Ausstellungsansicht 3, Wilhelm Lehmbruck. Retrospektive © Foto: Lisa Rastl, 2016

 ウィーンを代表する芸術家のグスタフ・クリムトやオスカー・ココシュカと比べても、エゴン・シーレのデッサンや筆による力強くときには荒々しい身体の輪郭と、そこに垣間見えるエロスと歪みのようなものには何度も目を奪われます(そのうまく言葉にできないような魅力は、ウィーンに来てさらに強まったものの一つです)。

 ウィーンにある多数の美術館のなかでも、レオポルド美術館はオーストリアの近代から現代にかけての優れたコレクションを有しており、シーレのコレクションは特に有名です。
近年、現代美術にも積極的に取り組もうとしている美術館において、シーレという文脈は無視できない存在であると同時に、いかに現代と接続していくかは彼らの使命として浮上してきているように思います。

 その意味で、レオポルド美術館で現在開催されている、ドイツのモダニズム彫刻家の一人であるヴィルヘルム・レームブルック(Wilhelm Lehmbruck:1881–1919)の回顧展と、ベルギー出身のベリンデ・デ・ブリュッケレ(Berlinde De Bruyckere: 1964-)『Suture』は美術館のコレクションと密接に結びついた、いままでウィーンで見てきた展覧会の中でも特に素晴らしいものでした。

 古代から現在にいたるまで、芸術における「人体」は、単なる人間の形姿ではなく、人間観や理想像としての身体から、自然崇拝・神への畏敬の表現、あるいは建築の装飾など、時代と共に変貌を遂げてきました。西洋の歴史においては特に、人間の形姿とともに発展してきた彫刻は、人体と切っても切り離せない関係にあります。モダニズム、そしてミニマリズムを経た現在でも、彫刻と人体の関係性はきわめて重要な位置を占めています。
そのような歴史的なことも含めて、100年の年月を隔てた彼らを同時に並べることよって、彫刻とそれらをとりまく関係性について再考させられた優れた展覧会だったと思います。

Leopold Museum © Leopold Museum, Wien, Foto: Julia Spicker

 ヴィルヘルム・レームブルックは、38年という短い人生を19世紀と20世紀を19年間ずつ生きた彫刻家です。55体の彫刻と、100枚に及ぶペインティング・ドローイングで構成された回顧展は、自然主義的で伝統に基づいた理想的な彫刻を模索していた初期から、オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)やアリスティド・マイヨール(Aristide Maillol)といったモダニズム芸術家たちに影響を受け、また戦争体験を経て、独自のスタイルへ変遷していく過程をおっていました。

 彼が生み出した作品は、伝統的な裸体像から、胸像、母子像、労働者の姿など同時代の彫刻家が取り組んできたテーマと共通する部分が多いものの、展覧会の中でも中央に位置していた『Fleeing Woman(War/Flood)』(1911年)『The Fallen Man』(1915年)、『Head of a Thinker』(1918年)といった、主要作品に見られるように、極端に長い身体と頭部、俯むき伏し目の顔などの特徴をもっています。とくに、後述するデ・ブリュッケレも同様に取り組んでいるように、頭をつけ四つん這いで打ち拉がれる男性や哀愁とメランコリーを帯びた女性など、彼は彫刻で肉体性・身体性を捉えることで浮かび上がってくるような、人間の存在の実存性を問おうとしていました。

WILHELM LEHMBRUCK, Der Gestürzte | 1915 © Nachlass W. Lehmbruck

Ausstellungsansicht 4, Wilhelm Lehmbruck. Retrospektive © Foto: Lisa Rastl, 2016

 レームブルックは戦時に見た光景を「空虚な骸骨が辺り一面に広がっている状況」と書き残しています。精神的な不安や悲しみ、苦悩、不運、脅迫といった人間の闇が部分的な身体的特徴として宿り、全体的な彫刻として立ち現れるような身体。そのような身体を生み出すことは、彼自身の慰めと救いであったでしょう。そして、いまを生きる私にとっても、静かに私たちを見下ろす彫刻たちの身体に宿る静かさは、彫刻としての華やかさではなく、彫刻から離れることがない人間の身体性の訴えのように感じました。

 また、レームブルックは、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)を芸術家の道へと導いたことでも有名な彫刻家です。ボイスは、彼がいう「社会彫刻」につながるような、芸術の「炎」と世界の秩序として立ち現れるような彫刻をそこに見出したのです。

展覧会の最後の部屋には、ボイス自身が死の直前に受けっとったヴィルヘルム・レームブルック賞の授賞式のスピーチ映像(1986年)と、ボイスによるレームブルックに呼応するような神話的な女性像のドローイングと小ぶりな彫刻である『Tierfrau』(1949年)も展示されていました。

at Sammlung Moderner Kunst in der Pinakothek der Moderne München(筆者撮影)

 一方、ベルギー出身のデ・ブリュッケレは、2013年のヴェニス・ビエンナーレのベルギー館代表にもなったように、現代を生きる彫刻家の一人です。
彫刻といっても、人間の肉体としての生々しい身体や脆弱さを強調した、不気味ともいえる作品が多く見られます。展覧会タイトルである「suture」は、手術後に傷口を縫い合わせるような「縫合」という意味です。その名の通り彼女の彫刻は、ワックスや樹脂で何層にも重ね合わせて作られた身体的断片が結合=縫い合わされたような身体を持っています。

 白い肌から透けて見えているかのような血管や内部の様子。そして頭のない身体、棒状のものに括り付けられた脚、布に覆われた身体、古めかしいケースに入れられた横たわる身体、内部から見え隠れする髪、2つ以上の身体が合体したような何か・・・ その奇妙な物体たちは、不気味な以上に感情的にも心理的にも惹きつけられます。

Berlinde De Bruyckere, Suture © © Leopold Museum, Wien

BERLINDE DE BRUYCKERE, Invisible Love | 2011 © Sammlung René

 その身体は完全なものではなく、生成すると同時に朽ちていくような変化のプロセス上にあり、生きていると同時に死んでいっているような不気味なリアリズムを持った彫刻です。彼女も人間の苦痛や痛みがどのように人間の生存に影響し、またそれがどう肉体と結びついているのかということに興味を持っています。
とくに、パゾリーニやクラナッハらのキリスト教絵画に描かれたピエタやキリストの死への過程を描いた身体が、悲しさを伝えるという本来的な意味合いを超えて、脆弱性、もろさ、柔らかさという身体性がいかに描かれているかに注目してきました。

 また、展覧会に並ぶのは人間の身体だけではありません。身体の穴という穴がすべて縫合され、宙に浮かぶ艶やかそうに見えると同時に不気味な馬の屍体は、第一次世界大戦時に撮影された写真の中に写っていた、人間の屍体と同様に並べられた動物の亡骸から制作されたものです。

レームブルックらの時代とはうって変わって、私たちの時代は、美しく理想とされるような身体に取り憑かれながらも、同時にあまりにも傷付けられた身体にもイメージを介して接しています(そして、慣れてきてもいるといえるでしょう)。
デ・ブリュッケレの伝統的な主題と通底した彫刻は、静かに横たわる彫刻に過ぎないとわかりきっているものの、レームブルックとは違って、感情的な部分が極度に抽象化された無感情ともいえるただの身体性がそこにあります。しかし、そこに徹底的に私たちの感情的な部分を引き摺り出すようなものを感じました。

BERLINDE DE BRUYCKERE, Les Deux | 2001 © Sammlung der Künstlerin, Foto: Richard Max Tremblay

 レームブルックとボイス、そしてデ・ブリュッケレ両者の展覧会にはもちろん、シーレやケーテ・コルヴィッツなど、レオポルド美術館のドローイングと彫刻のコレクションと混ざりながら構成されていました。

絵画ではなく、立体として立ち現れる彫刻と、一方で歪みや揺れ、不明瞭さを寛容に受け入れるドローイングに見られるのは、常に逃れることのない「死」であり、そこに重ね合わせられる「生」です。彫刻という芸術の伝統的なメディウムとしてではなく、宗教的なものが担ってきた身体の表現はいまの時代においてはどのようなものとして現れるのか、また、人間の身体が現実的にすでに異種との変異/変形しようとしているときに、人間の身体とどう向かい合うことができるのかといった、身体を取り巻く問題圏を再び受け取った展覧会でした。

EGON SCHIELE, Kniende, auf rotem Polster | 1913 © Leopold Museum, Wien,

丸山美佳
丸山美佳プロフィール
現在、ウィーン美術アカデミー博士課程在籍。ギャラリーでアシスタントとして勤務しながら、早稲田大学卒業、横浜国立大学修士課程修了。