連載第3回 この美しい世界では、すべてが可能

 私にはそういう経験がないのだが、人生の晩秋を迎える頃、若かりし日に心から惹かれながら、最後まで告白できなかった女性に、何十年の歳月を経て再会するということが、ままあるといっていいだろう。
 
 そういう時に、いまは世の中の酸いも辛いも味わった身として、かつて抱いた密かな思いを酒の肴にして話してみたり、同席した人々の思い出話に絡めて、それとなくほのめかしてみたりするのが普通ではないかと思うのだが、アイザック・ディネセンの『バベットの晩餐会』に登場するレーヴェンイェルム将軍は、まったく異なるのだ。

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 まだ中尉の身であった若かりし日、人生の修養を重ねるために叔母の住む遠い村に赴いた彼は、牧師館の老いた司祭の教えに深く動かされるとともに、二人の美しい娘、とりわけ姉のマチーヌに惹かれたのだった。
しかし、そのことをいっさい告げることなく、ベアレヴォーの村を後にしたレーヴェンイェルムは、その後、軍人として、また社交界の花形として、注目を引くようになり、宮廷の侍女であった女性を妻に迎え、軍功も重ねることによって、誰からも羨まれるような境涯を送った。
 
 しかし、レーヴェンイェルム将軍は、どうしても満たされぬものが心の奥にあるように思われ、それが何であるかをいつか確かめたいと思いながら、人生の晩秋を迎えていたのだった。
そんなときに、あのベアレヴォーの牧師館で催される、バベットの晩餐会への招待を受けるのである。
三十年ぶりにその村を訪れたレーヴェンイェルムは、バベットが心をこめ、ありったけの金銭を投じて催した晩餐会の席で、司祭の娘マチーヌに再会するのである。
 
 何事もなかったようにその幸福な晩餐会が終了したあと、玄関先まで見送りに出たマチーヌの手を握り締め、レーヴェンイェルム将軍はこんなふうにいう(ここからは、ディネセンの原作をそのまま引用)。
 
 「わたしはこれまでずっと、毎日あなたとともにいたのです。お答えください、あなたもそれをご存じだったと」
 「ええ、そのとおりでした」とマチーヌはいった。
 「こうもいって欲しいのです」と将軍はつづけた。
「わたしは今後生きている限り、いつもあなたのおそばにおり、あなたもそれがよくお分かりになっているのだと。毎日わたしは、この身体はおそばにいなくても、そう、肉体などなんの価値もないのですからね、心のうちでは、今夜とまったく同じように、あなたとともに食事のテーブルに着くつもりです。実は、今夜こそわたしは悟ったのです。この美しい世界では、すべてが可能なのだと」
 「ええ、おっしゃるとおりですわ。わたくしどものこの美しい世界では、すべてが可能なのです」とマチーヌはいった。
 こんなことばを交わして、ふたりは別れた。
 
 『バベットの晩餐会』の原作は読んでいなくとも、映画は観たという人は多いと思う。
私も、何年か前に観たのだが、この場面、どんなふうに描かれていたのだろうか。ディネセンは、ここにプラトニックな愛ということがどういうことであるのかを語ろうとしているように見える。
だが、私の考えでは、忍ぶ恋や秘められた恋のすがたではないとしても、人は、イデアの世界を求めつづけるかぎり「この美しい世界では、すべてが可能なのだ」ということに不意に気づかされるということを、ディネセンはいおうとしていたのである。
 
 しかし、それにしても、このレーヴェンイェルム将軍とマチーヌ、それぞれ還暦をすぎ、古希を迎えようとしていると思うのだが、何と瑞々しいことか。

Babette's Feast (1987) - trailer

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神山睦美 プロフィール

1947年岩手県生まれ。東京大学教養学科卒。
文芸評論家。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で、第二回鮎川信夫賞受賞。
その他の著書に、『夏目漱石論序説』(国文社)『吉本隆明論考』(思潮社)『家族という経験』(思潮社)『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)『二十一世紀の戦争』(思潮社)『希望のエートス 3 ・11以後』(思潮社)『サクリファイス』(響文社)など多数。