映画のまち太秦90年〜その青春期の映画たち〜が、京都文化博物館フィルムシアターでスタートしました。
本日2月5日は、現存する数少ない阪妻プロ作品の一つの、無声映画『坂本龍馬』(断片・1928)が上映されます。
龍馬が近江屋で暗殺される場面を中心とした、一連のクライマックス部分が残存。
阪東妻三郎本作当時26歳、絶頂期の作品です。
阪東妻三郎は23歳でマキノ入り、マキノ映画作品で多くの佳作を生み出し、日本映画界での地位を獲得、入社からわずか2年で、阪東妻三郎プロダクションを立ち上げ、1927年に撮影所を太秦に開設しました(現在の東映京都撮影所の場所)。

貴重な映画の数々が、フィルム上映でみることができるのが、京都文化博物館フィルムシアターです。
今回の特集上映・映画のまち太秦90年〜その青春期の映画たち〜でも、無声映画などの、黎明期の日本映画が、フィルム上映されます。
シネフィルにとって、至福の時間を、ぜひお愉しみ下さい!

島津香蘭@シネフィル編集部


京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film

『坂本龍馬』
1927(昭和2)年阪東妻三郎プロダクション/30分(断片)・無声・モノクロ
監督:枝正義郎 原作・脚本:冬島泰三 撮影:友成達雄
京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

『坂本龍馬』
1927(昭和2)年阪東妻三郎プロダクション/30分(断片)・無声・モノクロ
監督:枝正義郎 原作・脚本:冬島泰三 撮影:友成達雄


京都文化博物館フィルムシアターでは「映画のまち太秦90年〜その青春期の映画たち〜」がスタートしました。
2月5日は『坂本龍馬』(断片・1928)が上映されます。
現存する数少ない阪妻プロ作品の一つです。
龍馬が近江屋で暗殺される場面を中心とした、一連のクライマックス部分が残存。
阪東妻三郎本作当時26歳、絶頂期の作品です。
阪東妻三郎は23歳でマキノ入り、マキノ映画作品で多くの佳作を生み出し、日本映画界での地位を獲得、入社からわずか2年で阪東妻三郎プロダクションを立ち上げ、1927年に撮影所を太秦に開設しました(現在の東映京都撮影所の場所)。

http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film


『坂本龍馬』
1927(昭和2)年阪東妻三郎プロダクション/30分(断片)・無声・モノクロ
監督:枝正義郎 原作・脚本:冬島泰三 撮影:友成達雄


出演:阪東妻三郎(坂本龍馬)、春路謙作(中岡慎太郎)、志賀靖郎(後藤象次郎)、中村琴之助(三好愼造)、春日清(佐々木只三郎)、市川伝之助(桂小五郎)、中村政太郎(近藤勇)、阪東妻之助(大山弥助)、原良助(大丸屋清三郎)、梅若礼三郎(岡本健吉)、阪東要二郎(目明し丑造)、森静子(お龍)、泉春子(春次)、西條香代子(おとせ)、明石清江(お定)、藤原峰男(西郷吉之助)、岩見柳水(中川二郎)、岡田喜久也(今井信三)、浮田勝三郎(偽坂本)、宇野健之助(大江屋新助)、浪野光雄(龍馬下僕藤吉)、山本孝(峰吉)

阪東妻三郎プロダクション(現東映京都撮影所)。左から2番目が阪東妻三郎。ー 場所: 京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

『坂本龍馬』
1927(昭和2)年阪東妻三郎プロダクション/30分(断片)・無声・モノクロ
監督:枝正義郎 原作・脚本:冬島泰三 撮影:友成達雄


徳川幕府三百年の鎖国が破られようとしていた。突然浦賀沖に現れた黒船によって国内はにわかに騒然とし、幕府は威信に関わる重大な命題を突きつけられた。
尊王攘夷の機運は激しさを増してはいたが、その代表ともいえる薩摩と長州の間には深い溝があった。幕府側がこれを利用し、尊王派の壊滅を画策していた中で、土佐にいた龍馬は、同志・中岡慎太郎と共にどうにか薩長を結びつけた。

こうした龍馬たちの動きを佐幕派は執拗に追ってきたが、彼らの目をかいくぐり、遂に大政奉還の知らせを聞いた龍馬らは、喜びに泣き明かすのだった。しかし、新しい日本の夜明けを待たずして、龍馬は京都の近江家で恨みを持った佐々木らに襲われた・・・。


本編は、黒船の来航から始まる幕末の日本を舞台に、龍馬が薩長同盟また大政奉還を成功させ、志し半ばで佐幕派数名の奇襲に倒れるまでを描いた作品であったが、本フィルムでは龍馬が京都・近江屋で暗殺される場面を中心とした一連のクライマックス部分が残存している。

阪東妻三郎は作品撮影当時26歳。
十一代片岡仁左衛門の内弟子として東京で修行中の身だったが、国活に顔をだしたりしていた。
そして23歳の時、芽が出ない歌舞伎の世界を飛び出して京都に移り、牧野省三が設立した牧野映画製作所に大部屋俳優として入った。

そこで、脚本家として駆け出しであった寿々喜多呂九平(ススキタロクヘイ)と出会い、翌年彼の執筆作『鮮血の手形』で尾上松之助の演じた、いわゆる歌舞伎然とした立廻りを刷新するほどのリアリズムに溢れた剣戟と、逆境に身を置いたニヒルなヒーロー像を打ち出し人気を獲得した。

以後、マキノ映画作品で多くの佳作を生み出し、日本映画界での地位を獲得、入社からわずか2年で阪東妻三郎プロダクションを立ち上げ、撮影所を太秦に開設した(現在の東映京都撮影所の場所)。

本作はこの日本初の俳優による独立プロダクションで製作された作品の一つで、既に『雄呂血』(1925)、『魔保露詩』(1926)、『無明地獄』(1926)等の作品で俳優としての人気と評価を不動のものとした時期の、いわば絶頂期の作品と言える。
キネマ旬報で活躍した批評家の山本緑葉は、本作で龍馬の個性というものが描かれたとは言いにくいものの、殺陣のシーンはやはり圧巻で、特にラストの暗殺の場面では、龍馬の敵役ともいうべき佐々木を演じた春日清の熱演も加わり、素晴らしいクライマックスを迎えている、と評している。


京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive