1974 年、テレビキャスターのクリスティーン・チャバックが、フロリダ州サラソタの放送局の生放送番組で自殺した。これは史上初めてのテレビ放映中の自殺とされている。

1976 年のアカデミー賞ノミネート作品である『ネットワーク』(シドニー・ルメット監督)にインスピレーションを与えたと言われているが、実際この事件の裏にどんな出来事や事実があったのかはほとんど知られていない。

女優ケイト・リン・シールはクリスティーン・チャバックの物語を元にした「おしゃれで安っぽい70年代風ソ ープオペラ(メロドラマ)」に起用される。役作りのために、彼女はサラソタへと赴き、クリスティーンの悲劇的な死についての謎や、その意義を調査していく。

本作の監督ロバート・グリーンはインタビューと引用といった一般的なドキュメンタリーの形式をとることをせず、ケイトをこの複雑で困難な事件を理解するためのパイプとして起用している。
クリスティーンの人生に誠実に向き合おうとしていくうちに、ケイトはまた、専門家が取り扱うような難しい偏見や憶測を暴いていく。
『ケイト・プレイズ・クリスティーン』はその主題に大胆に挑戦した映画であり、観客は過去を解き明かすことの難しさを認めざるを得ないだろう。

About Christine Chubbuck
クリスティーン・チャバックについて

オハイオ州ハドソン生まれ。二人の兄(グレッグとティモシー)との三兄妹。
WXLT-TV の経営者ボブ・ネルソンは当初クリスティーンをリポーターとして雇ったが、のちに彼女に地域向けのトークショー番組「サンコースト・ダイジェスト」(朝9時より放送)のホストを任せた。
クリスティーンは事前に実際の自殺計画こそ知らせなかったものの、家族に自分のうつ病と自殺願望の葛藤を詳細に話していた。1970年、彼女は薬の過剰摂取による自殺未遂をしており、ことあるごとにその件について言及していた。また、 死の数週間前まで精神科医にも通っていた。

クリスティーンの母親は、娘がクビになることを恐れ、彼女の自殺願望をテレビ局に伝えなかった。
彼女は自分の鬱の主な原因は、自分に恋人ができないからだと考えていた。彼女の母親はのちに、彼女の自殺はごく単純に自分の人生に不満を持っていたことが原因だと言っている。
彼女は同僚たちに自分の30歳の誕生日が近づいてきていること、そしていまだに処女であり、同じ男性と2度以上デートをした経験がないということを嘆いていた。

クリスティーンには恋人もいなかったが、親しい友人も全くいなかった。
同僚たちは、クリスティーンはこちらが親しみをこめた挨拶をしたところで不愛想に身構えがちだったと言う。彼女は自虐的で、常に自分に批判的であり、どんな賛辞も受け取らない性格だった。

1974年7月15日の朝、クリスティーンは突然、「サンコースト・ダイジェスト」の冒頭でニュースを読まなくてはいけないと同僚に伝えた。仕事で他人を混乱させるような真似は、これまで決してしてこなかったのに。その日のトークショーのゲストはクリスティーンがスタジオでニュースを読んでいる間、スタジオの反対側で待機させられることとなった。

番組の冒頭の8分で、クリスティーンは3つの国内ニュースを伝え、そして前日に起きたサラソタブレーデントン国際空港内のレストランでの銃撃事件を読み上げた。その際に流す予定で銃撃の映像が用意されていたが、テープが詰まったた めに放送することができなくなってしまった。

すると、それを聞いたクリスティーンは鼻で笑って、カメラに向かってこう言った。「チャンネル40(番組の放送局)のポリシーは皆さまに“流血と臓器”のカラー映像をお届けすること。そして本日初めてお見せするのは、自殺です!」 リボルバーを取り出し、自分の頭の右耳の後ろにあて、引き金を引いた。彼女の体は乱暴に前に倒れ、番組の技術担当者 がすぐに放送を中断した。

放送局はすぐに、公共サービスの告知を流し始め、やがて映画の放送に切り替えた。視聴者の中には、警察に電話をした者もいるが、一方で放送局にあれは演出だったのかと問い合わせた者もいた。

拳銃自殺後、ニュース・ディレクターのマイク・シモンズはクリスティーンのニュース原稿に彼女のその日の自殺についての完璧な脚本が書いてあるのを見つけた。
それは自殺までの脚本というだけでなく、その後にスタッフが取った行動まで記述した、後に読まれることを前提とした報告書となっていた。そこには病院に着いた時の自分の様態が“危機的状態”であろうことまで書かれていた。 クリスティーンはサラソタ記念病院に運ばれ、その14時間後に死亡が確認された。

その知らせを受け取ったWXLT-TVのメ ンバーは、クリスティーンの書いた原稿を元に、他の局へ状況を知らせた。その後しばらくの間、WXLT-TVは「サンコー スト・ダイジェスト」の代わりにテレビドラマシリーズ「くまとマーク少年(Gentle Ben)」を放送した。

監督ロバート・グリーン、主演ケイト・リン・シールのインタビュー
聞き手:ジェシカ・エリコット (オンラインフィルムマガジン『4:3』)

―公開時(ベルリン国際映画祭)の感触はどうでしたか?

ロバート・グリーン監督(以下グリーン):良かったです。

ケイト・リン・シール(以下ケイト):良かったと思います。

グリーン:たくさんの人がきていて...

ケイト:すごく立派な劇場でした。

グリーン:映画は見ませんでした。大きくドイツ語の字幕が入ってたんだけど、ドイツ語字幕版も見て見たいような気はしました。でも見れなかった。(笑いながら)ドイツ語字幕で観る機会はもうないだろうね。ともかく、映画祭での感触はよかったです。

―作品の中の好きな台詞で、ケイトの「次に"私の演技が微妙"なんて言われたら発狂してしまうかも」という台詞があるんです。でもあなたの作中での演技って...

ケイト:"まあまあ微妙"?

そう。"まあまあ微妙"ですよね。

ケイト:ええ。この作品には、私が私自身を演じる、という特殊な側面があって、どうしても"微妙"になってしまうの。 これでも私の中では("微妙"さを)まだ抑えてた方よ。

わざとらしさの微妙な加減が興味深かったです。

ケイト:そうですね。

―映画内映画というテーマって、ある種とても滑稽なものになることがあると思いますが、それをテーマと決めた理由 について詳しく聞かせて頂けますか?

グリーン:私にとって、映画内映画をテーマにすることは、作品の失敗を意味する、ねじれたアイデアなんです。典型的だし、ただ典型的ってだけじゃなくて、もっと隠喩的に典型的な説話法です。「物語が判然としないこと。」これがひと つの狙いでもありました。でも、そんなこと意味はない。だって、映画内のすべてのシーンは事実に基づいた情報、つまり彼女の人生や彼女の台詞、彼女のしたとされる会話の上に成り立っているから。我々はそれらをメロドラマティックな、ソープオペラ的な、70 年代の古くさくて"こんなのあり?"という感じに仕上げたのです。 誰かが自殺をした時、理由を知りたいでしょう?人間ならだれだってそう思います。でも絶対に分からない。自殺の理由なんて他人には説明出来ないんです。薬の乱用とか、鬱だったとか、表面的な理由はわかると思います。
でもそうではない、心の奥底のことは誰にも分からない。だから、我々は、そういった虚無感をシーンに落とし込みたかったんです。

―映画内映画(作中でケイトがクリスティーンを演じた作品)それ自体の短編を作ろうと思ったことはありますか?

グリーン:ないです。だって...

ケイト:とても辛い作業になりそうね。

グリーン:ええ、とても辛い作業になると思います。まず、コンセプトが特殊すぎる。それと、私はそうしたシーンを、 演技それ自体のドキュメンタリーとしても見せたかった。素材の足りない状態に奮闘するケイトたちを見たでしょう?
カメラマンのショーン・プライス・ウィリアムズは、役者たちの見せ方を心得ていました。想像してみてください、偶然どこかでポーランドのソープオペラ風の映画のDVDのパッケージを見るんです、その時はものすごくクールにみえるのだけど、実際に観てみたら、そうじゃない。彼はこの映画内映画に関しても、そういうふうなものを作ろうとしていました。そして、私は結局、良くも悪くもどこか演劇ふうのものを作りたいと思っていたし、とにかく、映画内映画は失敗作にしたかったんです。こんなことをしようとするのは奇妙な話だけれど、観た人が彼女の物語の世界にひきこまれず、「これは失敗だな」と思うような映画内映画を作りたかった。

―その試みは成功していたと思いますよ。

別の話題ですが、クリスティーン・チャバックの自殺テープが存在するのか、否か、という点が面白かったですね。 「グリズリーマン」(ヘルツォーク監督、2005 年)を思い出しました。それもこの企画を始めるきっかけになっていますか?

グリーン:個人的には絶対にそのテープは見たくないから、魅力的でもなんでもなかったけど。今すぐ手軽に見れるというなら、多分見ます。(ケイトに)多分だけど、君は見たがらないよね。

ケイト:見ないと思うわ。

グリーン:同時に、神秘的なものでもあると思います。彼女がしたことについて語るものだから。彼女が自殺の映像をより多くの人に見てもらいたかったのに、それが失われているのは、皮肉なことです。でも、(自殺の映像を)見たいか見たくないか、を観客に考えさせるという点ではとてもいい装置になっていたと思います。映画が始まってすぐ、早い段階で、誰かが「そんな映像なんて見たことない」とか「見たかったんだ」とか言い始める。観客はすぐに、「その映像を見てみたい」あるいは「見たくない」というように考えだすと思います。そして観客がそういった考えを持つことが、彼らを物語へと引き込む要素になる。(見たいか、見たくないかの)選択があることが、本作を観客にとってより身近なものにしていると思います。なぜなら今や、人々は常にそういったことに直面しなければならないからです。「元カノの写真を見たいか」とか「シカゴで黒人の子供が射殺されるのを見たいか」とかいうことと、折り合いをつけていかないといけないでしょう。

―でも、ほとんどの場合そういったイメージは既に目の前にあって、選択の余地などない。

グリーン:そう。1974 年はこんなことが起こり得た最後のタイミングだったでしょう。もし事件が 1976 年だったら、誰か録画していたでしょうね。

1976 年だったら)映像は公に見ることが出来たと思いますか?

グリーン:ええ、(1976 年に同じことをしていたら)少なくとも 80年代前半まではその映像はなんの抑止もなく出回っていたと思います。だからこれはある種、文化的な瞬間でもあるのです。つまり、そのようなこと(テレビでの自殺)が起こり得て、しかも広まらなかった、ということが可能だった最後の瞬間なのです。

―作られるべきではない作品を作っている、という感覚はありましたか?

ケイト:クリスティーンの件に対し、私たちが興味をひかれたり見てみたいと思う理由、あるいは見たくないと思う理由は何だろうと問い続けていました。また私自身のことを言えば、なぜ役者がこのような話を演じたいと思うのかについても、この映画は考えさせてくれました。この特異なストーリーの中に観客が何か意味を見いだせるのか、あるいは、ただ のゴシップ作品のようになってしまうのか分かりません。でも...私は、皆そういった疑問を問いかけたかったのだと思っているし、この話を、他の誰であれ、映画作品にしたいと望むことを批判はできません。

グリーン:どんなテーマの映画やドキュメンタリーを作るべきか、あるいは作るべきではないのか、という問いに関しては...自身の撮っている作品を撮るべきかどうかを自問する人は多くはないでしょう。私たちが自問していたのは、実際に 起こった事を再現するべきなのかということでした。そして、それは、自殺というものが私たちの心の内にどんな感情を引き起こすかということと関連しています。私たちは必死で自殺という行為を説明付けようとします。なぜなら、それは生物としての人間の本能に逆らうことだからです。だから、何かを解き明かしたい、理解したいがために、このような事件を物語化する必要があるのです。そのためにストーリーを伝える必要性、映画でありドキュメンタリーであり、役者が話を進めていく作品を作る必要性がありました。
ではその葛藤をどう具現化してゆくか?ということですが...この映画の構造というかコンセプトは、この葛藤の中でもが くケイトを映すこと、もっと言うなら、ケイトはもがく姿を演じているといってもいいかもしれません。だから皆「ケイトは演技だったの?それとも演技じゃなかったの?」というんです。もちろん彼女は演じていますよ。彼女は自分の表情や身体、発言や行動をきちんと把握できる、表現者ですから。でも、それと同時にやはり、これは彼女がその場で起きたことを受けて反応した、というものでもあるのです。まるでなんのフリもしていないような。でも、演技だって決して何かのフリをするものではないでしょう。 だから私にとって、「彼女は演技をしているのか?」なんて質問は答えがないものです。決めつけてしまうより、開かれた問いのままにしておいてほうがいい。そうすることで、観客に“見られる”ということについて考えさせるんです。
それから彼女については...彼女には何度も言ったことですが、私はケイトが役者になる前から彼女のことを知っています し、彼女も私が映画作家になる以前から私のことを知ってます。だから私はケイトが「役者になりたい」と言ったとき、 「想像できない!だって君はこんなにシャイで、大人しくて、静かで感じがいいのに!」と思いました。彼女がカメラの前で服を脱いだり、はしゃいだ人たちの集まるシーンを演じたりしたがっているとは思えなかったから。 だから、この映画は人々が実際の自分と、自分がそうでありたいと思う自分との間の溝を理解しようとする映画でもある んです。ケイトについてもそうだし、またクリスティーンがどんな人間かということと、彼女のしたことについて語ることも、そういうことなんです。

―この映画が自殺を扱ったものだとは知っていたけれど、こんなに感情に訴えかける映画だとは思っていませんでした。 自殺がどんなものか分かっているつもりだったけど、とてもショックでした。

グリーン:ええ、とても。

ケイト:確実に、とても感情的になっていました。

グリーン:たとえば、私たちは海岸や、家に行きましたが...

―あの家はクリスティーンの実際の家ですか?

グリーン:ええ、クリスティーンの家も、実際に映画内映画を撮影した場所のひとつです。でも、撮影する準備が整うまでケイトを部屋に入れませんでした。カメラの準備をして、それからケイトが入ってくる。だから、他のシーンと同様に ドキュメンタリー性があるんです。撮影が進むと同時に、ケイトのクリスティーンに対する感情は大きくなっていました。

―もしかしたら全く間違っているかもしれませんが...、(この映画は)ケイトのクリスティーンについての調査を時系列順になぞっているように見えました。

ケイト:そうね、映画もほとんど時系列順に並んでいると思います。

グリーン:比較的にそうです。少なくとも、そういうふうに思っています。たとえば、歴史家は実際に最初に話した人でしたし。彼は劇中のように、実際にもあまり話しませんでしたが、でも彼が別の人や場所に導いてくれました。この映画 に映っているのはあくまで「調査の描写」であって、実際に起こったことはほかにもたくさんあったんです。でもとにかく、実際にクリスティーンの映像を見たのもかなり遅かったし、ああいうふうに進んだんです。

―本当に日焼けサロンに入ってたの?

ケイト:いえ、そんなに長くは入っていないわ。

グリーン:ガンになってしまうよ!あれはケイトがやりたくなさそうだったことの1つだね。

ケイト:ええ、監督にそういったと思うわ。でも結局、やることで合意したの。

グリーン:ほんの数分だけね!

ケイト:30 秒くらいででてきちゃったと思うわ。今まで一度も日焼けサロンに入ったことはなかったんです。やりたいとも思わないわ。

グリーン:でもたとえばカラーコンタクトは、あれは撮影中にやろうと決めたことです。計画されていたように見えるけど、実際にはその場で「やるべきだ!」とか「やってみよう」というふうになったことがたくさんあります。

―役者を実在の人物に可能な限り近づけるという、ある意味バカげた手法を用いるような伝記映画に対する、批評的な意図があるんでしょうか?

ケイト:私にとっては、そうね、少しはそういう意図もあったわ。でも、もし劇映画の脚本を渡されて、クリスティーン・ チャバックを演じろと言われたら、準備の過程は全く違うものだったでしょうね。 事前にすることはもっと少なかったと思うし、「これは正しいことか間違っているか」とか、倫理的な責任とか、そういうことをこんなに自問しなかったと思います。でもこの映画は私たちが撮影を進めるうちに見つけだした映画で、その過程を、結果的には無駄だったことも含めて、(映画として)オープンにしたものなの。 でも今更言うまでもないけど、私はもうあまり演じたくないわ、こういう...

―実在の人物?

ケイト:そう、実在の人物を解釈するなんて。

グリーン:冒頭のケイトについてのモンタージュ・シーンを作るために彼女のことを調べていて、面白いものをみつけま した。テレビドラマでハリエット・ビーチャー・ストウ(アメリカの女性作家。『アンクル・トムの小屋』の著者)を演じるときのインタビューで、今回の撮影とすごく似た発言をしていたんです。それは、「実在したこの人物に敬意を払いたい」 っていうことなんだけれど...。

ケイト:本当に?そのインタビューはみたことがないわ。

グリーン:面白いことだね。だって君はこの映画の中でまさに同じようなことを言っていたから。

ケイト:ありきたりな発言ってことかしら

グリーン:そういうこと(笑) いや、そうじゃなくて、それはとても自然なことなんだと思う。 この映画を撮り始める時、実在の人物を演じる、という面について深く考えていませんでした。私の考えていたことは、 むしろ、実在の人物にどう演技を重ねていくか、ということでした。でも撮影が始まってすぐ、ケイトにとって表現する 上でそのことがすごく重荷となっていると気づいて...それは私にとってはとても驚きでした。 私のアイデアはまだ不明瞭であいまいなものでしたが、最初の彼女へのインタビューを撮ってすぐに、具現化するのが難しい人物を具現化しなければいけない、という状況に彼女を追いこんでいるのだと気づいたんです。 ケイトはよく分かっていると思うけれど、人並みの人生を送り、そして劇的な死を遂げた人物を具現化するなんて、気持ちのいいことではありません。まったく、楽しいことなんてないんです。だから撮影中何度も、私は自分自身に少し苛立 ちを感じることがありました。彼女をこんな状況に追い込んでしまった、と。

ケイト:でも、それはこの映画だからという特殊なことではなく、どんな映画を作るうえでも必要な探求なんだと思います。前に映画を作った時も、「ああ、こんなこと価値があるのかしら」って常に感じていました。だって映画を作ることって...以前友達に「野暮なアート」って言われたのだけど、確かにそれも正しいなと思います。だって映画を作るには人々に常に迷惑をかけて、いろんなことをお願いして...それだけの価値があるのかしら?でもだから映画が大好きなんですけどね。

グリーン:まさにそのとおり。君が「ただ着飾っただけのように感じる」と言った時、そういう時が映画を作っていて最も恐ろしい瞬間だった。まるで、リアルなものをなにも生み出していないような気持になるんです。でも、大事なのは、 何か意味があると感じられるかどうか、これを作ることに価値があるか?という問いを、何か形に変えていくことでしょ う。

ケイト:それは意味のあることね。いくら考えても足りないことだもの。

グリーン:価値があるか?という問いは終わりではない。そう問い続けることで、ケイトはクリスティーン・チャバックをより理解しようとする。彼女のことを想像するのは難しいけれど、でもそれこそ我々がやろうとしたことです。

―間違いなく、それは成功していたと思います。私が思うに、アレックス・ロス・ペリーの作品でのあなたの劇映画での編集の良さと、あなたの他のドキュメンタリー作品との、それぞれの良さが組み合わさっていたように思います。

グリーン:そうだね、そのことはすごく考えた。今ではフィクションとドキュメンタリーの組み合わさった映画がたくさ んあるでしょう。というか、本当はそういうフィクションとドキュメンタリーの掛け合わさったものはずっと昔からあるんです。映画が始まった頃からね。たしか、チャップリンの映画で、彼が浮浪者を演じている映画で...

あるいは、バスター・キートンがスクリーンから出てきたりとか?

グリーン:まさに、そういうことです。私が思うに、フィクションとドキュメンタリーがどんな関係であれ、自分が見て いるものが一体なんなのかということ、そういう疑問こそが観客に深く語りかけると思うんです。フィクションとドキュ メンタリーは、混ざりあっていたとしても分けられるものではないでしょうし、その 2 つの間のなにかを見つめることができるはずです。そしてそういう混ざり合った中から、真実のようなものや啓示的な体験が見出されるのです。 私は(ドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせることで)何か巧妙な、技巧的なことをしたいと思っているわけではありません。あなたがこの映画が感情的だと言ってくれて、とても嬉しかった。だって予想もしていなかったわけでしょう?この映画が感情的なものになりえたのは、すべてケイトが具現化してくれたからです。

『ケイト・プレイズ・クリスティーン』日本版予告編

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『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
原題 Kate Plays Christine
2016 年/アメリカ/112 分/カラー/1.78:1
サンダンス国際映画祭 2016 ドキュメンタリー部門 審査員特別賞(脚本賞)受賞
第 66 回ベルリン国際映画祭 正式出品(フォーラム部門)
監督:ロバート・グリーン
出演:ケイト・リン・シール、ステファニー・コートニー、マーティ・ストーンロック、マイケル・レイ・ デイヴィス、オーランド・ヘイズ、ザカリー・ゴセット
エグゼクティブ・プロデューサー:Christos Konstantakopoulos
プロデューサー:ダグラス・チロラ、スーザン・ベドューサ
音楽:キーガン・デウィット
撮影:ショーン・プライス・ウィリアムズ
配給・宣伝:chunfu film
宣伝協力:アップリンク

2017年7月15日(土)アップリンク渋谷にて公開