お茶を飲む習慣が中国から伝わったこと、伝えたのが禅僧の栄西だったことは、教科書でも習う「日本人の常識」だ。それでも我々は「茶の湯」と聞くといかにも日本的な伝統だと即座に思うし、「柔道」や「剣道」と同様に、明治以降称揚された日本人の「道」探求哲学で、「茶道」という言い方も以前はあった。

近世に千利休が登場して以来、明治・大正の「近代数寄者」財閥リーダー達の時代まで、「茶の湯」は日本文化の中枢にあり、一時はあらゆる文化のベースにもなっていた。書画の掛け軸は茶席に掛けるために珍重され、茶器として飛躍的に発展した陶磁器生産は江戸時代にすでに対ヨーロッパ主要輸出産業に成長し莫大な収益を上げていた。茶会なんて縁がないと思っている庶民でも、炊いた米を食べるお椀が茶席の抹茶碗と同じような大きさであることから、本当は「飯碗」なのに「お茶碗」と呼んでいるほどだ。

その意味で「茶の湯」の歴史は、日本人の歴史を知る上で欠かせない。展覧会も少なくないのは別の意味でも当たり前のことで、私立美術館の多くの創立者が「近代数寄者」だった実業家やその一族で、茶の湯のために集めた美術品がコレクションのベースになっているのだ。だから展示はどうしても、安土桃山時代の利休の時代に、茶の湯が武将たち俗人のたしなみとなってからの発展を中心とするものが多い。

この展覧会は、その視点の置き方が違う。原点の原点である、禅宗寺院に中国から喫茶の習慣が持ち込まれたところから始まるのだ。さすがは相国寺、である。

画像: 羅漢図(部分) 元時代14世紀 相国寺の塔頭・大光明寺蔵 重要文化財 中国・元時代の羅漢図に描かれた、お茶を準備する様子。薄緑の服の侍者が薬研で茶葉を粉にしている。上半身裸の西方風のいでたちの侍者がお湯の入った赤い「浄瓶」を持ち、僧形の弟子が赤く金で縁取りされた天目台に載せた天目茶碗を捧げ持っている

羅漢図(部分) 元時代14世紀 相国寺の塔頭・大光明寺蔵 重要文化財
中国・元時代の羅漢図に描かれた、お茶を準備する様子。薄緑の服の侍者が薬研で茶葉を粉にしている。上半身裸の西方風のいでたちの侍者がお湯の入った赤い「浄瓶」を持ち、僧形の弟子が赤く金で縁取りされた天目台に載せた天目茶碗を捧げ持っている

「天目茶碗」から始まった

画像: 禾目天目茶碗 中国・宋時代 相国寺蔵 重要美術品 黒釉にあらわれた銀色の細い線条がウサギの毛のように見えることから中国では「兎毫盞」という。日本では穀物の穂の細い毛に見立てて「禾目」

禾目天目茶碗 中国・宋時代 相国寺蔵 重要美術品
黒釉にあらわれた銀色の細い線条がウサギの毛のように見えることから中国では「兎毫盞」という。日本では穀物の穂の細い毛に見立てて「禾目」

「天目茶碗」、中国語で「建盞」、「盞」は中国語でお茶を飲む器を指す。建盞は中国の建窯(現在の福建省南平市建陽区)で作られた、黒い鉄系釉薬の元は普段使いのシンプルな器だ。この建窯に近い天目山は周囲に茶の名産地もあって、そこに留学した学僧が日本に喫茶の風習と共に建盞を持ち帰ったことから、日本では「天目茶碗」と呼ばれる。

鉄系の釉薬は温度や化学反応の条件によって、時に細かな線が無数に現れたり(禾目天目)、鉄成分が無数の小さな円に凝縮して満天の星のように輝いて見えたり(油滴天目)、ごく稀に、漆黒の斑点の周囲に金属成分が線状に集まって円弧を描いて、その外側に向けて鮮やかな青が広がる(曜変天目)ような変種を生み出す。こうした偶然性の生み出した美も、日本ではとくに珍重された。

また形が似ていることから吉州窯(現在の江西省吉安県)で作られた「玳皮盞」や「鼈盞」も、日本では総称して「天目茶碗」になる。

画像: 国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵 外側にウミガメのタイマイのような文様が現れた「玳皮盞」。主に吉州窯で焼かれたもので、中国の分類では「建盞」ではないが日本では「天目茶碗」に総称される

国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵
外側にウミガメのタイマイのような文様が現れた「玳皮盞」。主に吉州窯で焼かれたもので、中国の分類では「建盞」ではないが日本では「天目茶碗」に総称される

相国寺にはウミガメの腹側の甲羅から取れる玳瑁(タイマイ)のような模様の現れた「玳皮盞」の名品中の名品が、かつての松江藩の松平家(徳川家の分家)から寄進されている。大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の油滴天目の名品と、極めて希少で3点しか現存例がない曜変天目(徳川家康から水戸徳川家に伝わり現在は大阪の藤田美術館が所蔵する1点、徳川家光が春日局に贈った「稲葉天目」・静嘉堂文庫蔵、大徳寺の塔頭龍光院に伝来する1点)と並んで、天目茶碗のもっとも優れた代表作として国宝に指定されている。

もちろん今回の承天閣美術館の展覧会の目玉作品で、新しい工夫を凝らした展示方法が素晴らしいのだが、そこはあとで詳しく触れるとして、今はまず「天目茶碗」の歴史の話だ。

天目茶碗は「天目台」と呼ばれる受け皿のような台に乗せて使われる。

画像: 倶利天目台 中国・明時代 慈照寺(通称「銀閣寺」)蔵

倶利天目台 中国・明時代 慈照寺(通称「銀閣寺」)蔵

天目台に載せた茶碗に細かく粉末状にした茶葉を入れ、「浄瓶」と呼ばれるポットからお湯を注いでお茶を点てるのが、中国から当初入って来たやり方だった。

上の写真の元時代の羅漢図(部分)では、手前にしゃがんだ男が薬研で茶葉を粉にしていて、上半身裸の西方風の男がお湯の入った赤い浄瓶を持ち、僧形の人物の捧げ持つ、赤い天目台に載せた天目茶碗に、お湯を注ごうとしている。

今日の茶席でやっている点茶とは、ずいぶん異なって見える。

画像: 天目茶碗 野々村仁清作 鹿苑寺(通称金閣寺)蔵 天目台、浄瓶 相国寺蔵 いずれも江戸時代

天目茶碗 野々村仁清作 鹿苑寺(通称金閣寺)蔵 天目台、浄瓶 相国寺蔵 いずれも江戸時代

だが相国寺では、今日でも修行や儀式の一環で、法堂で行われる「點湯」と呼ばれる儀式など、仏や祖師に捧げ、自分たちもその茶を飲むような場合に、このやり方がそのまま踏襲されているという。

こうした儀礼伝統が継承されて来たことから、相国寺のような大禅宗寺院を中心に天目茶碗の需要は多く、国産化されると本来の「建盞」の黒だけでなく様々な色の天目茶碗が作られた。応仁の乱以来100年続いた京都の戦乱がようやく収束し、相国寺でも復興が始まった時には、京都の再建を進めていた豊臣秀吉が50口の、瀬戸焼の天目を寄進している。

画像: 古瀬戸天目茶碗 二口 桃山時代の京都の復興期に豊臣秀吉が寄進した五十口のうち二つ 慈照寺蔵

古瀬戸天目茶碗 二口 桃山時代の京都の復興期に豊臣秀吉が寄進した五十口のうち二つ 慈照寺蔵

今でも相国寺の喫茶の儀式で実際に使われている天目茶碗・天目台・浄瓶と、大勢に茶を出すために運ぶ大きなお盆(天目盆)も、参考展示されている。天目盆は室町時代、他は江戸時代のものだ。茶碗は江戸時代初期に雅な色絵の茶碗で一世を風靡した御室焼の野々村仁清に発注され、納品された記録が残るという。

画像: 天目茶碗 野々村仁清作 江戸時代 鹿苑寺蔵 天目台 江戸時代、曲物天目盆 室町時代 相国寺蔵

天目茶碗 野々村仁清作 江戸時代 鹿苑寺蔵 天目台 江戸時代、曲物天目盆 室町時代 相国寺蔵

高度な色絵技巧で知られ、シャープな轆轤技術の精確さも持ち味で、繊細で優美な印象の茶碗が多い野々村仁清が、こんなに抽象的で一見無骨で地味、重厚な器も作っていたというのは、ちょっと意外かも知れない。

画像: 野々村仁清 柿釉瓢拔色絵松竹梅茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵 こちらは野々村仁清の普段の作風である鮮やかで雅な色絵と洗練されたデザイン。禅寺では贈答品や俗人である檀家などの接待に用いられたと考えられる。

野々村仁清 柿釉瓢拔色絵松竹梅茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵
こちらは野々村仁清の普段の作風である鮮やかで雅な色絵と洗練されたデザイン。禅寺では贈答品や俗人である檀家などの接待に用いられたと考えられる。

禅宗最古の「お茶を飲んでいた」記録

喫茶の習慣がまず禅寺に広まったもっとも古い記録のひとつ(これ以外に天台宗により古いものがある)が展示されている。鎌倉時代に北条執権家に招かれた中国出身の名僧・無学祖元と日本の禅僧・高峰日顕の会話で、軸装されて前半が相国寺に、後半が鹿苑寺(「金閣寺」の通称で知られる)に伝来し、展覧会のI期(12月22日まで)にはその前半、年明けに展示替えがあってII期(1月11日以降)では後半が展示される

画像: 無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 切り分けられて軸装され、前半は相国寺蔵 。後半は鹿苑寺蔵で、来年1月11日以降の II期に展示される 重要文化財

無学祖元・高峰顕日墨跡 問答語 鎌倉時代・弘安4(1281)年 切り分けられて軸装され、前半は相国寺蔵 。後半は鹿苑寺蔵で、来年1月11日以降の II期に展示される 重要文化財

無学祖元が話をしないかと弟子の高峰顕日に言うと、「もう方丈でお茶を飲んでいるので」と答えたというような会話で、内容自体は現代人には他愛もないことにも思えるが、無学祖元が師で高峰顕日は弟子、つまりお茶を飲むことが修行の一貫であることが、この会話には含まれている。

ちなみにこの文書は「会話を記録したもの」ではない。中国の高僧は日本語ができず、日本の禅僧は漢籍や中国文献の読解が基礎教養で中国語の読み書きは当然できたので、漢文の筆談で意思疎通をしていた、その筆談がそのまま保存され、軸装されたものだ。

ちなみに無学祖元はまず鎌倉の建長寺の往時(大きな禅寺の住職・トップ)を務め、その近くに円覚寺も開山しその往時も兼任、日本の禅宗に多くをもたらした名僧だ。このサイトの映画ファン読者のために付記すると、円覚寺には小津安二郎、木下恵介、田中絹代と小林正樹の墓があり、建長寺には塔頭の回春院に大島渚が葬られている。

ちなみに相国寺には他にも無学祖元の書が伝来しており、今回の展示に含まれている。こちらが堂々たる筆で、公式の文書でもあり、国宝に指定されている。

画像: 国宝・無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵 無学祖元の書の名作4幅を、2幅ずつをI期・II期に分けて展示

国宝・無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵
無学祖元の書の名作4幅を、2幅ずつをI期・II期に分けて展示

高峰顕日は後嵯峨天皇の第二皇子で、無学祖元に師事した。天皇家と禅宗も関わりが深く、有名なところでは亀山天皇が譲位後に禅の修行に励んだ草庵が今の南禅寺になり、花園天皇は譲位後の住居の花園御所を寄進して妙心寺を開いた。今年即位した新天皇が皇太子時代の記者会見でもっとも尊敬する過去の天皇としてその遺訓を挙げていた天皇だ。いやもっとも有名なのはもちろん一休宗純、アニメの「一休さん」でもおなじみの型破りな名僧は、後小松天皇の皇子だ。

画像: 玉畹梵芳 「石竹図」 室町時代 相国寺蔵

玉畹梵芳 「石竹図」 室町時代 相国寺蔵

将軍と禅とお茶

承天閣美術館は相国寺と、一般には「金閣寺」「銀閣寺」として有名な山外塔頭の鹿苑寺と慈照寺の寺宝を収蔵・展示するために建てられた美術館だ。「金閣寺」「銀閣寺」と言えばたいていの人は気づくだろうが、相国寺は室町幕府・足利将軍家とゆかりが深く、開基(創建のスポンサー)は、「金閣」(正式には「鹿苑寺舎利殿」)を作ったことで知られる、三代将軍の足利義満だ。

足利将軍家は初代・尊氏が、のちに相国寺の開山にもなる日本史上屈指の禅の名僧・夢窓疎石を師と仰いで以来、禅宗と深い関わりがあり、夢窓疎石は義満まで三代のブレーンとして活躍した。II期にはその夢窓疎石の一行書「別無工夫」も出品されるが、これは明との正式国交樹立を目指す義満に、夢窓疎石が授けた外交の極意と伝わる。

夢窓疎石墨蹟 「別無工夫(別に工夫なし)」室町時代 相国寺蔵

無学祖元と高峰顕日の会話の筆談からも分かるように、日本でも禅僧ならば中国語の読み書きができて、禅宗寺院は当時の東アジア国際社会の最新事情の最先端の情報や、学術知識が集積する場だった。孫子の「兵法」のような文献も禅寺に入って来ていたので、戦国時代には禅僧の軍師までいた(有名なのが今川義元の軍師・太原雪斎)。こうした禅寺の最先端の情報・文化・教養の一環として、喫茶の文化も将軍家のような武家にも取り入れられて広まってていく。

相国寺に伝来する、日本の禅画・水墨画のパイオニアの1人・周文が描いた有名な「十牛図」はもともと、その義満のために描かれたものだという。

画像: 絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 全10幅を I期・II期に分けて5幅ごと展示 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

絶海中津墨蹟「十牛頌」室町時代 相国寺蔵 全10幅を I期・II期に分けて5幅ごと展示

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵

義満は「十牛図」を、この絵の元になった、牧童と牛との関わりを禅僧の修行と悟りの過程の喩えにした寓話の各節が書かれた書を掛けて、その前に絵を広げて瞑想をしていたという。

将軍が見て、心の支えとしていた絵だと考えると、悟りを表す空白(八つ目の円相)のあと、主人公が布袋の姿になって人間の世界に戻るラストには、より深い意味が見えて来ないだろうか?

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 牧童が逃げた牛を探し出し、最初は暴れる牛をなんとか手なづけ、ついにはとても仲良くなるが、牛はある日突然消えてしまう。悟りを表す空白の円相と、変わらぬ世界を表す山水の後、牧童は布袋に姿を変えて再び世間に戻る。

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 牧童が逃げた牛を探し出し、最初は暴れる牛をなんとか手なづけ、ついにはとても仲良くなるが、牛はある日突然消えてしまう。悟りを表す空白の円相と、変わらぬ世界を表す山水の後、牧童は布袋に姿を変えて再び世間に戻る。

義満の祖父・尊氏が幕府を開いたこと自体、強烈な野心で天下の覇者に、と言うよりは、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗で武家に不満が渦巻く中、清和源氏の系譜のなかでも屈指の名門で、人望もあった尊氏が、後醍醐天皇とその周辺を固めた公家勢力に対抗する武士の利害代表として担ぎ上げられた面が強い。尊氏自身は後醍醐帝を、自分が京都から追放したにも関わらず深く愛していたとも読める、複雑な感情が滲み出た文書も残っているし、その崩御を深く悲しんだ尊氏が、菩提を弔うために夢窓疎石に開かせた寺が、義満の定めた「京都五山」の第一・天龍寺だ(なおこの上に別格筆頭として、亀山上皇の退位・出家後の草庵が基になった南禅寺が来る)。

足利の幕府は将軍を頂点にした上意下達型ヒエラルキーの強力な軍事政権ではなく、将軍は有力武家連合政権の上に置かれたトップ的な位置付けで、直接動かせる巨大な軍事力もなく、政権基盤も決して盤石ではなかったのだ。南朝相手の戦いでは勝利を続けたものの、開幕のわずか10年弱で足利氏内の骨肉の内紛で観応の擾乱も起こったりして、政治はなかなか安定していなかった。

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 四つ目の円相の絵

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 四つ目の円相の絵

そんな困難な立場で三代将軍を継いだのが、義満だった。軍事力を背景に権力を集中させて統治の安定を図るどころか、逆にこれ以上の武力闘争は起こせないのが大前提、と言っていい立場だ。一方で日本社会の全体では、鎌倉時代には日本的な農村共同体が成立し、徐々に農民層とそのリーダー的な在郷の地方武士も力を持ち始めていた。ゆっくりと、しかし着々と発展を続けていた農村では農業技術も進歩し、並行して平安後期からの宋との貿易で大量の銅銭が輸入され続けていたことから貨幣経済も浸透していて、社会構造が激変する過程に成立したのが室町幕府だった。

しかも足利将軍家は、京都政界を警戒して東国の鎌倉に本拠地を置いた源頼朝と違って、その京都のど真ん中を本拠とせざるを得なかった。義満が将軍の公邸=幕府の中枢を置いた「花の御所」は相国寺のすぐ隣、現在の京都御苑の西北すぐそばだ(同志社大学今出川校地の室町キャンパス)。

足利氏は現在の栃木県が本拠の東国武士。それが京都の公家たちと、特に(尊氏の力で天皇位を継承できた北朝とはいえ)天皇と直面して、政治的に渡りあわなけばならなくなったのだ。

画像: 周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 最後の円相、悟りを得た牧童は布袋の姿になって世間に戻る

周文「十牛図」室町時代 相国寺蔵 最後の円相、悟りを得た牧童は布袋の姿になって世間に戻る

そこで義満が目指したのが、経済の活性化で豊かさによって不満を減じ国を安定させること、その具体的な手段のひとつが中国の新たな王朝の明と正式国交を樹立しての貿易振興だった。

中国を中心とする東アジア国際社会の最先端の文明と文化・知識が集積する禅寺は、夢窓疎石のような優れた禅僧のアドバイスや、宗教的な権威も含め、幕府の重要な支えになり、その禅寺から得られる文化の力は、公家や天皇に見下され、してやられないための、重要な政治的武器ともなる。

「十牛図」のラストの、布袋に姿を変えた主人公が世間に戻る姿に、義満が自分の将軍としてやらねばならない仕事を重ね合わせ励ましとし、また戒めともしていたことは、十分にあり得るのではないか?

足利義満と唐物コレクション、「東山御物」の世界

義満は単に武家的なリーダーであるだけでなく公家的な側面も持たねばならず、その強力な支えだったのが禅宗寺院との関わりとそこから学ぶ文化・教養、例えば喫茶の風習、「茶の湯」だった。

画像: 国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵 宋代の天目茶碗や青磁碗は典型的な「唐物」として珍重された

国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵
宋代の天目茶碗や青磁碗は典型的な「唐物」として珍重された

義満の死後に鹿苑寺となった別邸の北山殿は、公家の西園寺家の別邸があった跡地に建てられている。美しい鏡湖池が広がる庭園を整備したのは、公家や天皇その人を招いて自分の和歌や管弦の深い教養と才能を見せつけるための舞台装置でもあったし、さらに「金閣」を建てたことには、明との正式国交を結んだ際の答礼の使者を接待すると同時に、その明に日本の将軍の富と威光を見せつける狙いもあった。

画像: 右)足利義満 一行書「放下便是」室町時代 相国寺蔵 左)夏珪「松下眺望山水図」宋時代 鹿苑寺蔵 夏珪は中国で最高の評価を得ている山水水墨画の巨匠で、日本の雪舟にも大きな影響を与えた

右)足利義満 一行書「放下便是」室町時代 相国寺蔵 左)夏珪「松下眺望山水図」宋時代 鹿苑寺蔵
夏珪は中国で最高の評価を得ている山水水墨画の巨匠で、日本の雪舟にも大きな影響を与えた

禅寺に学んだ喫茶の風習はもちろん、そうした接待で活用できるものだった。義満は中国でも珍しいほど高い質の、宋時代の青磁や天目などの茶碗や、優れた工芸芸術の茶器、そして明の皇帝も驚くような北宋・南宋の文人画の名作を盛んに収集し、贈答品としても活用した。

画像: 唐物小丸壺茶入 東山御物 宋時代 慈照寺蔵 セットになっている専用の盆の緻密な螺鈿細工もいかにも中国風で、日本のスタイルではない

唐物小丸壺茶入 東山御物 宋時代 慈照寺蔵 セットになっている専用の盆の緻密な螺鈿細工もいかにも中国風で、日本のスタイルではない

こうした中国渡来の最高級文物を「唐物」と呼ぶ。天目茶碗の名品(例えば相国寺の「玳玻散花文天目茶碗」のような、今では国宝になっている名碗)は、龍泉窯、汝窯などの最高級の中国青磁と並び、唐物の茶器の典型・最高峰として扱われた。

この義満の唐物コレクションは、孫の八代将軍・義政によって整理・体系化されたことから、義政が将軍退任後に住んだ東山の別荘(現在の慈照寺)の地名にちなんで「東山御物」と呼ばれる。

画像: 砧青磁浮牡丹文香櫨 宋時代 相国寺蔵

砧青磁浮牡丹文香櫨 宋時代 相国寺蔵

足利義政というと「応仁の乱」の時代の将軍だったために後世、特に近代以降は無能な暗君と思われがちで、その生み出した「東山文化」についても政治から逃避して自分の趣味に耽溺したかのように謗られることが多いが、これは足利将軍家の元々の権力基盤の脆弱性と、義満の没後も相次いだ政治的な混乱、それに「東山御物」となった唐物コレクションをそもそも義満がなぜ蒐集したのかを考えれば、あまりフェアな評価ではない。

確かになかなか実を結ばなかったものの、義政は幾度も乱の収束に向けた調停に腐心したし、それも幕府の軍事力の主力を担っていた細川管領家と山名家との争いで、自分の意思で動かせる軍事力を持っていなかった中でだ。そう簡単にうまく行くわけがない。様々な手を尽くし、最終的には妻・日野富子の財力を使って乱を治めたのも、貨幣経済の浸透が進んでいた当時としては、賢明で現実的な判断だろう。

その義政が、将軍家の唐物コレクションの使用マニュアルと格付けをまとめて側近の相阿弥に書かせたのが、以来慈照寺に伝来してきた「君台観左右帳記」だ。この相阿弥がかなり謎の人物でもある。

画像: 伝 相阿弥 座敷飾花の子細伝書、「君台観左右帳記」室町時代 慈照寺蔵

伝 相阿弥 座敷飾花の子細伝書、「君台観左右帳記」室町時代 慈照寺蔵

室町将軍に「同朋衆」と呼ばれる文化美術アドバイザー集団がいたことは知られていて、相阿弥はその代表的人物だが、同朋衆の実態は最近の研究でやっと、徐々に明らかになりつつある。

相阿弥は自身の描いた絵も多くが残り(II期には「瀟湘八景図」の「平沙落雁」が展示・慈照寺蔵)、庭園デザイナーとしても才能を発揮し、京都の各所に相阿弥が作庭したと伝わる庭園がある。美術品格付けでは義政と一心同体とも言えそうな身近さだったと考えられるが、同朋衆は身分的には武士ではなく、「阿弥」という号を名乗っていたのは能の観阿弥・世阿弥のような、中世でいう「かわらもの」だったのかも知れず、つまり江戸時代身分制でいえば「えた・ひにん」階級に当たるのでは、という説もある。いずれにせよ、こと東山に移ってからの義政は、そんな身分差を全く気にしていなかった。

慈照寺の東求堂は晩年の義政の住居も兼ねた持仏堂で、その東北の角に義政が作らせた書斎「同仁斎」は日本家屋の「座敷」の原型と言われる(例年、春と秋に特別拝観が可)。

元祖・座敷でなおかつ元祖・四畳半で、名前の通り「同仁」、つまり身分などの隔てなく同じ思いを共有する者が心を寄せ合う場というのが、この部屋のデザインの基本コンセプトだ。義政はこの書斎で相阿弥と対等に語り合い、相阿弥が連れて来た狩野元信のような絵師らとも対等な時間を過ごしたのかもしれない。中央に炉が切られ、のちの「茶室」の源流でもある。

「君台観左右帳記」も、基本は中国からの伝来の品々について元の価値に従っているようで、その飾り方や使用法マニュアルには義政(あるいは相阿弥)の独創性にあふれる部分も多く、美術品の格付けにも中国とは違った価値観も見られる。例えば天目茶碗の最高位に格付けされた曜変天目は、現存例が日本に3点だけ(一部にだけ窯変が現れたものを含めると4点、MIHO MUSEUM蔵)、中国では窯跡などで破片や壊れた形でしか見つかっていない。どうも失敗作とみなされたか、偶然に現れる青の文様が「不吉」と考えられていた可能性が高い。

それに中国的な序列なら夏珪が最高位となる水墨画の画家だが、義政が最上としているのは中国で必ずしも評価が高かったわけではない、牧谿だった。特に牧谿の描いたふわふわの毛並みの猿は、その後狩野派や長谷川等伯と言ったそうそうたる日本の絵師たちが模倣することになる。

画像: 牧谿 柿栗図 宋時代 相国寺蔵

牧谿 柿栗図 宋時代 相国寺蔵

禅から数寄へ、利休革命のインパクト

義政は応仁の乱にもめげずに自らの感性と祖先から引き継いだものを統合し、今につながる日本文化の原型となった「東山文化」として遺したが、戦国時代に突入してしまっては幕府の政治的・軍事的な没落はいかんともし難く、義政の後の将軍は自分たち自身が京都を追われてしまう状況にも陥った。この京都の荒廃はしかし、逆にその文化が全国に拡散しての新たな発展にも繋がった。

とくに茶の湯の文化は、京都の禅の大寺院や将軍家の保護を離れることで、逆に全国の武家階級に受け入れられて行った。

そして、千利休が登場する。

画像: 千利休 一行書「孤舟戴月」竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 共に鹿苑寺蔵

千利休 一行書「孤舟戴月」竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 共に鹿苑寺蔵

茶杓が日明貿易で輸入された象牙から、日本の茶人たちが自ら竹を削ったものへ、花活は足利将軍たちが愛した宋時代の龍泉窯などの青磁から、竹を切っただけのシンプルで自然素材の個性を活かしたものへ。

画像: 千利休 竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 鹿苑寺蔵

千利休 竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 鹿苑寺蔵

こうした「侘び茶」がいきなり利休から始まったわけではなく、師の武野紹鴎などからの流れも既にあったとは言え、やはり禅宗寺院から始まった歴史の流れをまとめられた文脈で見て来るほどに、利休登場のラディカルさは際立つ。

例えば天目茶碗と天目台という組み合わせも、利休の手にかかるとこうなる。

画像: 紅葉呉器茶碗 銘「龍田」 李王朝朝鮮時代 益田鈍翁 旧蔵 鹿苑寺蔵

紅葉呉器茶碗 銘「龍田」 李王朝朝鮮時代 益田鈍翁 旧蔵 鹿苑寺蔵

だが天目茶碗、建盞が、元は実用本位だからこその丈夫でシンプルな黒釉の器だった原点に立ち返ると、利休の「革命」が決して断絶を意味しなかったことにも、思いが及びはしないだろうか?

例えば、利休が樂家初代の長次郎と共に作り出した「樂茶碗」がある。

画像: 長次郎 黒樂茶碗 銘「喝食」 桃山時代 鹿苑寺蔵

長次郎 黒樂茶碗 銘「喝食」 桃山時代 鹿苑寺蔵

茶の湯が禅寺の修行の一貫として始まったことから見て来ると、黒樂の茶碗が天目の黒の延長上に発想された可能性にも容易に気づくだけでない。一見華やかな赤樂茶碗の赤が実は透明な釉薬を通して自然の赤土の色を見ていることにも思いが至り、そのそぎ落とされた美学の精神性・哲学性にも、より目が向く。

画像: 本阿弥光悦 赤樂茶碗 銘「加賀」 江戸時代 仙叟宗室 所持、松平不昧 旧蔵 相国寺蔵 重要文化財

本阿弥光悦 赤樂茶碗 銘「加賀」 江戸時代 仙叟宗室 所持、松平不昧 旧蔵 相国寺蔵 重要文化財

利休の茶の湯の完成形である二畳台目の茶室は、分かり易い記号的な装飾を排除して空間を抽象化することで、従来の建築空間に組み込まれていた身分の上下も排除して行った。これは義政の「同仁斎」にも通じる精神を究極まで突き詰めたもの、と言えないだろうか?

利休がすべてをいったん削ぎ落とすことで、茶の湯が日本の禅寺に入ってきた当初は修行の一部であった、その精神性を回帰させようとしていたようにも、この展示の流れの中では思えて来る。一方で禅宗の茶にまつわる宗教儀式の形式的な決まりごともまた取り払い、茶を喫することと修行の原点・本質に立ち戻ることの中に、原点に戻ってこその原初的な自由を手にしていたのかも知れない。

利休の到達した「侘び茶」の自由さの中では、たとえば元は茶器として作られたのではないものを転用する「見立て」がよく見られ、利休の弟子たちも好んでやっている。いい例が、織田有楽斎が茶席の水差しとして用い、相国寺の塔頭・慈照院(足利義政の塔所)に寄進した緑釉の四足壺だろう。

画像: 緑釉四足壷 自・織田有楽斎 贈・昕叔顕晫 平安時代 慈照院蔵

緑釉四足壷 自・織田有楽斎 贈・昕叔顕晫 平安時代 慈照院蔵

有楽斎は織田信長の弟だ。この壺を彼は朝鮮青磁だと思い込んで水差しに転用したようだが、実は平安時代の骨蔵器が発掘されたもの、つまり埋葬に使われた骨壷だった。数百年土中にあったので釉薬の色が変化して、朝鮮青磁にも見えるようになったのだろう。

だいたい「侘び茶」で好まれた「高麗茶碗」と総称される、李王朝の朝鮮から輸入された茶碗(井戸茶碗、呉器茶碗、刷毛目茶碗、等)も、本来は庶民の器として作られたものだった。その質素な民具に、日本の茶人たちは抑制されそぎ落とされた美と、宮廷などを相手に高度な技術で作られたわけではないだけに偶然性に大きく左右される見た目の不規則性に「景色」を見出し、江戸時代になると日本からの注文でわざわざ素朴に見えるように作られるまでになった。

元は質素な民具なのに、欠けたり割れたりすると、わざわざ金を使って補修して使われ続けることも少なくない。

画像: 熊川堅手紅葉手茶碗 銘「清泉」 箱書・片桐石州 松永耳庵旧蔵 朝鮮時代 鹿苑寺蔵

熊川堅手紅葉手茶碗 銘「清泉」 箱書・片桐石州 松永耳庵旧蔵 朝鮮時代 鹿苑寺蔵

茶碗が壊れ、補修すると、偶然性の介入でかえって味が増すという考え方は、すでに義政に先例がある。南宋時代の中国・龍泉窯の美しい輪花碗に大きなヒビが入ってしまったので同じものを注文しようと、壊れた碗を送ったところ、最早これだけの品を作る技術が明時代にはないので、との断り書きと共に、ヒビの部分を鉄のかすがいで留めて送り返されて来た。義政はかえって風情が増したと喜んで、かすがいをイナゴに見立てて「馬蝗絆」と名付けて珍重したと言われる(東京国立博物館蔵)。

画像: 井戸茶碗 銘「瀬田」 朝鮮時代 慈照寺蔵

井戸茶碗 銘「瀬田」 朝鮮時代 慈照寺蔵

だが利休的な精神性の問い詰め方、シンプルさと抽象性を突き詰めた厳格さからこそ生まれる精神の自由は、次第に時代のニーズから乖離して行ったようにも思える。

たとえば秀吉は、最初は利休の簡素で仄暗い茶室を好んでいたのに、天下人になると自らの威光を示す派手好みな茶に転じ、「黄金の茶室」などを利休に作らせるようになる。最終的になぜ秀吉が利休に切腹を命じたのか、動機は定かではないが、権力者としての秀吉が求める茶のスタイルを、利休が受け入れなかったゆえの確執もあったのであろうとは、容易に想像がつく。

利休の死後、次第に茶の湯の文化が現実のニーズに合わせて変容する中で、利休が徹底して排除した要素が復活して来る。たとえば野々村仁清の華やかで雅な色絵の茶碗は、およそ樂茶碗を理想とするような美学からかけ離れているが、茶の湯が世俗社会の社交ツールにもなっていた以上は、こういう需要も当然だったのだろう。

画像: 野々村仁清 銹絵寒山拾得図茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵

野々村仁清 銹絵寒山拾得図茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵

とは言え禅寺のためとなると、その仁清も得意とした和風の雅とは正反対にも思える、先述の天目茶碗や、朝鮮の呉器茶碗の写しのような、大陸風でシンプルな茶碗も作っている。その作風のあまり知られていないこうした一面が、歴史的な文脈の中に置かれると、かえってその技術の高さと感性の鋭さ、陶器づくりの哲学が際立って来るのは興味深い。

画像: 野々村仁清 呉器写茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵 高麗茶碗の形を踏襲しながら仁清の轆轤の技術の冴えが際立つ

野々村仁清 呉器写茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵 高麗茶碗の形を踏襲しながら仁清の轆轤の技術の冴えが際立つ

承天閣美術館には鹿苑寺の、金閣と鏡湖池を見下ろす高台にある、金森宗和の茶室「夕佳亭」が再現されている。金森宗和は利休より三世代ほど下の茶人(利休が亡くなった時点で10才くらい)で、桃山時代の終わりから江戸時代にかけて活躍した。

「夕佳亭」は、後水尾上皇の行幸のために建てられたものだと伝わる。お忍びだったせいか精確な記録が残っておらず、建てられた年代も確定していないが、たぶん寛永年間だろう。

画像: 金森宗和 茶室「夕佳亭」再現 原建築 江戸時代 寛永年間

金森宗和 茶室「夕佳亭」再現 原建築 江戸時代 寛永年間

茅葺の、農家風の作りは侘び茶の数寄の趣向を踏まえている。しかし一方で見た目のおもしろさを狙って曲がった材木を強調して使っていたり、開放的でふんだんに光が入る構造や、窓の奇抜な作りなど、利休の美学からかけ離れた部分も多い。「侘び」を基本思想におきながらも「派手」であり「華やか」だ。

なによりも、仄暗く狭い、俗世から隔絶された空間で主と客が人と人として向き合うことを理想とした利休の哲学では考えられないことがある。「夕佳亭」の基本構造は三畳の茶室だが、利休であれば躙り口を設けたはずの面に、別棟のようなものが斜めに追加されている。竹のスノコを挟んで床が一段高いところに畳敷きの上座が設けられ、天井も凝った作りだ(写真右手)。後水尾上皇の御座所である。

画像: 禅から数寄へ、利休革命のインパクト

義政や利休が人間がただの人間としてひたすら対等に向き合う場の茶席を追求したのに対し、身分制度が明確に取り込まれているのだ。

近世の茶の湯の影の主人公? 後水尾天皇と相国寺

承天閣美術館には鹿苑寺の大書院の一部も再現されており、保存のために普段は大書院から取り外されている伊藤若冲の襖絵の展示コーナーになっている。若冲は後水尾上皇の100年以上後の時代なのでこの襖絵は行幸当時とは違うものの、今展示されている一之間の上段もまた、かつて上皇が座った場所のはずだ。

画像: 伊藤若冲 鹿苑寺大書院障壁画・一之間「葡萄小禽図」 江戸時代 宝暦9(1759)年 鹿苑寺蔵 重要文化財

伊藤若冲 鹿苑寺大書院障壁画・一之間「葡萄小禽図」 江戸時代 宝暦9(1759)年 鹿苑寺蔵 重要文化財

江戸時代初期の後水尾天皇・上皇は、天皇の歴史の中でも屈指の傑出した、そして興味深い人物だ。三男だったのに皇位を継いだのは、父・後陽成天皇の反対(兄に譲位するつもりだった)を押し切った徳川家康の意向だった。この即位時から父との激しい確執も抱え込むことになった後水尾帝は、朝廷の統制を強めようとする幕府、特に二代将軍・秀忠と時に激しい応酬も繰り返し、抗議の意味を込めて何度も譲位を申し出る。最後には幕府にあえて断らないまま、突然のタイミングで退位を宣言し、幕府に反対・妨害する隙を与えずに実行した。

一方で妻の中宮・徳川和子は秀忠の娘で三代将軍・家光の妹だった。彼女の仲介もあって兄の家光とその子・家綱の幕府は、上皇になった後水尾のために修学院離宮と仙洞御所(京都御苑内)を造営・整備している。

政治的には傑出した交渉力を持ち、人望も集め、時に頑固で激しい気性も見せた後水尾は、大変な教養を誇り、勉強熱心な趣味人でもあり、退位後には寛永期の京都文化を中心になって牽引することになった。自らの理想郷を具現しようとした修学院離宮(ちなみにこの離宮には田んぼも組み込まれ、近隣の農民が農作業を担当するなど、一般庶民もかなり出入りができた)を作るに当たっては色々な庭園をかなり研究している。鹿苑寺に行幸した時にも、上皇は熱心にその庭を見て回って修学院離宮の構想を練ったのかも知れない。なにしろ足利義満が幕府の命運をかけたとも言える鹿苑寺の庭園は、鏡湖池を中心に北山の峰々を借景とした見事な傑作であり、「夕佳亭」から見下ろした眺望もまた格別の美しさだ。

一之間の飾り棚 伊藤若冲「葡萄小禽図」 上の小襖4面は住吉如慶の筆なので、後水尾院行幸時のものか?

茶の湯がらみの後水尾院の逸話では、相国寺のすぐそばに宮中の和歌と漢詩の伝統を継承する役目を担った冷泉家の屋敷があり、平安時代以降の膨大な量の貴重な書が保存されて来た。江戸時代に入って茶の湯が大ブームになると、後水尾は同家の保有する書が茶席の掛軸として狙われ、売られて分散してしまうのでは、と危惧し、100年間蔵を開けることを禁ずる「勅封」を行なっている。

相国寺とも縁が深く、同時代の相国寺の往時の鳳林承章は、上皇の母方の親戚だった。この展覧会の後半展示の中心となるのが、その鳳林の詳細な日記「隔蓂記」で、相国寺がいかに広範な人脈を持ち当時の文化的な中心になっていたのかの、貴重な記録になっている。

画像: 鳳林承章 「隔蓂記」30冊 江戸時代 寛永12(1635)年〜寛文8(1668)年 鹿苑寺蔵

鳳林承章 「隔蓂記」30冊 江戸時代 寛永12(1635)年〜寛文8(1668)年 鹿苑寺蔵

交友範囲がすごい。後水尾院を通して公家社会と密接な関係があった一方で、金森宗和、千宗旦ら茶人たちと広く交流し、江戸で徳川幕府初代御用絵師となっていた狩野探幽(守信)や、相国寺も多くの作品を所蔵している野々村仁清とは直接に交渉があって、自らが絵や茶道具の製作も自ら依頼した際の具体的な注文内容まで、しっかり日記に残しているのだ。

画像: 金森宗和の竹花入と、その花入れについて注文主だった鳳林承章に宛ててた手紙 江戸時代 承応元(1652)年 鹿苑寺蔵

金森宗和の竹花入と、その花入れについて注文主だった鳳林承章に宛ててた手紙 江戸時代 承応元(1652)年 鹿苑寺蔵

画像: 「隔蓂記」に書かれた、金森宗和に竹を送って花入れの製作を依頼した経緯 江戸時代 承応元(1652)年

「隔蓂記」に書かれた、金森宗和に竹を送って花入れの製作を依頼した経緯 江戸時代 承応元(1652)年

すでに紹介した野々村仁清による天目茶碗も、鳳林承章が仁清に依頼していることが「隔蓂記」から分かるそうだ。江戸の狩野探幽に絵絹を送って4枚の絵を依頼し、完成品が送られて来ると表具師に中国風の座屏に仕立てるよう依頼し、同時に探幽に礼状を送っている。

画像: 狩野探幽 「鳩図座屏」(反対側は鶺鴒) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵

狩野探幽 「鳩図座屏」(反対側は鶺鴒) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵

画像: 狩野探幽 「尾長鳥図座屏」(反対側は鶏図) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵 上の写真の鳩図の座屏とワンセットで、4枚の絵を鳳林自身が探幽に絵絹を送って注文、完成した時には丁寧な令状も送っている

狩野探幽 「尾長鳥図座屏」(反対側は鶏図) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵
上の写真の鳩図の座屏とワンセットで、4枚の絵を鳳林自身が探幽に絵絹を送って注文、完成した時には丁寧な令状も送っている

また「隔蓂記」では鳳林承章がそうした知人・友人たちを招いた茶席についても、どんな道具を使ったのかまで細かく記録が残り、その実際の茶道具が展示されている。

画像: 砧青磁茶碗 銘「雨龍」 宋時代13世紀 鹿苑寺蔵 「隔蓂記」によると寛文7(1667)年に鳳林が大名茶人の片桐石州を旅先で訪ねた際に石州から贈られたものが

砧青磁茶碗 銘「雨龍」 宋時代13世紀 鹿苑寺蔵

「隔蓂記」によると寛文7(1667)年に鳳林が大名茶人の片桐石州を旅先で訪ねた際に石州から贈られたものが

鳳林の日記に言及がある寺宝の書の中には、法会で使ったと記録がある、無学祖元の名筆もある。

展覧会の最初の方にあった筆談と比較するのもおもしろいが、実に堂々たる力強い字に圧倒されるこの名筆、もちろん相国寺の名宝中の名宝のひとつで、国宝に指定されている。

画像: 無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵 4幅のうち2幅ずつを I期・II期に分けて展示

無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵 4幅のうち2幅ずつを I期・II期に分けて展示

天皇家とも縁故がある名家の出身で、詳細な日記をつける几帳面さ、そしてもちろん大きな禅寺のトップという立場で、絵や茶器の注文内容からも高い教養が読み取れるが、しかし鳳林自身は気さくでユーモラスで親しみやすい人柄でもあったようだ。

画像: 国宝 無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵

国宝 無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵

交友範囲の広さも親しみやすい丁寧な人柄と人付き合いの良さ、細やかな気配りの賜物だったのかも知れないし、自身の筆になる絵や、最晩年のちょっとおどけた自虐的な言葉を記した愚痴のような手紙も展示されていて、使った茶道具に見られる美意識の高さ共々、人柄が察せられる。

鳳林承章 自画賛 「布袋図」(部分・杜子美図と双幅) 江戸時代 鹿苑寺蔵

鳳林の時代に、後水尾院は相国寺と相当に深い関わりを持ったようだ。天皇としての在位中は記録に残る限り御所を出たのはたった一度、大御所になった秀忠と新将軍に就任したばかりの家光に招かれて二条城を訪れた時だけだが、譲位後の鹿苑寺への行幸も公式な朝廷の記録には残っていないし、修学院離宮との往復も同様だ。つまりそれだけ、退位した上皇は自由になれたわけでもあり、しかも主な住居だった仙洞御所(現在の京都御苑内)は相国寺の目と鼻の先だ。相国寺に鳳林をお忍びで訪れたり、逆に鳳林が仙洞御所に出向くこともあったのかも知れない。

そうした深い関係の証なのか、相国寺の境内の法堂の西、浴室の側に、後水尾院の死後に頭髪と歯を埋めて菩提を弔った「髪歯塚」がある。

画像: 近世の茶の湯の影の主人公? 後水尾天皇と相国寺

この「後水尾天皇髪歯塚」が実は、承天閣美術館の次の、来春の展覧会「いのりの四季」の重要なテーマに関わって来るそうだ。天皇家と相国寺の知られざる歴史が明かされるようだが、これについては詳しい内容も含めてまた次回のお楽しみとして、今は後水尾上皇が日本の「天皇」の歴史の中でも、平安末期の後白河上皇、鎌倉初期の後鳥羽上皇と並ぶもっとも傑出した人物で、強い個性も含めてとても興味深いことを、改めて強調しておきたい。

国宝・玳玻散花文天目茶碗の宇宙

最後に再び、唐物の名品中の名品「玳玻散花文天目茶碗」に触れておきたい。

画像: 蘭渓道隆 墨跡「宋元」鎌倉時代 鹿苑寺蔵 蘭渓道隆は鎌倉幕府が中国から招いた禅僧、鎌倉・建長寺の開山

蘭渓道隆 墨跡「宋元」鎌倉時代 鹿苑寺蔵 蘭渓道隆は鎌倉幕府が中国から招いた禅僧、鎌倉・建長寺の開山

展覧会の最後のセクションは「数寄者の茶」と題され、鎌倉時代に禅寺に喫茶の風習が取り入れられて以来の長い歴史を経て、近世の日本で大ブームかつ基礎教養となった「茶の湯」を楽しみ、その美意識を過去に学びつつ新たに突き詰めて行った数寄者たちやその子孫が、相国寺に寄進した名品を通して、茶の湯文化の完成を見せる構成になっている。

画像: 唐物平手肩衝茶入 添・若狭盆 宋時代 鹿苑寺蔵

唐物平手肩衝茶入 添・若狭盆 宋時代 鹿苑寺蔵

画像: 嵯峨蒔絵藤の絵棗 堅叟宗守在判 桃山時代 鹿苑寺蔵

嵯峨蒔絵藤の絵棗 堅叟宗守在判 桃山時代 鹿苑寺蔵

画像: 小堀遠州 竹茶杓 銘「さらさ」 江戸時代 慈照寺蔵

小堀遠州 竹茶杓 銘「さらさ」 江戸時代 慈照寺蔵

画像: 長次郎 赤樂茶碗 銘「天狗」桃山時代 鹿苑寺蔵

長次郎 赤樂茶碗 銘「天狗」桃山時代 鹿苑寺蔵

画像: 芦屋無地真形釜 鎌倉時代 相国寺蔵 重要文化財

芦屋無地真形釜 鎌倉時代 相国寺蔵 重要文化財

画像: 楚石梵琦・賛 黙庵霊渕・筆 「柳鷺図」元時代 14世紀 慈照寺蔵

楚石梵琦・賛 黙庵霊渕・筆 「柳鷺図」元時代 14世紀 慈照寺蔵

玳玻散花文天目茶碗も展覧会のいわば「大トリ」として、この最後のコーナーに登場する。かつて松江藩七代藩主・松平治郷が愛蔵していたものだからだ。治郷は江戸時代後期に財政難に陥った藩政を立て直した有能な藩主だったが、今日では「不昧」という茶人としての号の方が遥かに有名だろう。

以前にも見る機会はあった名碗だが、今回の展示では、かつてなく美しい。

画像1: 国宝・玳玻散花文天目茶碗の宇宙

特に圧巻が、内側の色彩の豊かさだ。口縁近くの青のラインがこんなに鮮やかに見えたことはなかったし、見込みにはピンクと黄色の極小の斑点が無数に広がり、それが距離を置いて見ると混じり合って見えて、独特の気品のある色合いを産み出しているのも、こんなに鮮やかだったとは

画像2: 国宝・玳玻散花文天目茶碗の宇宙

この鮮烈な展示、実は照明に仕掛けがある。今回、特別に照明付きのケースを新調し、光の波長をほぼ太陽光のそれに合わせたのだという。

つまりこの鮮やかな美しい色彩こそが過去の、電気の人工照明がなかった時代にこの碗を手にし、使い、愛好した人々が見ていた色、ということだ。

画像: 国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵

国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵

基本情報

日時
Ⅰ期 2019年10月5日(土)~12月22日(日)
Ⅱ期 2020年1月11日(土)~3月29日(日)
10:00~17:00(入館は16:30まで)
会期中無休
拝観料
一般 800円
65歳以上・大学生 600円
中高生 300円
小学生 200円
※一般の方に限り、20名様以上は団体割引で各700円
主催
相国寺承天閣美術館、日本経済新聞社、京都新聞
協賛
一般財団法人 萬年会
協力
MBS

関連イベント

講演会「長次郎と光悦とわたし」
講師:樂 直入(陶芸家 十五代樂吉左衞門)
日時:2020年1月25日(土) 14:00~15:30 開場 13:30
定員:当日先着80名講師

講義「禅寺に息づく茶」
2020年2月22日(土) 14:00~
講師 本多潤子(当館学芸員)
ギャラリートーク
2020年2月1日(土) 14:00~
担当 本多潤子(当館学芸員)

「茶の湯ー禅と数寄」展 cinefil チケットプレゼント

下記の必要事項、読者アンケートをご記入の上、「茶の湯ー禅と数寄」チケットプレゼント係宛てに、メールでご応募ください。
抽選の上5組10名様に、ご本人様名記名の招待券をお送りいたします。
この招待券は非売品です。転売、オークションへの出品などを固く禁じます。

応募先メールアドレス  info@miramiru.tokyo
応募締め切り    2019年12月11日(水)24:00

1、氏名
2、年齢
3、当選プレゼント送り先住所(応募者の電話番号、郵便番号、建物名、部屋番号も明記)
  建物名、部屋番号のご明記がない場合、郵便が差し戻されることが多いため、当選無効となります。
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8、連載で、面白くないと思われるものの、筆者名か連載タイトルを、3つ以上ご記入下さい(複数回答可)
9、よくご利用になるWEBマガジン、WEBサイト、アプリを教えて下さい。
10、シネフィルへのご意見、ご感想、などのご要望も、お寄せ下さい。
また、抽選結果は、当選者への発送をもってかえさせて頂きます。

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