卒論指導

私は、1969年の東大安田講堂事件にかかわった世代である。この年、東大は入学試験の中止を決定したのだが、卒業は通常通りだった。卒業年度に当たる者たちは、3月までに卒業論文を提出して、卒業していった。しかし、全共闘学生だった私たちには、卒論指導をしてくれる教官もいなく、中退するか留年するかだった。
 幸いなことに私は、何とか卒業することができた。論文指導をしてくれる教官がいたからだ。指導教官は、蓮實重彦助教授。卒業論文は、フローベールの「ボヴァリー夫人論」である。安田講堂事件や駒場8号館闘争の頃、蓮實さんはフランスにいたので、東大闘争にはかかわっていなかった。それならなぜ、蓮實さんに卒論指導を受けたかというと、特別なめぐり合わせがあったからだ。
 
 駒場8号館が陥落してから全共闘学生は、みなそれぞれに身辺を整理しなければならなくなってきた。卒業も就職も諦め、中退のようにして大学から消えていった者が何人もいたなかで、私は、卒論を提出することがゆるされたのだった。蓮實さんを指導教官とするよう間を取ってくれたのは、平井啓之教授だった。その平井さんは、東大闘争で様々なことに出遭い、自身、辞職の意志を固めていた。そんななかで、全共闘学生だった私の卒論の面倒をみてくれたのだった。
 
 そのときの恩は、いまでも忘れることができないのだが、ともあれ、蓮實助教授による卒論審査では、政治活動のためおろそかになっていたフランス語の学力があからさまとなって、かなり絞られた。なにしろ100枚ほどの論文をフランス語で提出しなければならないのだから、政治活動にうつつを抜かしている暇はなかったのだ。それでも、何とか審査が通り、卒業することができた。
 
 当時卒論のために読んだ筑摩版フローベール全集をはじめ、そのときの資料は一括して書棚に所蔵しているのだが、サルトル『家の馬鹿息子―ギュスターヴ・フローベール論』だけは、卒業後の出版なので、別のところにおいてあった。で、このところ、サルトルの本を読みながら、これを翻訳した平井啓之・鈴木道彦・海老坂武・蓮實重彦といったフランス文学者のことを考えたりしている。どのひとりも、戦後のフランス文学だけでなく、戦後思想についても重要な業績を残した人々だ。そこで彼らが、『家の馬鹿息子』で展開されているサルトルの思想をどのように継承しているかを思ったりするのである。
 
 サルトルの思想とは何かというと、一言でいって、人間にとって「受難」とは何かということを、フローベールのなかに探っていくことで、人間存在の本質を模索していくものといっていいだろう。その問いの激しさが、時には息苦しいほどであるのだが、以下のような一節など、その後の構造主義やポストモダンの思潮からは、完全に封印されたものだ。
 
「だからしてフローベールはこの思想が、彼の悲観主義的な誓約の吹き込む偏見であることを、よく理解しているのである。その悲観主義的な誓約はこんなふうに翻訳できよう、苦しむ者はその苦しみのために劫罰に処せられ、苦しみは絶えず増大して、ついには許されることなき絶望の〈大罪〉に至るものである、と。この苦悩主義者にとって、苦悩は神が永久に背を向けてしまったことを示しているゆえに、苦悩こそ、人を選ばれた者たらしめる。とすればどうしてギュスターヴは、自分が教義に最後の仕上げをほどこしているのだと感じないはずがあろうか?」
 
 こういうサルトルのあくの強い、キルケゴールにもドストエフスキーにもニーチェにも通ずるような言葉を、たとえば、蓮實重彦は日本語に訳していくのだが、もし自分がフローベール論を書くとしたら、このサルトルの描いたギュスターヴ像から最も遠いところに描き出さなければならないと考えていたと思われるのだ。そうしてできあがったのが、『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』なのである。そこで蓮實さんは、フローベールの友人で、フローベールに比べるならばはるかに文学的才能に欠けるにもかかわらず、彼よりもずっと聡明さを持ち合わせていたマクシム・デュ・カンについて論ずるのである。
 
 そこで、繰り返し語られるギュスターヴの「残酷なまでの愚鈍さ」というのが、サルトルのいう、振り払っても振り払っても「苦悩」からのがれることのできず、しまいには、それを自分の教義にまでしてしまうというありかたなのだ。しかし、蓮實さんは、そのことを自分が訳したサルトルを引きながら裏づけるということを決してしない。なぜしないかというと、それをすると、ギュスターヴ=残酷なまでの愚鈍さ、マクシム=凡庸なまでの聡明さというシェーマが崩れてしまうから。
 
 こうしてみると、『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論』は『家の馬鹿息子―ギュスターヴ・フローベール論』を換骨奪胎することによって仕上げられた論であるということがわかってくる。そのことで、前者を低く見積もるのではなく、蓮實重彦は、サルトルを訳していくなかで、その毒に当たらないためには何を行うべきかをよくよく考えて、見事な換骨奪胎を行ったということになる。
 
 こんなことを考えながら、あらためて東大闘争の頃を思い起こしてみたりするのだが、私たちが「大学解体」や「自己否定」をとなえたのは、大学自体の制度改革を目指していたわけでもなんでもなく、自分のなかにしまいこまれた「苦悩」からのがれることができなかったからではないかと思ったりもするのである。実際、全共闘の学生たちにはどこかにそういう資質のようなものがあった。だから、それにしたがって行動しているとき、「残酷なまでの愚鈍さ」をあらわにすることはあれ、「凡庸なまでの聡明さ」を身につけることはできなかったということができる。
 
 しかし、そのことのために、以後の人生において「残酷なまでの愚鈍さ」の毒に当たり、九死に一生をうるような事態に何度かめぐり会うことになった。もちろん、人知れず「凡庸なまでの聡明さ」を身につけて生きてきた者たちもいないわけではない。だが、彼らとて「残酷なまでの愚鈍さ」の毒に当たらないためには何を行うべきかをよくよく考えてのことだったのである。
 
 それは私たちだけではなく、東大闘争で辞職した平井啓之教授とたまたまその時に日本にいなかったために、かかわることのなかった蓮實重彦助教授にもいえることで、そう思うと、卒論を提出するに当たってお世話になった二人のフランス文学者の存在が、あらためて心に刻まれてくるのである。

神山睦美 プロフィール

1947年岩手県生まれ。東京大学教養学科卒。
文芸評論家。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で、第二回鮎川信夫賞受賞。
その他の著書に、『夏目漱石論序説』(国文社)『吉本隆明論考』(思潮社)『家族という経験』(思潮社)『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)『二十一世紀の戦争』(思潮社)『希望のエートス 3 ・11以後』(思潮社)『サクリファイス』(響文社)など多数。