今回、このCinefilの原稿は、もともとは自分の新作のことを書こうと思っていたのですが、変更して、会田誠さんの作品撤去問題について書きます。
東京都現代美術館で開催中の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展において、現代美術家・会田誠さん一家の作品に関して、美術館側から作品の改変・撤去要請があったという。
作家自身から異議申し立てがなされているなど現在も進行中の問題ですが、その記事を目にして、いくつかの過去の事例を思い出しました。
沖縄とパリ。ふたつの「検閲」の比較から考える
ひとつは、2009年、美術家・大浦信行の天皇をモチーフにした作品が沖縄の県立美術館で展示を拒否された事件。そのとき、当時の牧野浩隆館長はその理由を「(天皇制への賛否がある中)バランスを欠いたものを公的機関が支援できない。(中略)県教育委員会の下にある公的機関としてふさわしくないと判断した」と語り、その根拠となる基準は「総合的、教育的配慮」だとしています(※注)。
参照記事 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-144741-storytopic-1.html
もうひとつは、2010年にパリの美術学校ボザール内のミュージアムで、美術家Ko Siu Lanによるサルコジ政権に批判的な内容の作品が、館長の判断により展示を見合わせられた事件。
参照記事(仏語) http://rue89.nouvelobs.com/confidentiels/2010/02/11/une-artiste-chinoise-censuree-par-les-beaux-arts-de-paris-137898
この近い時期に起きたふたつの「検閲」ですが、その反響は対照的でした。
沖縄県立美術館での「検閲」は、いくつかの新聞が報じ、それなりに話題にはなったものの、結局沖縄県外のメディアに取り上げられることはほとんどなく、美術業界内の小さな嵐にとどまった印象でした。私はこの事件をたまたま当時、友人の美術家・藤井光から遺憾とともに伝え聞いていて「そりゃ大変だ」と思いましたが、今から思うと業界内でさえ実は関心を持っていたアーティスト、ジャーナリストは少数だったのではないでしょうか。
一方で、パリはボザールでの「検閲」は、異議の声が瞬く間にメディアから市民へと広がり、大規模な抗議デモへと発展しました。その意見のほとんどは館長の判断を批判するもので、結果ボザールの美術館館長は更迭されることとなりました。
日本とフランス、片方では問題はなし崩しに放置され、一方では一般市民を巻き込んだデモ、論争となり、それが社会を動かしています。つまり、表現の自由は放っておいても空気のようにあるものではなく、市民が自覚的に議論しときには何かしらのかたちで異議を表明するだけの土壌があるからこそ、保たれるものです。
表現の自由の最後の砦は、法律でも憲法でもなく、結局は私たち自身の高い問題意識にこそあります。
難しいのは、表現の自由の侵害を憂うのも市民であれば、今回美術館にクレームを入れたのも市民であるということ。どちらが先天的に正しいなどということはあり得ないわけで、だからこそ面倒くさくても何かあればその都度ごとに問題化し議論をし、表現の自由に対する社会の理解度を深めていく必要があるのでしょう。
子供と美術館。MoMAの思い出から
今回の会田誠の作品の問題においては、それが子供を対象とした展示での出来事だったこともあり、「子供向け」として相応しいかどうかも議論の対象となっていますが、思い出すのは、以前ニューヨークのMoMAを訪れたときのことです
その日は学校が休みであったこともあり、美術館は家族連れで賑わい、特に驚いたのは幼児から小学生までの子供たちがたくさん訪れていたことでした。そこには政治的な題材を扱った作品も当たり前のように多数展示されています。
子供たちは、その両親や、あるいは学校の先生と思しき大人(MoMAの学芸員かも知れない)から作品についての解説を受け、それを素直に聞いている子供もいれば、もうそんな話は聞いていられず、美術館の展示品の中を自由自在に走り回っている子供もいました。
その光景を見て、一方で大人ぶって深閑と静まり返った日本の現代美術館の姿が脳裏に浮かび、ああ、これはもう逆立ちしてもかなわないなあ、と思いました。
美術だけではありません。子供への映画教育の盛んなフランスにおいて、小学生に公教育の一環で見せる作品は小津安二郎やケネス・アンガーである訳で、アメリカやフランスの美術、映画関係者の考える「子供向け」と、今回、東京都現代美術館が指し示した「子供向け」の間には、大きな隔たりがあるはずです。
今回の会田誠の作品は、まだ私はそのものを見れていないので具体的な言及はできないのですが、写真を見て、また会田誠自身による解説を聞く限り、ことさら子供から隠すべきものとも思えませんでした。それは、もしかしたら、この企画を作家と一緒に進めてきたキュレーター自身が一番理解していることなのではないでしょうか?
結局は東京都現代美術館が今後、どういった美術空間を市民と共有したいのか、その進路を今問われているのだと思います。MoMAのように、子供たちが自由闊達に現代美術に触れられる空間を目指すのか、従来通り、子供を排除しときどきガス抜きのように大人が勝手に考える子供向け(子供だまし?)なアート風の何かを展示してお茶を濁すのか。もちろん目指すべきはそちらではないからこそ、今回の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」だったのではないでしょうか?
美術館にはその場その場のクレームに場当たり的に対応せず(そのクレームが一件だったという話は笑い話のようですが)、願わくば哲学と論理を持って臨んで欲しい。
素人考えですが、それがもし子供にとって説明の容易ではない作品であるのなら、例えば作家のギャラリートークを増やすとか、より丁寧な解説文を添えるとか、撤去という最悪の選択をする前にやるべき対応はあったのではないでしょうか。
残念ながら、今回の騒動は氷山の一角であることは間違いないでしょう。これがまた一過性のコップの中の嵐に終わることのないよう、まずは創作に携わる人間から地道に声を上げ、注視し、そこで何があったのか解明されることを期待します。
これが民間の施設で起きたことならいざ知らず、公立の美術館と東京都が関与しておきたことである以上、まさに憲法21条が定めるところの「表現の自由」の一内容たる「知る権利」が私たちにはあるはずです。
※ 大浦信行の天皇を題材にした作品は1986年にも富山県立近代美術館において、県議会の議員により「不快」と評され、それを契機に右翼団体が同館に抗議、その作品の非公開と売却を決め、それが「表現の自由」と「知る権利」を侵しているとして裁判に発展したことがある。この事件の経緯は、自民党議員がその内容を問題視し、右翼の街宣車が東京のミニシアターに抗議活動をしかけた映画『靖国』事件を思い出させる。
日本は、30年前も今も、何も変わっていない。
深田晃司(映画監督)
1980年生まれ。大学在学中に映画美学校に入学。プロ・アマの現場に参加しつつ、2006年『ざくろ屋敷』を発表。パリKINOTAYO映画祭にて新人賞受賞。2008年長編『東京人間喜劇』を発表。同作はローマ国際映画祭、パリシネマ国際映画祭に選出、シネドライヴ2010大賞受賞。2010年『歓待』にて東京国際映画祭「ある視点」部門作品賞受賞。2013年『ほとりの朔子』にてナント三大陸映画祭グランプリと若い審査員賞、タリンブラックナイト映画祭にて最優秀監督賞を受賞。2005年より現代口語演劇を掲げる劇団青年団の演出部に所属しながら、映画制作を継続している。
最新作は映画『さようなら』。2015年秋公開予定。
公式サイト http://sayonara-movie.com/
東京都現代美術館(とうきょうとげんだいびじゅつかん)は、東京都江東区三好四丁目にある、現代美術専門の公立美術館。指定管理者制度により、東京都歴史文化財団グループ(公益財団法人東京都歴史文化財団、鹿島建物総合管理株式会社、アサヒビール株式会社の共同事業体)が管理・運営している。
住所 〒135-0022 東京都 新宿区三好4-1-1
電話番号 03-5245-4111
ウェブサイト http://www.mot-art-museum.jp/