はたしてボリス・バルネットという監督の名を知っている人がどのくらいいるのだろう? 1902年、モスクワに生まれ、モスクワ美術大学の学生時代からボルシェビキの赤軍に入隊し、その後、レフ・クレショフというソビエト映画の父ともいえる存在に巡り会い、役者から監督へ、そしてスターリン時代を生き延びたのに、1965年に自殺してしまった映画監督。この知られざる素晴らしい作家性をもった監督の3作品を収録したDVD-BOXセットが今回のテーマである。

知られざるロシアの映像作家、ボリス・バルネット

 筆者が10代のときにテレビで放映された映画で、『復活』(34)というロシアを舞台にしたハリウッド映画があった。言うまでもなくトルストイ原作の映画化である。主演男優は大スターのフレデリック・マーチ。すでにグレタ・ガルボ主演の『アンナ・カレニナ』(35)で、見知っていた。
 『アンナ・カレニナ』は、クラレンス・ブラウン監督。『復活』はルーベン・マムーリアン監督。どちらもグレタ・ガルボ主演作品のメロ・ドラマを撮っており、ルーベン・マムーリアンのほうはマレーネ・ディートリヒの『恋の凱歌』も撮っている。MGMからパラマウントに貸し出されて撮ったのだろう。
 そのルーベン・マムーリアンがかつてのソ連邦に属したグルジア出身だったからか、『復活』にはやはりソ連はキエフ出身の女優、アンナ・ステンが起用されていた。アンナ・ステンは、ロシア映画学院で学び、モスクワ芸術劇場に所属して、着実に女優のキャリアを築いていたが、1931年にベルリンの大手〈ufa〉に招かれ、大ヒット映画『狂乱のモンテカルロ』や『カラマーゾフの兄弟』に出演していた。
 それを観たMGMのサミュエル・ゴールドウィンが英語をまったくできないアンナをハリウッドに招聘し、英語の猛特訓を施し、『復活』のような大作映画に主演することになったわけだ。
 長い前置きになったが、この『復活』のラストシーンで雪道をフレデリック・マーチらと歩いて行くアンナ・ステンの姿が強烈に印象に残り、日本で観れる彼女の作品作を探していたときに、今回、紹介するボリス・バルネット監督を知ったのである。

ハリウッドに招かれてロシア時代とうって変わって洗練されたアンナ・ステン。

ボリス・バルネット、25歳のときのデビュー作『帽子箱を持った少女』

 アンナ・ステンの実質的な映画デビュー作が、このBOXセットに収められた『帽子箱を持った少女』(27)。
 雪に覆われたモスクワ郊外の一軒家で祖父とふたりで暮らし、町の帽子店に頼まれて帽子の製作をしているアンナは、ときおり町の帽子屋に列車に乗って納品に行く。そんなとき知り合ったのが、寝る場所もない貧乏学生だった。
 なかなか厚かましい貧乏学生だが、雪のなか、街頭で誰彼となく泊まらせてもらえないか、話しかけている彼を見かねて、ナターシャ(アンナ・ステン)は帽子店の一部屋が彼女名義になっているのを利用して、この貧乏学生と偽装結婚して、彼女名義の部屋に強引に移り住む。
 そこでは女性店主家族が客を招いてパーティを開いていたのだが、渋々ながらテーブルからピアノまで、さっささっさと隣の部屋に移動させてしまうところがサイレント映画のスピード感と相俟って面白い。
 同じ階の一方の部屋は中産階級的な店主の部屋、その隣はベッドも机もなく帽子の箱でナターシャと学生を仕切っただけの床で寝るふたり。

泊まるところのない貧乏学生に部屋を確保するナターシャ(アンナ・ステン19歳)。

 そう、この映画はコメディなのだ。誇張と笑いが随所に織り込まれるが、カットからモンタージュまであまりにしっかりできているので、シリアスな映画のように見えてしまうくらいだ。
 女店主の夫は財布を完全に妻に握られていてお金がない。妻に小遣いをせがむがつれない。そんなとき、ナターシャが帽子代が未払いだと支払いを求めに来る。妻は夫に「これを渡して」とお金を出すが、これを夫は着服し、ナターシャにはごまかして「宝くじ付き国債」を帽子代代わりに渡す。
 ナターシャは解せないながらも、仕方なくそれを持ち帰るが、その宝くじ付き国債の当選番号が発表されると、じつは大当たりだった。取り返そうとする店主の夫。ナターシャを守ろうとする偽夫の貧乏学生。そこに彼女に横恋慕する若い駅員が絡んでのドタバタの大乱闘。

極端なフォーカス・チェンジを頻繁におこなう実験的映像もある。

 こうして偽装結婚は本物の愛となる。
 丸顔で、鼻も少しぽっちゃりしたアンナ・ステンはどこにでもいる、でもちょっと目立つ少女といった感じで、ハリウッドへ行ってからのような洗練さはこの映画にはない。でも、このコミカルな映画にはピッタリの役柄である。雪の風景は、まるで絵本に描かれたようなほど絵的であり、しかも構成的である。ただし、この美的な風景でさえもバルネットにあってはコミカルなのだ。
 演出もモンタージュ手法による映像の切り替えもうまく、25歳のときのデビュー作とは思えないほどの完成度だ。

『帽子箱を持った少女』のオリジナル・ポスター。

 ちなみにバルネットが映画界に入ったきっかけはレフ・クレショフの『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』(24)に出演したことから始まる。レフ・クレショフはロシア映画の礎を作ったような存在であり、彼のモンタージュ理論を用いた「クレショフ効果」は現在でも映画史に名を留めている技法である。
 そのクレショフのアクションとモンタージュとスピード感に満ちた大傑作映画が、上記の作品であり、彼もまたこの映画を製作したとき、まだ25歳だったのだ。

 屋内ロケと外の雪の光景といったほぼふたつの要素だけで撮られた『帽子箱を持った少女』は、後述する『青い青い海』での「海」の役割のように、まずもって「雪」の映画であり、その「雪」と人物の撮り方を観るだけでも充分に価値のある映画である。

Девушка с коробкой/The Girl with a Hatbox

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第一次世界大戦時のロシアを描いた『国境の町』

 この3枚組セットに収められた作品を年代順に追うと、次の作品はロシアとドイツの戦争、すなわち第一次世界大戦の始まりの時期を扱った『国境の町』(33)である。物語の中心となる主人公が登場しない、かといって群衆劇でもない、どちらかといえば、すでにこの連載で2回とも取り上げたロベルト・シオドマク+オイゲン・シュフタンの『日曜日の人々』(29)に近い感覚の映画である。
 まず、靴職人の工房とそこで働く人々、そして町からストライキの合図の音が鳴り響き、労働者が続々とストライキに参加してゆくところから始まる。群衆と軍隊の対峙の俯瞰映像はセイルゲイ・エイゼンシュテインの影響を感じずにはいられない。ところがこの映画は資本家と労働者の対立ではなく、そこにドイツとの宣戦布告が絡んでゆく。
 主人公のひとりである少女マーニカ(エレーナ・クジミア)の家にはドイツ人の老人が間借りしている。ロシア人の父と碁をやったりのんびり過ごしていたが、独露両国の宣戦布告によって、ふたりはいきなり対立関係に陥る。間に入って嘆く少女マーニカ。ドイツへ去る老人。戦争が個人に及ぼす無意味な悪意を描いたこのシーンは出色だ。

ドイツへ去ることになる間借り人の老人を振り返る下宿屋の娘マーニカ(エレーナ・クジミア、24歳)

 一方、靴職人の工房では二人の息子が戦争に志願する。「塹壕線」といわれた第一次世界大戦だが、「西部戦線」だけでなく、ロシアとドイツの国境でも「塹壕線」が行われていたことは、現実さながらのような迫力をもった映像で表現される。ひとつ爆弾が投下されれば、近くの兵士は土や砂埃に完全に埋もれてしまうのだ。
 『帽子箱を持った少女』が「雪」の映画だったとすれば、こちらは「土」の映画だ。同時代の欧米の映画を見回してもこれほど爆弾の投下とその影響をフッテージではなく、実写でリアルに描いた映画は少ないと思う。
 やがて多くの捕虜となったドイツ兵がロシアにやってくる。悪罵をついて唾をかけるロシア人の民衆など、あまりにリアルでスターリン独裁体制のもと、映画への厳しい検閲が行われるようになったこの時代に、よくこのシーンが検閲を通過したと不思議に思うほどだ。

捕虜のドイツ兵が、ロシアの労働生産を高めるためにマーニカの手引きで靴屋に仕事を求める。

 そんな捕虜のドイツ兵が、労働力不足によって外出の自由を認められて職探しをする。なかでも美青年のドイツ兵が、さきほどの少女マーニカと知り合い、彼女の助力によって靴製造の工房に仕事を得る。ただ、ここでもドイツ兵と知ったロシア人によって、彼は手ひどい暴行を受けるが、マーニカの必死の助けで一命を取り留める。
 戦争がいかに無意味か、昨日まで仲の良かった友人が一夜にして敵国人となってしまうナンセンスさ。そういう映画は、第二次世界大戦後はいくつも作られるが、第一次世界大戦後の時期はそう多くはない。なにしろ戦争のことは忘れて「金ぴかの20年代」(ローリング・トウェンティーズ)を謳歌しようとしていた時代なのだから。ましてやソ連のような独裁者スターリンによる国家的統制社会においては!

ドイツ兵と知ったロシア人職人に袋だたきにあうドイツ兵捕虜。助けるマーニカ。

海を描いてこれ以上の映画はないと思わせる傑作『青い青い海』

 『国境の町』の次に製作されたのが、本BOXに収められている『青い青い海』(35)だ。『帽子箱を持った少女』の雪のシーンがあまりにも素晴らしく、これ以上、バルネットに何を期待できるのか? と思っていたが、『青い青い海』は、「海」を撮った映画では、比するものがないほどの傑作である。
 海といえばすぐにF・W・ムルナウ監督の『タブウ』(31)の美しく輝かしい海を、あるいはジョン・ヒューストン監督の『白鯨』(56)での怖ろしい海、荒れ狂うのならジョン・フォード監督、ドロシー・ラムーア主演の『ハリケーン』(37)などを思い起こすかもしれない。
 しかし海を描いたあらゆる映画がまったく太刀打ちできないほどの映像美をもって立ち現れるのが、『青い青い海』なのだ。映画の冒頭から波しぶきの襲いかかる海、あるいは静寂に太陽の光を反射する海。陽が落ちる間際の海が描かれる。なにがしかのロマンティシズムなどを排した映像だからこそ、そこに海のあらゆる相貌が描かれることになる。

陽光ふりそそぐカスピ海の浜辺の家でのマーシャ(エレーナ・クジミア)。

 物語は漁業コルホーズ(集団農場)の青年ふたりが、ある漁村に手伝いにやってきて、そこで現地の少女と恋のさや当てをコメディ仕立てに描いた作品だ。少女役は『国境の町』でマーニカを演じたエレーナ・クジミナ。美人とはいえないが笑顔が愛くるしい、いかにもロシアの田舎娘といった風情。
 青年ふたりはともにエレーナ・クジミナ扮するマーシャに恋するが、一緒に漁に出たときに嵐に見舞われマーシャは行方不明となる。哀しみに沈み、葬儀が執り行われようとするときに、海から浮き輪とともに浜辺に辿り着いたのは、じつに死んだと思われたマーシャだった。
 ふたりの青年はともに求婚しようとするが、マーシャにはすでに太平洋艦隊に勤務して留守の婚約者がいた。結局、ふたりは故郷へ戻ってゆくことになる。

У самого синего моря / By the Bluest of Seas

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 面白いのはこの映画が、一種のミュージカル風になっているところだ。それは『国境の町』でも、みられたことだが、より頻繁に歌うシーンが出てくる。ふたりが流れ着いたのはカスピ海に面したアゼルバイジャン共和国。音楽もロシア風ではなくアゼルバイジャンの民族音楽風なところが面白い。
 映画の冒頭も中盤も終盤も海のシーンの横溢で終わる映画だが、やはりその撮影には相当な苦労をしたらしい。沖での日の出に船が浮かぶシーンを撮るのに日の出の時間計測を間違い、そのまま、ずっと沖で日の入りを待って、夕景を撮り、また朝まで待って日の出のシーンを撮ったなど、俳優たちにとっては過酷きわなりない撮影だったという。
 撮影を担当したミハイル・キリロフは、海の船の上で乱闘する青年を描くのに長焦点レンズのリミットを調整し、被写界深度を浅くすることによって前方の波と後方の人物の距離感をなくすなど、きわめて凝った撮り方をしている。これ以上ない「海」の映画が出来上がったのは、いわばこうした苦労による必然でもあったのだ。(ちなみにリンクを貼った映像の『帽子箱を持った少女』は雪の印象的なシーンを。そして『青い青い海』の海にまつわるシーンのみをこの原稿のために抽出し、編集したハイライト映像である)。

ボリス・バルネットの生きた時代

 ボリス・バルネットの映画は、どれもコメディ・タッチだが、あまり喜劇的ではない。どうみても重い。もちろんエルンスト・ルビッチのような軽妙洒脱さは求めようもないが、レフ・クレショフの『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』のほうが、よほど喜劇的で軽々しい。
 クレショフの映画が撮られたのはレーニンが死んだ年だ。一方、このBOXセットに収められた3作品のうち『帽子箱を持った少女』は、スターリンが政敵トロツキーのみならず、同盟を組んでいたジノヴィエフ、カーメネフといったボルシェヴィキの古参党員を追放して、独裁体制を確立した1927年に製作された。
 スターリンによる大粛正は、1934年のキーロフ暗殺から始まり、1936年から38年までの「モスクワ」裁判で頂点に達した。そういう意味では『国境の町』や『青い青い海』は、嵐の手前の小康状態のなかで撮られた映画といえるのかもしれない。それでも時代の重苦しさからは逃れられなかったという印象はなくせない。

 バルネットは、1963年までソ連で映画を撮り続けた。そして1965年、ラトビアのリガで自殺した。享年62歳。いま、観ることができるバルネットの作品は30代前半までに撮った作品である。バルネットの若さは、そのまま彼の映像の若さにつながって、みごとなまでに瑞々しい。

監督: ボリス・バルネット
形式: Black & White
言語: ロシア
字幕: 日本語(『帽子箱を持った少女』は、1968年にレストアされ、サウンド版になった)
リージョンコード: リージョン2
ディスク枚数: 3
販売元: 紀伊國屋書店
発売日 2012/8/25
時間: 235分

長澤 均(ながさわ・ひとし)
1956年生まれ。グラフィック・デザイナー/ファッション史家。1981年に伝説のインディペンデント雑誌『papier colle』(特集=ナチズム)を創刊。林海象監督の1987年の『夢見るように眠りたい』ではコスチューム・ディレクション(アンクレジット)を担当した。CASIOのデータバンク・シリーズなどのコンセプト、ネーミングから川崎市市民ミュージアムでの「BAUHAUS」展のデザイン一式など、デザインの範囲も広い。著書に『流行服─洒落者たちの栄光と没落の700年』(ワールドフォトプレス)、『昭和30年代 モダン観光旅行─絵はがきにみる風景・交通・スピードの文化』(講談社)、『BIBA Swingin' London 1965-1974』(ブルース・インターアクションズ)『パスト・フューチュラマ─20世紀モダン・エイジの欲望とかたち』(フィルムアート社)、『倒錯の都市ベルリン─ワイマール文化からナチズムの霊的熱狂へ』(大陸書房)などがある。2016年に400ページを超える洋物ポルノ映画の歴史を綴った大著『ポルノ・ムービーの映像美学─エディソンからアンドリュー・ブレイクまで 視線と扇情の文化史』を上梓、すでに重版となって好評である。