドラマティックに下がった。

 2015年2月15日が映画産業にとって重要な日となった。
この日、YouTubeコム[https://www.whois.com/whois/youtube.com]が登録され、YouTubeによってすべての映画配給モデルは影響を受け、変わった。

 そして2016年11月に、ニューヨーク・タイムズがVRアプリのNYTVRをリリース、すべての新技術はオタクの世界から主流が認めるものへと飛躍を遂げた。

映画祭を、誰もが話題にし、フィルムメイカー、監督、プロデューサー、男優、女優が参加することを夢見るような、世界クラスのイベントたらしめるために、最も苦労する点は何でしょう。

 映画祭を成功させる唯一のやり方は声をはりあげること。どんなタイプの映画を上映するのか、その分野で最良の作品か、映画祭は最良のコンテンツを提供できるのか。
 早い時期に私が学んだことは、良質でない作品を作った友人に対してどういう風に「ノー」と言うかということ。映画祭の評判を落とす最速かつ最適なやり方は良質ではない友人の映画を上映することだ。
 信頼おける審査員が偉大な作品を引き付けるもう一つの方法だ。いわゆる有名人を審査員に迎えること。これは彼らのプロファイルにもプラスになる。

我々のキャッチコピーは”発見せよ、発見されよ”
受賞監督に共通する三つの基本的な特徴ー

レインダンスに受け入れられる映画をどうやってさがすのか

 何度もこの質問をされたね。初めに、今日レインダンスで上映されるのは60本に1本の割合いということを言いたい。これは成功の象徴でもあるし、すべてのファイルを管理しなければならない事務方にとっては悪夢でもある。どの作品も世界中の最良の作品と戦わねばならない。我々のプログラマーもどの映画祭のプログラマーも同じく、自分が気に入り、観客のお尻を座席にくぎ付けさせると考えた映画を編成する。

 レインダンスに選ばれる映画は、過激であることが求められる。フィクションであれ、ドキュメンタリーであれ、過激なトピック、ストーリーは極限まで押し進められなければならない。過激な映画製作技法、過激な条件下での撮影、そしてもちろんレインダンスにおいて最重要なことは、過激なまでに楽しめることだ。

 私が言おうとしているのはストーリーが語られなければならない、それも引き付けられるストーリーでなければならないということだ。

賞を受賞するような映画監督をどうやって見つけだすのですか、若手監督に何かアドバイスはありますか
 
 受賞監督には三つの基本的な特徴がある。
彼らは映像でストーリーを語る能力に優れ、自分自身の卓越したユニークなスタイルを展開する。
例えば、タランティーノとケン・ローチの間にはスタイルに大きな違いがある。だが、それぞれ際立った独自のスタイルを持っている。そして最後になったが、彼らはコミュニケーション能力が優れている。彼らは理路整然、情熱的に自分のビジョンを投資家、キャスト、クルーそしてもちろん映画観客に伝達することができる。

自分の人生や思考様式に影響を与えた監督、フィルムメイカーとの記憶に残る出来事、あるいは経験がありましたら教えてください。フィルムメイカー、製作者、男女優らとただただ忘れ難い経験をしたことはありますか。

 肩書にこだわるフィルムメイカーは嫌いだ。彼らはスタッフに要求ばかりする。どんな小さなことにも文句を垂れ、唯一の関心事は自分自身だ。彼らは映画祭で簡単に見分けられる。着ている服でね。みんな黒服で建物の外でも内でも、昼でも夜でもサングラスをかけている。

 私はいまや有名フィルムメイカーとなった人々と会う幸運に恵まれた。彼らは365日、週7日、24時間、自分自身の中にある種のパッションを保持している。私はそれが好きだ。そしてまたみな腰が低い。

 でも彼らの名前を紹介するより、長い年月の間に出会った数百人の同じように有能なフィルムメーカーに話を絞ろう。有名人と同じように才能がありながら批評で褒められることもなく、あるいは興行成績が良くなかった(もしくは両方の)フィルムメイカーについて。レインダンスは彼らのためにある。1993年から我々のキャッチコピーがDiscover. Be discovered.(発見せよ、発見されよ)となっているゆえんだ。

毎年、レインダンス映画祭は日本映画を数本選んでいます。日本人にとって選ばれることはとても光栄です。日本の若いフィルムメイカーに、日本からどんな種類の映画をは望んでいるかのか、示唆してくれませんか。
 

視線を地面から上空に向けよ。偉大なアイデアを提案せよ。そして映画に対する自分のアイデアが大胆、新鮮で革新的なものかを自問せよ。それまで誰もそのアイデアを考え付いていないか。もしそうなら、みんながそれを見たいと思うはず。

これまでで、本当に印象的だった日本の映画、もしくはフィルムメイカーがいましたか?

2017年、私が気に入った数本の日本映画を上映した。オープニング・ナイト映画となった「オー・ルーシー!」には感動させられた。LAでも一部が撮影され、英語台詞が半分あった。とても有能な平栁敦子が脚本を書き、監督していた。
 マイク・ロジャースの「ゴーストダンス」は東京のアングラ音楽シーンがどんなものかを教えてくれ、観客の反応もすごかった。

2017年の選出に関するすごい記事はここ。(http://www.mymbuzz.com/2017/09/13/52533/)

1999年、三池崇史の「オーディション」を上映。
 2001年、レインダンスは三池崇史の「ビジターQ」のような作品とともにラブ・シネマ・シリーズをプレミア上映した。

もし私が日本人フィルムメイカーで、私の映画がレインダンスで選出されたとしたら、自作を多くの人に見てもらうにはどうしたらいいでしょう。我々の映画を大多数の観客に見てもらう方法があったら教えてください。

 映画がレインダンスに(あるいは他のどの映画祭でも)選ばれたら、スクリーンの両側でやることは多い。映画祭側の仕事は多くの観客に映画を鑑賞してもらえる機会を提供すること。フィルムメイカーの方は観客が愛する映画を提供すること。

 フィルムメイカーは十分なマーケティング材料を用意すること。予告編、ポスター、映画の話題に関連したブログ。同時に非常に大切なのは、映画とフィルムメイカーのソーシャル・メディアだ。
映画祭での上映の日々を共有し、すべての人々に自分がいま街にいて自作が上映されると発信すれば、映画祭が上映チケットを売る手助けになる。

 マイク・ロジャース、映画「ゴーストダンス」を撮った日本のフィルムメイカーは、文字通り自分の映画のためのデモをして、完売にした。事実、レインダンスは観客の要求にこたえて三回目の上映を追加したほど。こうした広報の離れ業はとても効果的だが、時間がかかる。

未来の映画産業はどうなっていると思いますか。5年後、10年後、20年後は?

映画産業は複合フォーマットを持つマルチプラットフォームに移っていくだろう。これはゲーム産業に負うところが大きい。これについて、私は一冊の本を書けるほどだが、ここでは簡潔に語るとしよう。
 
 多くの人が映画館は絶滅すると思っているが、私はそうは思わない。たしかに、ネットフリックスで映画をレンタルしたり、TVで映画を見ることはできる。ちょうどスーパーマーケットで食料を購入して自宅で調理するように。この譬えをもう少し続けてみると、人はなぜレストランに行くのか、なぜバー、酒場にいくのか、家で飲み食いできるのに。人が映画館に行くのはそれと同じ理屈だ。他人と経験を共有したのだ。これこそが映画館がこれからも存続する理由である。

 変わったのは映画館に配送される内容だ。ロンドンでは、ウィンブルドンでテニスの試合がある時、ロビーが芝でおおわれている映画館がある。センター・コート(スクリーン1)のチケットを買えるし、別のコート(スクリーン2)のも買える。あたかもウィンブルドンにいるかのように試合を鑑賞することができる。もぎり係は本当のテニスコートのようにイチゴやシャンペンを給仕する(訳注・ウィンブルドンのオールイングランド・クラブではイチゴが名物となっている)。
イベントシネマは急速に増えており。ロイヤル・オペラやバレエも世界中の映画館で演技を見ることができる。 劇的に変わったのはテクノロジーで、VR,AR,MR、XR等々、観客との相互作用がそれぞれ異なっている。映画館の伝統的な2Dスクリーン、フラッティー(VR製作者風に言えば)はVR上映フォーマットとはまるで適合しない。 

これからどうなるかは誰にもわからない。ただ一つ明らかなのは年齢、人種、肌の色、信条にかかわらず、ホモ・サピエンスはストーリーを伝える、動く映像の独創的な使用法に夢中になり続けるだろうということだ。

次回には、レインダンスを始め世界の映画祭に選ばれるコツなどを含め、より映画製作にまつわる質問の回答をご紹介します!

2018年 第26回レインダンス映画祭 予告

26th Raindance Film Festival Trailer (2018)

www.youtube.com

2018年レインダンス映画祭公式サイト
https://www.raindance.org/festival/

取材サポート協力 MIKE ROGERS
協力 夏原 健
翻訳 北島明弘