アメリカをベースに活動する俳優、Takato Yonemotoさんに会ってきた!

今回は、「47 Ronin」で俳優デビューを果たし、アメリカをベースにドラマや映画で活躍する、Takato Yonemoto(米本学仁)さんにお話を聞いてきました。

映画製作の仕事で俳優の方にお会いするのと違い、インタビューとして一対一で自分が話を伺う立場になるのは初めての経験。俳優から見た映画というのは全然景色が違うなと改めて感じました。

ロスでラーメンを食べていた所でスカウト

Takatoさんは1979年生まれで仙台出身の大阪育ち。大学卒業後、京都での病院勤務を経て2007年に映画プロデューサーを目指して渡米。ロサンゼルスで語学学校~カレッジへと進学しつつ、映像制作のアシスタントをする日々を送っていました。

そんなある日、日系スーパーマーケット内にあるラーメン屋で友人とラーメンを食べていたところ、たまたまそこに通りかかった映画関係者からスカウトされます。「演技とか興味ある?」と聞かれたそうです。日本だったらまさに原宿の竹下通りで若い女子が言われそうなセリフです。

映画プロデュースを志していたTakatoさんはその時は特にやるつもりではなく連絡先を交換した程度だったそうですが、1週間後に連絡がきてオーディションを受けてみないかとの誘いがありました。それがまさに「47 Ronin」なのですが、その段階では作品名や他の出演者の名前は伝えられていなかったそうです。

ハリウッドのオーディションを知る良い機会と思い軽い気持ちで臨んだ所、緊張もせず、自分の演技に対するキャスティングの人達の反応がすこぶる良く、率直に“楽しい”という感情が芽生えたそうです。その翌週に再度呼ばれて再びオーディション、その10日後位にはキャスティングプロデューサーから「ブダペストに飛んでくれる?」と連絡がありました。47人の浪人のうちの一人、Basho(芭蕉)役のオファーでした。

実はその時にスタッフとして声がかかっていた他の映画の話があったそうですが、そちらの監督に俳優としてのオファーがきている事を話し、「47 Ronin」を選んだそうです。その時のTakatoさんの思いとして、オーディションで“楽しい”という感情があった事、自分を一つの役として選んでもらった事に“強烈なアイラブユー”を感じていた事が、映画への出演という道につながったそうです。

「47 Ronin」撮影の日々は“一生の宝”

Photo by Frank Connor - © 2013 - Universal PIctures

2011年の春、ブダペストへ渡ったTakatoさんですが、実はこの時はまだ出演は本決定ではなく、現地でCarl Rinsch(カール・リンシュ)監督に会って最終的に決まるという話で、1週間で帰る事になるか、それとも5ヶ月に渡って撮影する事になるか、と言われていたそうです。

大作映画の為、Takatoさんがロサンゼルスでオーディションを受けていた時には既に監督は準備の為ブダペストにおり、ビデオでTakatoさんのオーディション映像を見ていただけだったとの事。ブダペストに到着後は殺陣などの稽古に入り、5,6日目位に監督と初めて会ったそうです。その時はBasho役についての意見を問われ自分の思った事を話したところ、監督は特に出演については触れずに立ち去り、これはアメリカに帰されるのかと思っていたらその日の夜に出演契約が届いたそうです。

そうして無事に出演者の一人としてクランクインを迎えるのですが、Takatoさんにとって初めての演技経験。あるシーンの撮影で、そこに立つこと、ただそれだけなのに圧倒的な存在感を放つ共演の羽田昌義さん、山田浩さんの凄みを感じ、役としてただ立つ事がこんなに難しい事なのかと思ったそうです。浪人は明日をも知れぬ命、目一杯その日を生きるのではないかと思っていたTakatoさんは、撮影の時以外にも周りの浪人役の人達と一緒に過ごし笑ったりお酒を飲んだり、一日一日を大事に過ごしていたとの事。

映画ではいくつかBashoがフィーチャーされるシーンがありました。その中でも、山中の小川でBashoが水浴びをしているところにKeanu Reeves(キアヌ・リーブス)演じるKaiとHiroyuki Sanada(真田広之)演じるOishiが帰ってきて喜ぶというシーンでの体験が忘れられないと語ります。

KaiとOishiを小川の対岸に見つけ、仲間の方に振り返って彼らの帰着を知らせるという芝居なのですが、その時に雷に打たれたような衝撃があり、自分の前にいる浪人達、自分の後ろにいるKaiとOishi、そこにいる皆とつながったような感覚があったそうです。それが堪らない感覚で、加えてそこに役として存在して立つことの奥深さ、その2つの感覚に魅了され、これからも俳優を続けたいと思ったそうです。

そのシーンについては、撮影から2年後のワールドプレミア上映の際に、Asano役で出演していた田中泯さんから「あの水浴びのシーン、すごい美しかった。」と言われたそうです。映画の中での自分の存在を認めてくれたようでとにかく嬉しかったと語ります。

日本へ帰国、家族との時間

「47 Ronin」撮影終了後は、アメリカでの学生ビザが切れた為に一旦日本に帰国。
俳優業に進む事を考えていたTakatoさんは、日本での滞在期間を自分にとって一番身近な存在である“家族”と向き合う時間にしようと考え、これまで自分が知らなかった親の過去の話を聞いたり一緒に過ごす時間を多く取り、親を一人の人間として受け止め、改めて一人の子供として親と向き合う事をしたそうです。

俳優を始めて7年「ようやく言葉を憶えて、周りとコミュニケーションできるようになった感覚」

幸運にもグリーンカード(アメリカ永住権)の抽選に当たったTakatoさんは、2013年の夏に再び渡米。アクティングの学校へ通い始め、以降ドラマやバラエティ、CM、映画への出演を順調に重ねています。

最近また新たな天地での仕事がありました。メキシコ映画「Cuando Los Hijos Regresan」への出演です。他の出演者は皆スペイン語、Takatoさんの役だけ基本的に日本語と少しのスペイン語を話すという、非常に特殊な環境。ペドロ・アルモドバル監督の作品に多数出演し、スペインのアカデミー賞と言われるゴヤ賞を4度受賞しているCarmen Maura(カルメン・マウラ)と渡り合うシーンもあり、この映画もTakatoさんにとって大きな糧になったそう。

本作は2017年にメキシコで公開され、その年の自国作品のTOP10に入る大ヒットを記録。メキシコでのプレミアの際も、Takatoさんの所には大勢のサインや写真を求める人が訪れたそうです。

2011年撮影の「47 Ronin」から演技を始めて7年。演じる事に対して「役者としては7歳の子供。ようやく俳優としての言葉を憶えて、周りと自分の言葉で会話し始め、現場でも肩の力を抜いて共演者やスタッフ達とコミュニケーションを取れるようになった感覚」とTakatoさんは語ります。

「Cuando Los Hijos Regresan」(英題:The Kids Are Back)

“ラッキー”は人生に変革をもたらす最大の武器

Takatoさんとお話して、改めて運の大切さを感じました。

何事も本当にタイミングで、特に映画の世界はタイミングの要素が非常に大きいと思っています。多くのキャスト・スタッフが一つの作品の為にガガガっと集まって撮影して解散していくので、まさにキャストが集まるピンポイントのタイミングに、監督やプロデューサー、キャスティングの目に留まらないとその輪の中に入れない。そのタイミングに、そこにいなかったり、別の事をしていたり、何かちょっとでも掛け違いがあると縁に繋がらない。

Takatoさんが初めてスカウトされた事に始まり、その時その場所、運を引き寄せる力と共にお仕事をされているなという印象を受けました。勿論、引き寄せるだけでなくそこに対して着実に成果をアウトプットしているのはTakatoさんの俳優としての努力の賜物です。

「Cuando Los Hijos Regresan」への出演によるメキシコでの反響を受け、世界中でやってみたいという意識が高まっていると言うTakatoさん。これからの自身の俳優人生に向けて、「世界中のクリエイターと遊びたい。」と語っていました。アメリカにメキシコ、今度はまた別の国、もしくは日本でTakatoさんを見られるのか、これからの出演作も楽しみにしたいと思います。

近況と次回予告

徐々に帰国の日が迫ってきました…。果たして残りの期間どんな事ができるのか、ラストスパートです。
現在、ロサンゼルスで知り合った監督志望の学生や俳優と一緒にショートフィルム制作を企画しており、次回はその制作の話などさせて頂こうかと考えています。

和田有啓
1983年神奈川県横浜市生まれ。
スポーツ取材の会社からキャリアをスタートさせ、芸能プロダクション、広告会社、コンテンツ製作会社を経て現在フリーでアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスに滞在中。
プロデューサーとして参加した⾃主制作映画「くらげくん」の第32回ぴあフィルムフェスティバル準グランプリ受賞をきっかけに、2010年にUNIJAPAN HUMAN RESOURSES DEVELOPMENT PROJECT、2011年に JAPAN国際コンテンツフェスティバル/コ・フェスタPAOにプロデューサーとして参加して各プロジェクトの短編映画を制作。
近年は映画「たまこちゃんとコックボー」「天才バカヴォン〜蘇るフランダースの⽝〜」「⼥⼦⾼」「サブイボマスク」「古都」「はらはらなのか。」「笑う招き猫」などの作品で製作委員会の組成やプロデュース、配給、宣伝などを行い、インディペンデント映画業界でのキャリアを築く。