小野耕世のPLAY TIME
ふたたび映画「デルス・ウザーラ」、または<記憶の迷路>について

前回に続いて、1975年の黒澤明監督作品「デルス・ウザーラ」公開時に私が『キネマ旬報』8月上旬号に書いた映画評の続きを、以下に記しておく。

"私にとってこの映画は、黒澤作品のなかでも最高作と思っている「蜘蛛巣城」とならんで好きな作品となった。この映画の成功は<自然>に負うところが大きい。ひとつは、文字どおりのシベリアの大自然、もうひとつはデルスに扮したムンズクという俳優のもつ<自然>。原作のイメージそのままのこの男が出ていると、彼から目を離せなくなってしまう。それほどこの役者には、自然の輝きと魅力がそなわっている。そして、これらの自然をまえにして、黒澤明が(ロングショットと長いカットのつみ重ねで)作為を排した画面運びを選んでいった必然が、見ていてよくわかるのである。
黒澤明だけがもつスケールとちからを備えたこの作品は、結論から言えば、未来へ向けての映画なのだ。その意味で、私はこの映画を字幕を読むことができる年齢から上の、出来るだけ多くの子どもたちに見てほしいという気持ちでいる。この映画のもつ最も現代的な(と私は信じる)重要なメッセージを、(おとなたちよりも)彼らは素直に理解するだろうし、それはすばらしい体験となるだろう。
コスモスの花を知らないでいることに、もはや慣れてしまっているかどうかは、実は人間の想像力にかかわることなのだが、そのことは、この映画をどう感じるかにもかかわっているのではないか。私には、久しぶりに<映画>を見たという感動があった。黒澤明は健在だった。
世界広しといえども、この映画は、黒澤明でなくては(ソ連の監督にも)作れなかったろう。これはソヴィエト映画であるけれど、まぎれもない、日本映画なのだ。"

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いま、40年以上も前に自分が映画雑誌に載せた映画評を書き写してみて、現在も、この映画に対する私の気持ちは変わっていないーと、確認することができた。1975年の初公開以来現在まで、「デルス・ウザーラ」が何かの折に上映されるたびに、私はいつも見に出かけている。他の黒澤作品に比して、再上映される機会は多くはないのだが、数年(ときには10年も)の間をおいての再上映は、この映画についての私の記憶を回復するのにちょうどいいのかもしれない。

私には、マカオに住むロシア人の画家の友人がいるが、「黒澤監督の『デルス・ウザーラ』は、自分がこれまでに見た最も好きな映画だ。それよりずっと前に、ロシア人監督による映画化(白黒作品)がなされているのだが、黒澤作品とは、まるで比較にならない映画だった。また、この原作は、ロシアでは中学の教科書に載っているから、みんな子どもの頃から知っているんだよ」と、私に語った。私自身も、この映画は日本の中学校で、生徒たちに見に連れて行くべき映画だと思っている。

それにしても、公開当時は、私より年輩のベテラン映画評論家たちのあいだで、この映画の評価がそれほどかんばしくなかったことは、私には不思議でならなかった。絶賛していたのは、映画評論家としては、まだかけだしの私くらいのものだったのではないか。だからこの映画を配給する日本ヘラルド映画の当時の宣伝部長だった原正人氏は、ロードショー上映する東京の映画館・有楽座での上映の前に、私に舞台に出て、観客に短いスピーチをするように頼んできたのだろう。舞台あいさつなど慣れていなかった私は、どぎまぎしながら、なんとか役目を果たしたことを覚えている。
それはいいのだが、そのとき来日した主演俳優ふたりへの私のインタビュー記事は、1975年の『キネマ旬報』には出ていなかったと、松竹の山本一郎氏は言われる。そんなはずは・・・では、遅れて76年の号に載ったのか?私は『キネマ旬報』の編集部に連絡して、どの号に私のインタビュー記事が載ったのか調べていただいた。すると・・・・。

おたずねのユーリ・サローミンとマクシム・ムンズクのインタビュー記事ですが、確かに1975年8月上旬号(7月20日発売)では、「7月7日に、小野耕世さんがホテルで二人に単独インタビューをしているので近日掲載」と予告されているのですが、その後の号、75~77年発行の『キネ旬』での二人のインタビュー記事はありません。75-77年あたりの、小野さん執筆の記事を探しましたが、やはり「デルス・ウザーラ」については、批評以外は見当たらず、また増刊『黒澤明ドキュメント』等にも掲載はありませんでした。当時どのような事情があったかは存じあげませんが、別の媒体でご執筆された可能性はないでしょうか。非常に不可解ですが、現状ご報告申し上げます。

という、ていねいなご返事をいただいた。すると、掲載予告まで出ながら、記事は載らなかったことになる。私はいままで、当然掲載されたものと思って、これまでそんなふうにどこかで書いたり、人に話したりしてきたのである。
ホテルでお二人にお会いしたとき、都会的なサローミン氏と並んで座っていたムンズク氏は、映画のデルスそのままに、目の前のテーブルのガラス板の下に、なにか貝殻などが埋め込まれている飾りつけに、好奇心まる出しで目をこらしていた。そして、インタビューを始めると「黒澤監督はコザック兵が背負う荷物のなか身は、当時の兵装そのままにさせたので、重くてたいへんだった。それでこっそり、監督の見ていないときに、リュクの中身をちょっと減らしたんだよ」などという話を、サローミン氏はされた。
もちろん、いつもロシア人とのインタビューのときにお世話になっていたロシア語通訳の方も来られていたし、たぶんプロのカメラマンも・・・。その大きなホテルの名はすぐには思い出せないのだが、話しながら、とてもおもしろいインタビューだったのは覚えている。その記事の掲載予告まで出ていたこともいま初めて知ったように思うのだが、当時ほかには『ロードショー』誌などにも執筆していたとはいえ、このインタビューを『キネ旬』以外に載せたという記憶はない。例えば、もしこのとき私のカセット録音機のぐあいが悪く、話の内容が録音されていなかったようなことがあったとしたら、私は覚えているはずだし、予告も載らなかったのではないか・・・。
どうもよくわからない。当時の『キネマ旬報』編集長の白井佳夫氏か、ヘラルド映画から離れた原正人氏などにうかがえば、私が忘れている事実がわかるのだろうか?でも、私がちゃんと原稿を書いたのなら、どこかに掲載されたはずだろうーなどと、自分の記憶のあいまいさに愕然としてしまう。あるいは、私にとってのなにか<不都合な真実>を隠そうとして、私のなかの防御装置が記憶を消してしまったのかも・・・。
残念ながら、ムンズク氏のお孫さんに、私のインタビュー記事は送れないでおり、また、恐ろしくて、当時の関係者にも、事情をおききできないままなのである・・・。

デルス・ウザーラ映像
https://youtu.be/k1j_OMGG1RA

小野耕世
映画評論で活躍すると同時に、漫画研究もオーソリティ。
特に海外コミック研究では、ヒーロー物の「アメコミ」から、ロバート・クラムのようなアンダーグラウンド・コミックス、アート・スピーゲルマンのようなグラフィック・ノベル、ヨーロッパのアート系コミックス、他にアジア諸国のマンガまで、幅広くカバー。また、アニメーションについても研究。
長年の海外コミックの日本への翻訳出版、紹介と評論活動が認められ、第10回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。
一方で、日本SFの創世期からSF小説の創作活動も行っており、1961年の第1回空想科学小説コンテスト奨励賞。SF同人誌「宇宙塵」にも参加。SF小説集である『銀河連邦のクリスマス』も刊行している。日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員に。